シドニー郊外のムスコカファームでは、ゴールデンシックスティが到着する前からその評判が広まっていた。香港のシャティンにある厩舎から渡されたメモの中に、このような注意書きがあったからだ。
「噛み癖があります。気をつけてください」
しかし、川沿いの放牧地をゆったり歩くゴールデンシックスティを見ると、その注意書きは間違いなのではと思ってしまうほどだ。1億6717万600香港ドル(約2150万ドル)を稼いだ、世界賞金王の香港最強馬は穏やかな様子だった。
もちろん、ゴールデンシックスティの厩務員への『噛み癖』は本当だ。これまで31戦全てで手綱を取ってきたヴィンセント・ホー騎手は、毎日馬房を訪れてニンジンをプレゼントしていた。しかし、その際に噛まれた経験もあるという。
リラックスできる環境
ムスコカファームのゼネラルマネージャー、ロビー・ヒューイットソン氏はこの牧場で働いて4年目になるが、ゴールデンシックスティの変化も驚きではないという。
「この牧場に来た馬はみんなそうなんです。リラックスできる環境なので、馬もオフモードになれるんでしょうね。長旅を終えて、ホースで水をかけて顔を洗ってあげたら、すぐにリラックスしてくれました。困ったことはありませんでした」
そう語るヒューイットソンは、ニュージーランドの有名な競馬一家であるオサリバンファミリーの下で働いた経験もあるベテランだ。
もしかすると、今は勝負の世界にいるわけではなく、ゆっくりと休める時間なのだとゴールデンシックスティ自身も理解しているのかもしれない。確かに、この『のんびり』できる環境は休養にはピッタリだ。ホークスベリーのそびえ立つような花崗岩の岸壁は自然の劇場を形作り、時には不自然なほど静かな静寂の空間を創り上げている。
ムスコカファームのアシスタントマネージャー(検疫担当)、リサ・オシェア氏が頭絡を片手に迎えに行くと、ゴールデンシックスティはそれに協力するかのように頭を下げた。280エーカーの上質な放牧地での生活は、この馬にとって最高の環境だ。
ゴールデンシックスティは今でも現役馬さながらの引き締まった馬体を保っている。毛並みは今でも輝きを保っており、歩くスピードはゆったりとしているが、その歩様はキビキビとしている。
ゴールデンシックスティは7月に引退を発表、2024年のチャンピオンズマイルがラストランとなった。引退後は北海道のノーザンホースパークで余生を過ごすが、検疫要件を満たすためオーストラリアに3ヶ月間の滞在を予定している。
本来、ゴールデンシックスティはアローフィールドスタッドに滞在する予定だったが、急な変更でムスコカファームが滞在先となった。この牧場はオーストラリア政府公認の検疫馬房が設備として備わっており、香港、中国本土、マレーシア、そして目的地の日本にも直接輸送することができる。
エアロヴェロシティの変化
ムスコカファームが気難しい馬でもリラックスできる環境だと示すもう一つの証拠は、エアロヴェロシティの存在だ。2014/15シーズンは半年の間に香港、日本、シンガポールの3カ国でG1制覇、現役時代はワールドクラスのスプリンターとして恐れられたこの馬だったが、実は競馬場の外でも別の意味で恐れられていた。
厩舎では調教師の腕を骨折させたこともあり、調教やレースのために鞍を着けるだけでも一苦労。当時この馬を担当していたピエール・ン調教助手が、自身のスキルを全て投入してやっと装鞍できるという気性難だった。コースに出た後のことは言うまでもない。
しかし、ここムスコカファームでの『エアロくん』はベテランの馬車馬のように落ち着いている。同じく香港で活躍した名馬のダンエクセルと仲が良く、彼の側を離れないという。
「彼らは親友で、とても仲良しなんですよ」とヒューイットソンは明かす。2015年のシンガポール、エアロヴェロシティはクリスフライヤー国際スプリント、ダンエクセルはシンガポール航空国際カップをそれぞれ同じ日に制して以来の間柄だ。
その日の祝賀会で2頭のオーナー、ダンエクセルのデイヴィッド・ベーム氏とエアロヴェロシティのダニエル・ヤン氏は意気投合し、2頭は同じ牧場で余生を送ることになった。


名馬が育った場所
ムスコカファームは、ファストフード店のフランチャイズを経営するボブ・ラポイント氏と妻のウェンディ氏によって1969年に設立され、2011年に売却された。1800mの芝コース、2800mの砂トラックを備え、発馬ゲートやコースのラチも完備している。若い馬の育成にはピッタリの牧場だ。クリス・ウォーラーのような有名な調教師もこの施設を利用しており、毎年70頭以上の馴致を担当している。
「世界中の施設を見てきましたが、この牧場はトップクラスだと思います」とヒューイットソンは話す。
「ここ10年で、3頭のゴールデンスリッパー馬を輩出してきました。セブリング(2008年)、モスファン(2014年)、そしてエスティジャーブ(2018年)です。ジ・エベレストを連覇したレッドゼルも、ここをプレトレーニングとして使っていました」
(筆者注:プレトレーニングは厩舎に入る前の外厩での軽い調教のこと)
「今年は、ここで馴致や初期の調教を行った4頭がG1馬になってくれました。サウスポートタイクーンはオーストラリアンギニーとマニカトS、マナールはサイアーズプロデュースSを制し、プライベートライフはコーフィールドギニーを勝つ前にここでプレトレーニングを行っていました」
ここには素晴らしい馬たちが揃っているが、やはり一番のスターはゴールデンシックスティで間違いない。彼が『最高級スイート』の放牧地でリラックスしている間、少しでもその偉大な名馬から学びを得てほしいと、放牧や香港行きの検疫のためこの牧場に愛馬を預けているオーナーたちは思っていることだろう。
別れ際、「彼を見てください」とヒューイットソンは敬意を込めて語ってくれた。
「彼は特別な馬です……こういう偉大な馬は特別な何かを持っているんです。良い馬っていうのはやっぱり他と違って、頭も冴えているし、オーラが違います。ここに来たときのゴールデンシックスティは本当に凄かった。長年、厩舎暮らしだった馬を放牧地に放つのは不安も少しありました。ですが、馬運車から降りてきた彼は馴染みの場所のように落ち着いていたんです」
「この牧場では、他の馬たちと同じようにたくさん可愛がられると思います。幸せな馬だと思います」