カリフォルニアでの大一番の翌朝、メイデイレディ陣営には多くの話し合いが必要だった。ジョセフ・リー調教師、馬主であるケイティーリッチ・ファームのジミー・ドイル氏、その他リー家の面々は、デルマー競馬場の厩舎地区にあるカフェテリア『キッチン』での朝食会を終えた時、日本のことを考えていた。リー調教師はグランドスタンド側でのカメラ撮影インタビューを求められ、待機している車に向かって急いで出て行った。
「30分ほどで厩舎に戻るので、そこで待っていてもらえませんか?」と彼は尋ねた。
少数精鋭のチーム
その土曜の朝、『BB』の番号が振られた厩舎群に戻ると、リー調教師の息子のアンソニー氏が厩舎の周りでメイデイレディの曵き運動を行っていた。彼らは、同じくニューヨークを拠点とするシェリー・ドゥヴォー調教師の管理馬、モアザンルックスも収容されている馬房の前を通り過ぎた。その馬はこの日、厩舎の静かな一角にブリーダーズカップマイル制覇の栄光をもたらすことになる。
リー調教師のチームは、自身の厩舎の主力馬が欧州の傑出した2歳馬であるレイクヴィクトリアに次ぐG1・BCジュベナイルフィリーズターフでの2着入線で、ほぼ完全な喜びに包まれていた。この成績は価値あるG1での入着実績となり、17万米ドルの賞金も獲得した。
たった5頭の管理馬が今シーズン7勝を挙げているこの小さな厩舎にとって、最高額の獲得賞金だ。これは、この厩舎初の重賞勝利であった1ヶ月前のキーンランドでのG2・ジェサミンSをメイデイレディが制して獲得した賞金20万ドルに続くものだった。
アンソニー氏は、このタピット産駒と一緒に馬房と事務所の間の通路を通り、ブロックを周回し続けた。自信に満ちてリラックスした様子のメイデイレディは、隣の馬房からヴァウヴァが首を伸ばして通り過ぎる彼女に噛みつこうとしても、まったく動じなかった。
メイデイレディは機敏で、その視線は鋭く、聴覚は研ぎ澄まされていた。ブロックを出る曲がり角で立ち止まり、静かに佇んでいた。耳は青空へと向けられ、訪問者たちを1分以上も観察しているように見えた。一通り彼らを値踏みし終えると、また静かな周回に戻っていった。
メディア対応から戻ってきたリー調教師は「これまで見た中で最も好奇心旺盛な馬です」と語った。「こんな馬には出会ったことがないです。遠くであれ何であれ、物を見つけると筋肉一つ動かさない。間違いなく珍しい馬です。角で立ち止まって見つめたり、完全に立ち止まったり。促さないと動かないんですよ。でもコースに入ると跳ね回るんです」
日本を知る男
リー調教師は人生で多くの馬に関わってきた。その中には非常に優れた馬も数多くいた。ゴドルフィンで先駆者として過ごした1990年代半ばから後半には、多くの馬を日本に連れて行った。G1・安田記念を制した初の海外馬となったハートレイク、そしてアヌスミラビリス、ザイーテンなど、当時はサイード・ビン・スルール調教師が管理していたが、日本遠征中はリー調教師が世話をしていた馬たちだ。
そして今、彼は自身の名のもとで一頭を日本に送ることを検討していた。それも他ならぬG1・阪神ジュベナイルフィリーズへ。早熟で才能豊かなトップクラスの牝馬を管理する日本国外の調教師のほとんどが、選択肢として考えもつかないようなレースである。
「私たちはケチケチしているわけではありません」とジミー・ドイル氏は話す。
彼の兄、ラリー氏と彼が経営するケイティーリッチ・ファームが、馬主が対応しなければならない厳しい利益率を前提としてコストと潜在的な利益を比較検討し、数値化の難しいスポーツ的要素も考慮しながら、綿密に計算を行っていることを説明した。
また、リー調教師は、全てはこの牝馬がレース後どのような体調を示すかにかかっていると指摘し、京都までの輸送も考慮に入れる必要があると述べた。
