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ケンタッキーダービー兄弟ワンツーの“原点”、ホセ・オルティス騎手が故郷で語った「栄光への旅路」

ケンタッキーダービーを制したホセ・オルティス、プエルトリコにある競馬の原点、名騎手を形作った家族、友人、地元、そして受け継がれていく夢について、Idol Horseの独占取材に語った。

ケンタッキーダービー兄弟ワンツーの“原点”、ホセ・オルティス騎手が故郷で語った「栄光への旅路」

ケンタッキーダービーを制したホセ・オルティス、プエルトリコにある競馬の原点、名騎手を形作った家族、友人、地元、そして受け継がれていく夢について、Idol Horseの独占取材に語った。

ホセ・オルティス騎手の服装は、騎手の見慣れた装いではない。色鮮やかな勝負服も、白い乗馬ズボンも、軽量ブーツも、プロテクターもヘルメットもない。代わりに身に着けているのは、襟付きの白いシャツ、ライトブルーのジーンズ、そしてカウボーイハット風のステットソン帽だ。

その姿は、ワイオミング州の牧場からそのまま来たかのようである。長めの鐙に足を置き、見慣れない馬にまたがっている。見たところ、淡いクリーム色の馬で、黒い頭絡を着けている。手綱はウエスタン式に片手で取り、その手元には定評ある柔らかさがある。

この日、ホセ・オルティスは、馬に乗った数百人ほどの行列の先頭付近にいた。ステットソン帽や野球帽が、速歩に合わせて揺れている。

イベントが進むにつれ、ホセ・オルティスは帽子を替えていく。足りないのは、腰に差した西部劇さながらの拳銃と、エンニオ・モリコーネの音楽くらいだ。

だが、これは米西部の牛追いではない。ミシシッピ川の西で開かれる夏の地方祭でもない。ここはカリブ海、プエルトリコのトルヒージョ・アルトだ。ホセ・オルティスは、故郷の人々とともにアスファルトの道路を馬で進み、ケンタッキーダービー制覇を祝っている。

ここは、彼が競馬への愛情の中で生まれ育った場所だ。祖父も、叔父も、近所の人も騎手だった。幼少期から馬に乗り、競馬場へ通い、兄やいとこ、友人たちと一日に何時間も競馬ゲーム『ギャロップレーサー』で遊んだ。

その仲間の中には、後に騎手となる2人もいた。米国を拠点とするヘクター・ディアス・ジュニア騎手と、その弟で、レース中の落馬事故により麻痺が残ったヘクター・ミゲル・ディアス騎手である。多くの子どもが初めて自転車を手にする頃、この町でオルティス兄弟は初めての馬を手に入れた。

「4歳か5歳の頃には、競馬場へ行っていました」とホセ・オルティスはIdol Horseの取材に語る。「最初の馬はクリスマスプレゼントでした。名前はポパイです。多分その時も4歳か5歳だったと思います」

彼はポパイ、そしてその後に続く馬たちに、14か月年上の兄、イラッド・オルティス騎手と交代で乗った。

イラッドとホセは現在、勝利数と獲得賞金の両面で米国トップ2に立つ騎手で、いずれもイラッドがわずかに先行している。そして、北米の最優秀騎手に贈られるエクリプス賞を2人とも受賞している。ホセが先に2017年に受賞し、イラッドはその後5回選出されている。

地元の馬乗りたちが集ったこの催しの約1週間半前、兄弟はケンタッキーダービーで1、2着を分け合い、同レース史上初めて兄弟でワンツーを決めた。

その2人を称えるため、地元では祝賀騎馬行列『カバルガタ・オルティス』が開催された。行列は、彼らがかつて暮らしたラ・グロリア地区を通っていく。プエルトリコの首都サンフアンの南東、カマレロ競馬場からも遠くない地区である。

「地元の町には、近くに何人か騎手も住んでいました。だから競馬場にまつわることが、いつも何かしら起きていました」とホセ・オルティスは話す。「正直、赤ん坊の頃から競馬界の中にいました。近所にも騎手がいました。母のいとこです」

JOSE ORTIZ, GOLDEN TEMPO & IRAD ORTIZ JR, RENEGADE / G1 Kentucky Derby // Churchill Downs /// 2026 //// Photo by Rob Carr (Getty Images)

プエルトリコはこれまでも、米国競馬で名を成した偉大な騎手たちを送り出してきた。ホセ・オルティスのKYダービー制覇は、彼をアンヘル・コルデロ騎手やジョン・ヴェラスケス騎手といった同郷の名手たちに肩を並べるタイトルとなった。

