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充実の冬シーズン、コナー・ビーズリー騎手がUAEリーディング争いで奮闘中

悲劇的な落馬事故で将来を危ぶまれてから約10年。コナー・ビーズリー騎手の努力は遂に報われ、ゴールデンヴェコマと共に大舞台への切符を手にしようとしている。

充実の冬シーズン、コナー・ビーズリー騎手がUAEリーディング争いで奮闘中

悲劇的な落馬事故で将来を危ぶまれてから約10年。コナー・ビーズリー騎手の努力は遂に報われ、ゴールデンヴェコマと共に大舞台への切符を手にしようとしている。

コナー・ビーズリー騎手は現在、今シーズンのUAEリーディングジョッキーの座を狙う、熾烈な争いの最中にいる。しかし、困難な戦いに打ち勝つことは彼の得意分野でもある。

2月の最序盤、ビーズリーの長らく守ってきた首位の座だが、前年リーディングのタイグ・オシェア騎手が脅かし始めた。しかし、王座に挑戦する彼を侮ることはできない。なぜなら、彼がどんな道のりを歩んできたかを知ればその強さが理解できるからだ。

ビーズリーの出身地は、地理的に言えばイングランド北東部の労働者階級の地域で、かつては競馬界の才能の宝庫として知られていた。現在ではやや影が薄い場所だが、この地からは伝説的なホースマンや障害競走のチャンピオンホース、グランドナショナルやゴールドカップの勝ち馬、そして優秀な平地競走馬が数多く輩出されている。

しかし、ビーズリーの物語はそれだけにとどまらない。彼は競馬場での悲惨な落馬事故により生死の淵に立たされながらも、見事に復活を遂げた“幸運な”騎手の一人なのだ。

現在、ビーズリーはゴールデンヴェコマとの活躍によりUAEで脚光を浴びている。1月のメイダン競馬場で行われたG3・UAE2000ギニーを制したこの馬で、今後サウジアラビア・リヤドでのG2・サウジダービー、そして4月のメイダンでのG2・UAEダービーと、さらに大きな舞台での活躍も期待されている。

「彼は本当に素晴らしい馬で、ボス(アフマド・ビン・ハルマシュ調教師)がアメリカで素晴らしい買い物をしてくれました。最初から良い兆しを見せてくれていました」とビーズリーは語る。この牡馬は2024年のOBSスプリングセールにて、9万ドル(約1,350万円)で落札された。

「ドバイでは全ての馬がトライアルを受ける必要があるのですが、彼はそこで素晴らしい走りを見せてくれました。800メートルの短距離でしたが、スムーズに走ってくれました。メイダンでのデビュー戦では内枠からの発走で、砂を被ったり幼さが目立ったりして3着でした。でも次の1400メートル戦では見事な勝利を収め、そしてギニーでもしっかり勝ってくれました」とビーズリーは振り返る。

Connor Beasley looks on during the Dubai Racing Carnival at Meydan
CONNOR BEASLEY / Meydan // 2025 /// Photo by Francois Nel

30歳のコナー・ビーズリーは、イギリス北部の競馬サークルではよく知られた存在で、時折南部での大舞台にも参戦している。しかし、ここ数シーズンの間に彼の名はUAEでも広く知られるようになった。それには、2人の調教師に厩舎のファーストジョッキーとして支えられている背景というがある。

サラブレッド専門のアフマド・ビン・ハルマシュ調教師と、純血アラビアン専門のオマーン人調教師、イブラヒム・アル・ハドゥラミ調教師だ。

「アフマド・ビン・ハルマシュ調教師は素晴らしいボスで、良い馬をたくさん揃えているし、毎シーズンさらに質の高い馬を手に入れているように感じます」とビーズリーは語る。

「イブラヒム・アル・ハドゥラミ調教師の馬もすべて乗っていますし、1月にはアブダビで行われたG1・ザプレジデントカップを(ヘロスデラガルデで)勝ちました」

この冬の収穫は実に大きく、彼が騎乗した馬の獲得賞金はすでに870万ディルハム(約230万ドル)に達しており、これは昨シーズン全体の獲得賞金より200万ディルハム(約54万4,000ドル)も多い。

昨シーズンのUAEジョッキーランキングでもビーズリーはリーディング争いの中心にいた。最終的には42勝を挙げ、50勝でタイトルを獲得したタイグ・オシェア騎手に迫る勢いを見せた。もしビーズリーがシーズン終盤の4開催を欠場しなければ、その差はさらに縮まっていたかもしれない。その時、彼はイギリスの芝シーズン開幕に向けて、マイケル・ドッズ厩舎のチームと共に準備をするため、故郷のダラムに戻っていたのだ。