「興味深い展開になるでしょう」とリー調教師は語った。「よく話し合って、この牝馬にとって最善だと思える決断を下します」
その決断は数日後に下され、メイデイレディは11月19日に日本に向けて出発した。12月8日の鞍上には、トレーナーのゴドルフィン時代からの古い同志であり、またこれまで常にこの馬に騎乗してきたレジェンド、フランキー・デットーリ騎手が確保された。
62歳のリー調教師は、デルマーの厩舎の数フィート前の倉庫で、干し草の梱包、コーヒーカップ、飼料の袋に囲まれながらIdol Horseの取材に応じた。彼はロイヤルブルーのアディダスのジャケットのポケットに手を入れていた。そのジャケットは間違いなく彼の過去を彷彿とさせる特徴的な色合いだった。飼料の袋や干し草の梱包の上には、ドイル氏、伊藤洋輔調教助手(ヨシ)、そしてリー調教師の他の息子たちのジョーイとドミニクが座っていた。
競馬との出会い、日本との縁
リー調教師の日本との縁は、ゴドルフィンでの仕事以上に深い。ケンタッキー大学で学んでいる娘のステファニーをはじめ、彼の子供たちは日本競馬における重要な血統を受け継いでいる。彼らの祖父は加賀武見氏で、JRAで複数回のリーディングジョッキーを獲得し、その後調教師となった人物だ。リー調教師の妻は加賀氏の娘の鈴代さん(スージー)である。
「1994年に最初の馬を日本に連れて行った時に出会いました。彼女は当時、東京競馬場のJRAの事務所で働いていて、日本のプレスへの通訳として私に付いたんです」と彼は語った。
「その後の数年間、ゴドルフィンは私とより多くの馬を日本に送り、一度に3ヶ月ほど滞在することもありました。2頭連れて行って1頭を送り返し、また別の1頭が送られてくる。例えばアヌスミラビリスが来て、レンドアハンドを送り返すといった具合でした。3ヶ月ほどの滞在を何度も重ねて、通算でおそらく1年半から2年は東京競馬場で過ごしたことになります」
リー調教師の競馬人生は、1973年のある有名な日、より正確には6月9日に始まった。11歳だった彼を祖父がロングアイランドの自宅から2回バスを乗り換えてベルモントパーク競馬場へ連れて行った。そこで彼は他の69,136人の観客と共に、このスポーツの歴史に残る最高のパフォーマンスの一つを目撃することになった。セクレタリアトの伝説的なベルモントSが、リー調教師にとって初めての競馬場体験だった。
「今でも覚えてますよ」と彼は語った。「新聞紙を2席に敷いて場所を取ったんですが、トイレか何かで離れた隙に席を取られてしまい、結局数ドル払ってクラブハウスに入ることにしました」
馬がゲートを飛び出した時に観衆全体が立ち上がり、祖父は前の手すりに彼を立たせてレースを見せてくれた。
「観客は歓声を上げて、レース全体を通してずっとその轟きが続いていました」
その後すぐに彼は偉大な牝馬、ラフィアンに注目し、高校時代に初めて馬に直接触れた。同級生の女の子の母親が競走馬のオーナーだったおかげだ。その同級生の兄が彼に曵き運動のやり方を教えてくれた。
「1980年に競馬場での仕事を始め、デイヴィッド・ホワイトリー、リロイ・ジョリー、ジョー・キャンティー、ジョン・ヴィーチといった調教師たちの下で働き、その後1987年に学校に戻りました」と彼は語った。
「ケンタッキー大学に行きました。競馬場で働きながらコミュニティカレッジで授業を受けて、その後は学業に専念しましたが、ケンタッキー大学に通いながらも調教に乗ったりレストランで働いたりしていました」
1989年に大学を卒業後、リー調教師は偉大なD・ウェイン・ルーカス調教師の下で1、2年働いた。当時ルーカス調教師のもとではキアラン・マクラフリンが助手を務めており、後に著名な調教師となるトッド・プレッチャー、マーク・ヘニング、ダラス・スチュワートらも在籍していた。