オルティスの亡き祖父、イラッド・オルティス・シニア氏は、騎手一族の道を切り開いた存在だった。その息子の一人、イヴァン・オルティス氏も同じ道を進んだ。

もう一人の息子で、ホセとイラッド兄弟の父にあたるイラッド・オルティス氏も、同じ道を歩んでいた可能性はあった。だが、彼の人生は別の道を進むことになった。

ホセ・オルティスは「父は19歳の頃に食料品店で働き始めました。その頃には、もう店を任されていました」と家族のことを話す。

「体重を落とそうとしたこともありましたし、騎手学校に行こうともしました。でもその仕事でいい収入を得ていたので、そこまで本気でやろうとはしませんでした」

「いろいろな仕事を転々として、最終的には政府関係の仕事に就きました。目の不自由な方に寄り添い、専任のガイドを務めていました」

一方で、ホセの祖父と叔父は騎手として米国へ渡り、そこで成功する夢を追った。

「祖父は、いい騎手でした。でも大きな勝利はありませんでした」

「クリーブランドに移って、オハイオ州のクリーブランドで少し乗りました。パークスレーシング競馬場でも乗っていました。当時はキーストーン競馬場と呼んでいましたけどね。でも、大きなものではありませんでした」

「叔父はターフパラダイス競馬場、チャールズタウン競馬場、それから小さな競馬場をいくつも回って乗っていました」

「祖父は少し前まで競馬場で働いていて、馬を引く仕事をしていました。叔父も今も働いています。モンマスで働いて、タンパではゲートの仕事をしていました。僕とイラッドは、もっと大きなところまで来ました。でも、祖父と叔父が僕たちの礎です。彼らがいたから、僕たちはここまで来られました」

ホセ・オルティスの唯一の兄弟であるイラッドは、カバルガタの先頭にはいなかった。

このイベントは、地元プロモーターのエル・レイ・チャーリー氏が企画したものだ。兄のイラッドはオープンカーに乗って現れた。黒いTシャツを着て、帽子のあご紐をしっかり締め、集団が夜へと進んでいくなか、イラッドは主役の座から少し離れた場所にいる。

“ラン・フォー・ザ・ローゼス”ことケンタッキーダービーの勝利は、ホセの栄誉だ。イラッドはそのことがきちんと伝わるようにしてきた。空港到着時、地元テレビ局のTeleOnceが2人に取材した際にも、彼がメディアに強調したことの一つがそれだった。

チャーチルダウンズ競馬場のゴール板を通過した直後、イラッドが手を伸ばし、ホセの腕をつかんだ。1歳年下の弟ホセがゴールデンテンポをケンタッキーダービー制覇に導き、トルヒージョ・アルトの街で過ごした子供時代からの夢が叶った瞬間だった。

そのシーンは世界中で見られ、すでに競馬史に残る象徴的な場面の一つになっている。

「あの瞬間は、『信じられない、本当にダービーを勝ったんだ』という感じでした」とホセは言う。

「本当にうれしくて、とても感情が込み上げました。イラッドが、自分の夢で負けたにもかかわらず、僕のためにすごく喜んでくれているのを見たことも。素晴らしい、本当に素晴らしい瞬間でした」

「今は少し複雑な気持ちもあります。あれが彼の夢でもあると分かっていますし、僕がそれを奪った形になりましたから。イラッドにとっては最高の気分ではないはずです。ですが、それもまた、そういうものです。今回は僕の番でした。そしてそれをすごく喜んでくれた。それがすべてです」

「僕たちは2人ともベストを尽くしました。イラッドにもいつか勝ってほしいですし、彼の番は必ず来ると信じています」

ホセとイラッド、オルティス兄弟の絆は深い。

「僕たちは仲が良かったですし、子供時代も良い思い出があります」

「もちろん、喧嘩もしました。でも、ほとんど毎日は仲良しでした。何でも競い合っていましたから。イラッドがちょっと出し抜こうとして、僕が腹を立てる。普通の兄弟みたいに、そんなやり取りをしていました」

「僕たちは互いを大切に思っています。素晴らしい関係があります。ずっとそうでしたし、これからもそうあり続けます」

2人を互いに、そして近所の人々と結び付けているのは、労働者階級の環境で育ったという背景だ。

彼らのアイデンティティは、プエルトリコのスポーツ文化に深く根差している。その文化の中では野球の存在感も大きく、さらに数世紀にわたる歴史を持つ一方で、近年は社会的な批判が強まっている闘鶏も重要な位置を占めている。

プエルトリコは米国の自治領であるため、闘鶏は2018年に米連邦法で禁止された。ただし、プエルトリコ政府と多くの市民は当時も今もその禁止に反対している。闘鶏産業の規模を考えれば、島の文化を損ない、経済にも悪影響を与えるものだと広く受け止められているからだ。