「ドンカスター開催の前に帰って、シーズンが始まる前に準備をしたかったんです」とビーズリーは説明する。

この一言だけでも、彼がキャリアを通じて支えてくれた人々への忠誠心を忘れていないことが伝わってくる。特に、故郷ダラムのデントンホールステーブルに厩舎を構えるドッズ調教師には、深い感謝の念を抱いている。彼は16歳で学校を卒業すると、すぐにこの厩舎の門を叩いた。

「彼はドバイで良い仕事をしていますよ」と、名牝スプリンターのメッカズエンジェルやマブスクロスをG1制覇に導いたことで知られるドッズ調教師は語る。

「成功を望むのは当然ですが、ドバイでの活躍が彼を変えることはありません。帰国すればまた一生懸命働くでしょうし、彼は努力家でうちの厩舎にとって大きな戦力です」

「コロナの時期を覚えていますよ。競馬が中止で彼は特にやることがなかったんですが、それでも厩舎に来て調教コース周りの草刈りをしていたんです。じっと座って何もしないなんてことは絶対にしない人です。常に何かしら働いていたいタイプで、それが成功の理由でしょうね。成功したいという強い意志があって、そのために努力を惜しまないんです」

ドッズ調教師はビーズリーの成長に大きく貢献してきた人物の一人であり、特にビーズリーがキャリア初期に経験した大怪我からの復帰には欠かせない存在だった。

北部注目の見習い騎手から正式なプロ騎手へとステップアップし始めていた当時を回想するビーズリーは、「すべて順調に進んでいたんです」と振り返る。

「見習い減量を取るまでに2シーズンしかかからなかったので、かなり順調でした。12月に減量が取れてプロになり、その翌年の7月、2015年7月7日でした。あの落馬事故が起きたんです」

ビーズリーはその日付をはっきりと言い表す。それもそのはずだ。その日の午後、ブライアン・スマート厩舎のカンブリアナに騎乗中、彼は悲惨な落馬事故に遭い、脳出血、頭蓋骨骨折(6枚のプレートで固定が必要)、そして脊椎骨折という重傷を負った。彼はウォルヴァーハンプトン競馬場からヘリコプターで病院に搬送され、10時間に及ぶ手術を受けた。

「その時のことは全く覚えていません」と彼は語る。「集中治療室で1週間ほど仰向けに寝かされていましたが、再び立ち上がって競馬に戻れないなんて考えたこともありませんでした。でも、周囲の人たちはその可能性を心配していましたね」

「立ち上がった後も、5~6ヶ月間は首と背中に固定具を付けていました。でも、それが外れた後はジャックベリーハウス(負傷騎手基金が運営するリハビリ施設)の素晴らしい設備のおかげで復帰が早まりました。もしあの施設と支援がなければ、8ヶ月で復帰するなんて絶対に無理だったでしょう」

彼の復帰を支えたのは、家族や妻、子供たち、そして多くの友人たちだった。

「復帰後も調子を取り戻すまでには時間がかかりました。でも、一度流れに乗ると全てが順調に進みました」

Connor Beasley partnering Commanche Falls to victory in the Stewards' Cup at Goodwood
CONNOR BEASLEY, COMMANCHE FALLS / G1 Stewards’ Cup // Goodwood /// 2022 //// Photo by Alan Crowhurst

マイケル・ドッズ調教師は、コナー・ビーズリーに数多くの騎乗機会を提供してきた。2021年と2022年には、ドッズ厩舎の人気スプリンター、コマンチフォールズに騎乗してグッドウッドの名物競走、スチュワーズカップを連覇する快挙を達成している。

「コナーは非常に強い騎手だ」とドッズ調教師は語る。「馬をしっかりとコントロールできるし、全体的に見ても非常に優れた騎手だよ。余計なことはせずシンプルに乗ってしっかり結果を出す。でも何より彼が勤勉なのが素晴らしい。真面目に働くし、成功への集中力が違うんだ」

さらに2024年6月には、ブライアン・エリソン厩舎のワンスムースオペレーターに騎乗して、地元ニューカッスルで開催されたノーサンバーランドプレート(通称“ピットマンズダービー”)を制覇。これは北東イングランドにかつて広がっていた炭鉱地帯にちなんで名付けられた競走であり、ビーズリーの家族が深く関わってきた競馬の歴史とも強く結びついている。