「その後、約1年ほど自分で調教師として働きました。ジャドモントファームで種牡馬のノウンファクトやサングラモアの調教を手伝いながら、他に2つの仕事をこなし、数頭の馬の調教もしていました」と彼は回想した。
その後、マクラフリンがドバイで調教師の職を得て、1993年10月にリー調教師は彼に同行してドバイに渡った。そのつながりが、彼を日本へと導き、そして最終的にメイデイレディを彼のもとへ導くことになる。
ゴドルフィンの創設
1993年から94年の冬は、世界の競馬界にとって転換点だった。シェイク・モハメドは、欧州の馬がドバイで越冬し、世界中のレースに遠征できることを証明しようとしていた。
しかし1994年の春、この黎明期の陣営は人手不足だった。シェイクの側近のサイモン・クリスフォード氏(現・調教師)は、マクラフリンにリー調教師を使わせてもらえないかと依頼した。
「彼らはバランシーンとともにイギリスに戻り、私はザイーテンを日本に連れて行って京王杯で2着になりました。シェイク・モハメドはこれを非常に喜びました。ドバイから日本に行って2着に入るなんて、夢のようでした。実際にスキーパラダイスに負けたのですが、彼女はアンドレ・ファーブルの手による一流のマイラーでしたから、良い馬に負けたことは分かっていました。その後、バランシーンは素晴らしい成績を残しました。オークスとアイリッシュダービーです」と彼は回想した。
「その秋、私はキアランの下に戻りましたが、シェイク・モハメドがキアランのオフィスに来て、私が外に出た時、彼らはキアランに私を譲ってもらえないかと頼みました。何か新しいことを始めようとしていたんです。それで私が戻って来た時、キアランは『行くか残るか選んでいい。もし気に入らなければ戻って来てもいい』と言ってくれました」
「結局それがゴドルフィンとなり、1995年に私は青いゴドルフィンの勝負服とともに日本に戻りました。そして私が連れて行った馬、ハートレイクがG1の安田記念を勝ちました」
栄光のロイヤルブルー
リー調教師が語るように、その年は『本当に素晴らしい年』だった。「何年も話すことはなかったので、今思い出してきています。話せば話すほど、いろいろな記憶が蘇ってきます。あれは素晴らしい時代でした」
ハートレイクが勝利を収めたその日、フラッグバードがイタリアで勝ち、ヴェットーリがフランスで2000ギニーを勝ちました。全て同じ日だったんです。ハートレイクはゴドルフィンにとって最初の勝利となり、その年はラムタラ、ホーリング、ソーファクチュアルをはじめ、レッドビショップはカリフォルニアでG1・サンフアンカピストラーノ招待ハンデキャップ(当時)を勝ち、ムーンシェルが英オークスを勝ち、私はドンカスターでフランキーの1000勝目を記録しました。それがクラシッククリシェのセントレジャーでした。控えめに言っても素晴らしい年でした」
彼は2000年にゴドルフィンを退職し、義父を手伝うため日本に移住した。加賀氏が引退した後、リー調教師は私設のトレーニングセンターを開設し、その後福島県の天栄ホースパークに移った。そこは当時シルクレーシングと提携していた育成施設で、現在はノーザンファームの傘下の調教施設となっている。
頼れる日本人スタッフ
「その時にヨシが来たんです、もうずっと昔のことですね」
伊藤助手は、リー調教師が雑誌『Gallop』に出した広告を見て求人に応募した。このメイデイレディの調教助手は、当時JRAの厩務員になるために必要な筆記、身体、口頭試験の基準を満たしていなかったため、中央のトレーニングセンターでは働けなかった。
「はじめは日本で厩務員になることを考えていましたが、同時にアメリカに来たいとも思っていました。彼の調教方法は非常にユニークで、真に馬の世話をするとはどういうことなのかを教えてくれたからです」と伊藤助手は語った。