ビーズリーの父、ショーンはエリソン調教師のもとで働き、また、数々のG1勝利を挙げたハワード・ジョンソン元調教師の厩舎でも経験を積んでいた。このジョンソン氏は、ビーズリーの故郷スペニモア近郊のレジングソーンで偉大な記録を打ち立てた伝説の名伯楽、アーサー・スティーブンソンの弟子でもあった。

ビーズリーの祖父、ボビー・ビーズリーもまた、スティーブンソン厩舎の助手として活躍し、1987年のチェルトナムゴールドカップでのザシンカーの勝利をはじめ、ジュライカップ、ナンソープS、ミドルパークS、ギムクラックS、チャレンジSといった大レースでの成功にも貢献してきた。

しかし、スティーブンソンの栄光を極めた厩舎は1992年の彼の死後、次第に縮小し、ジョンソン調教師がクルックに構えた厩舎や、近隣のビショップオークランドにあったデニス・スミス調教師のグランドナショナル制覇を成し遂げた厩舎もすでに姿を消している。

「今はもう何も残っていません。アーサー・スティーブンソンやデニス・スミスのような存在がかつてはあったけど、今はすべて消えてしまいました」と、ビーズリーは寂しげに話す。

一方、母親のスーザンも競馬界で働いており、ノーマン・メイソン調教師やその後厩舎を引き継いだリチャード・ゲスト調教師のもとでキャリアを積んでいた。ブランセペスマナーファームは現在、高級住宅地に変わってしまったが、ここからは2001年のグランドナショナルを制したレッドマローダーが送り出された。当時14歳のビーズリーは母親に連れられ、ゲスト厩舎に通い乗馬を経験していた。

「そこでよく馬に乗りました。レッドマローダーに乗ったことも覚えています」とビーズリーは懐かしそうに語るが、当時は騎手になること、それも平地競馬の騎手になることはあまり考えていなかったという。

「ポニーはずっと飼っていて、ポニークラブにも入っていましたし、狩猟やポニー競馬も少しやりました。でも、どちらかというと障害競走に馴染みがあったので、平地の騎手になるなんて思いもしませんでした。本当は装蹄師になりたかったんです。すごく興味があってそれに夢中だったんですが、学校の成績はあまり良くなくて。今思うのは、やっぱり物事はなるべくしてなるものなんだなって。気が付けば、すべてがうまく進んできた感じです」

UAEでの冬のシーズンが証明しているように、コナー・ビーズリーの成功は今後のイギリス競馬シーズンでもさらなるチャンスを呼び込む可能性が高い。しかし、イギリス国内では南部拠点の騎手たちに注目が集まりやすく、どれだけ努力してもそれが直接的な結果につながるとは限らないことをビーズリー自身も理解している。

「イギリスに戻ると、どうしても『北部の騎手』として見られてしまうんです。でも、それが自分の育ってきた場所であり、誇りでもあります」と彼は語る。「僕はキャリアのスタートからずっとドッズ調教師と一緒にやってきましたし、イギリスに帰れば週に二回は必ず厩舎に顔を出しています。僕の忠誠心はドッズ調教師にしっかりと向けられていますし、彼がいなければ今の自分のキャリアは築けていなかったでしょう」

現在のビーズリーは、UAEの騎手ランキングでトップ2に位置し、故郷の北東イングランドから遠く離れた地でもその名を轟かせている。しかし、彼の心の奥底には今もなお深く、しっかりと故郷への誇りが根付いている。そして数ヶ月後には再びデントンホールの調教場に戻り、新たなシーズンに向けた準備に取り掛かることだろう。

ビーズリーの将来がどのような道をたどるのかは多くの要素に左右される。しかし、もしゴールデンヴェコマが彼を大舞台へと導くことができれば、この“今”という瞬間が、努力を惜しまない『北部の騎手』ビーズリーにとって、飛躍の始まりとなるのかもしれない。

デイヴィッド・モーガン、Idol Horseのチーフジャーナリスト。イギリス・ダラム州に生まれ、幼少期からスポーツ好きだったが、10歳の時に競馬に出会い夢中になった。香港ジョッキークラブで上級競馬記者、そして競馬編集者として9年間勤務した経験があり、香港と日本の競馬に関する豊富な知識を持っている。ドバイで働いた経験もある他、ロンドンのレースニュース社にも数年間在籍していた。これまで寄稿したメディアには、レーシングポスト、ANZブラッドストックニュース、インターナショナルサラブレッド、TDN(サラブレッド・デイリー・ニュース)、アジアン・レーシング・レポートなどが含まれる。

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