リー調教師は2011年の地震と津波の悲惨な影響の中、ニューヨークの自宅に戻った。その時点ではそれが長期滞在になるかどうかは分からなかった。彼は馬の飼料を扱う会社を立ち上げ、湿布やビタミンなどの馬具用品の貿易会社も設立した。
2015年、当時ニューヨークに戻っていたマクラフリン調教師が、助手として彼を雇いたいと申し出た。5年後、マクラフリン調教師が免許を返上した時、リー調教師は12頭ほどの馬と共に調教師としての道を歩み始めた。
厩舎のスタート
マクラフリン調教師とのつながりが、当時わずか5頭の馬を持つ彼の厩舎に、抜きん出た牝馬、メイデイレディをもたらすことになった。開業後の彼の初勝利は、2021年6月にケイティーリッチ・ステーブルズ が所有するマザルエイティーンによってもたらされた。彼はマクラフリン調教師の助手時代に厩舎に送られてきた馬を通じて、ラリーとジミー・ドイル氏を知ることになった。
「ラリーが私にマザルエイティーンを送ってきて、私はなんとかうまくやれました。それから彼が要求した馬でも、うまくやれました。それで昨年、幸運なことにラリー・ドイル、ケイティーリッチ・ファーム、さらに他の2人のパートナーから馬を預かることになりました。ワークスフォーミーという馬で、実際に私が預かった最初の2歳馬でした。我々はステークスを勝ち、アケダクトのノートブックSも勝ちました。オープンで入着もしており、ニューヨーク産馬です。11月9日のアケダクトターフスプリントチャンピオンシップに出走させる予定です」
そして出走した。ワークスフォーミーはそのリステッド競走をデッドヒートの末に制した。
「最初がワークスフォーミーで、メイデイレディは私たちが実際に受け入れた2頭目の2歳馬です」と彼は続けた。
「おかげさまでそれなりにうまくやってきました。今ではより良質な馬を預かることができて幸運です。ラッキーとしか言いようがありません。ケイティーリッチ・ファームのマネージャーであるジョージ・バーンズが、OBSセールでメイデイレディを選んで、ラリーが32万5000ドルで購入しました。今年の4月に私のところにやってきましたが、当時は痩せていて細かったので、今の彼女を見ると同じ馬とは思えないでしょう」
特別な馬
しかし、リー調教師はすぐに、メイデイレディが自分の厩舎に来た他の未熟な2歳馬とは違うことに気づいた。
「ラリーには、ここはゆっくり進めようと説明しました。通常、彼らは少しナーバスになってやって来ますから。特にタピットの仔なので、調教に慣れるまで少し時間が必要かなと思っていました。でもラリーがOBSセールの直後にベルモントの私のところに直接送ってくれたのは良かったです。彼女は本当によく落ち着いていてくれました。驚きましたよ。頭の良い馬で、大した手間はかかりませんでした。最初は少し神経質でしたが、普通とは違いました」
「通常、ベルモントの本拠地では、周りに馬がいるのを嫌がって蹴りを入れたりします。好ましいものではありませんが、ほとんどの場合は分別があります。ここ(デルマー)では本当にフレッシュですが、輸送にもよく耐え、体温も良好で、食欲もあり、ただただ素晴らしい状態です。彼女の態度とメンタル面は特別です。私は多くの馬を見てきましたが、こんな馬は見たことがありません」
この『異質さ』こそがメイデイレディを京都へと向かわせた。リー調教師の人生の道のり、そして牝馬の気性、そしてさらにはBCでの勝利に迫る運動能力が合わさったのだ。
その違いが、細部に非常に注意を払うリー調教師と彼の小規模ながら実力のあるチームを、外国調教馬として初めて、日本で唯一の2歳牝馬限定のG1に挑戦する歴史的な機会へと導いている。
日本の芝コースでG1勝利を成し遂げることができれば、それは特別なことになるだろう。しかし、見方を変えれば特別でもないのかもしれない。なぜなら、ハートレイクの名が記録に残っているように、彼はかつてそれをやり遂げているのだから。