Jose Ortiz celebrates his 2026 Dubai World Cup win aboard Magnitude
JOSE ORTIZ, MAGNITUDE / G1 Dubai World Cup // Meydan /// 2026 //// Photo by Dubai Racing Club
WHITE ABARRIO, IRAD ORTIZ / G1 Breeders’ Cup Classic // Santa Anita Park /// 2023 //// Photo by Horsephotos

カバルガタの数日後、Idol Horseがホセ・オルティスに話を聞いた。兄弟が米国へ戻ってG1・プリークネスステークスへ向けた準備を進めていた頃、USA Todayは、オルティス兄弟が友人たちと闘鶏イベントに参加していたことを報じた。

USA Todayの記事で同じく取り上げられたドジャースのエドウィン・ディアス選手と同様、兄弟はこれまでも、闘鶏イベントを楽しんできたことを隠しているわけではない。プエルトリコ当局による禁止令の執行は、ほとんど行われていない。

2024年1月付のプエルトリコ地元紙、エル・ヌエボ・ディアの記事では、オルティス兄弟とディアス兄弟が、闘鶏の継続を擁護していた。闘鶏は、労働者階級のプエルトリコ人の多くにとって国民的スポーツであり、自分たちの文化的アイデンティティを構成する重要な要素と見なされている。

ただし、カバルガタが示したように、オルティス家の地元を動かす鼓動は競馬だ。ホセはずっと騎手になるつもりでいた。兄イラッドが地元の騎手学校、エスクエラ・ボカシオナル・イピカ・アグスティン・メルカド・レベロンへ進み、その後米国へ渡ったことが、弟ホセにとっても道標になった。

「僕たちは16歳になって騎手学校へ行けるのを待っていました」とオルティスは語る。

「兄の時は、母にとって少し大変でした。母は、僕たちにまず学校を卒業してから向こうへ行ってほしかったんです。でも、16歳で行かせてくれるよう説得しました。兄が先に行ったので、母が兄を行かせた以上、僕も行かせるしかありませんでした。だから説得は簡単でした」

「父もすごく助けてくれました。父は僕たちに騎手になってほしかったし、騎手学校へ行ってほしかったんです。それは大きかったです」

地元プエルトリコの騎手学校へ入ると、鞍なしでも、鞍を置いても馬に乗ってきた幼少期の経験に加え、競馬を見続け、騎手がどうレースに乗るかを見てきたことが大きな財産になった。

「裸馬には乗れるけれど競馬のことは知らなくて、競馬の世界に入ると何も分からない人もいます。でも僕は、いつも競馬のことを頭に置いていましたし、自分が何をしなければならないかも分かっていました。あとは少し練習が必要だっただけです」

「だから騎手学校へ行った時、すべてがすごくうまくかみ合いました。イラッドは僕より先に進んでいたので、毎日家に帰ってくると、いろいろ教えてくれました。だから学校に入って最初の数日で、全部がかみ合ったんです。そこから、一気に流れに乗りました」

それでも、騎手学校時代の中で記憶に強く残っていることが一つある。開催日にジョッキールームでバレットの仕事をしていたことだ。

当時16歳だったホセ・オルティスは、プエルトリコ出身の名手、フアン・カルロス・ディアス騎手のような、尊敬し憧れていた騎手たちに囲まれていた。

オルティスは当時そこにいた騎手たちの名前を挙げていく。

「ルイス・ペレス、カルロス・ピサロ、ホセ・リベラ、エドウィン・カストロ。本当にたくさんいました。それぞれ2000勝を大きく超えるようなプエルトリコのジョッキーたちです。この環境で多くを学びました。素晴らしい騎手たちでした」

「僕にとって、あれが一番大きな財産でした。そこでは2年間働きましたが、騎手たちがレースについて、何をすべきか、何をすべきではないかを話しているのを見聞きすることができました。そこから多くを学びました」

ホセ・オルティスは午前中に学校へ通い、開催日の午後はジョッキールームでバレットとして働きながら、周囲のすべてを吸収していった。

「僕にとっては夢のようでした。そこには乗馬マシンがありました。僕が乗馬マシンに乗ると、騎手たちが、どこが良くて、どこを直すべきかを教えてくれました。それがすごく助けになりました」

騎手としてデビューし、初勝利を挙げたドナクララは、1番人気だった。

「スタートが良くて、先頭に行って、そのまま逃げ切りました」

THE ORTIZ BROTHERS / Photos supplied

初勝利は2012年1月7日のことだった。ただし、彼がプエルトリコで騎乗したのは2か月ほどに過ぎない。

その後、兄のイラッドを追って米国へ渡った。最初はフィラデルフィアへ向かい、3月13日にはパークスのウイナーズサークルに立っていた。そして、その月が終わる前には拠点をニューヨークへと移した。

そこでは兄が、移籍初年度から151勝という鮮烈な成績を収め、すでに注目を集めていた。

ある意味では、それ以来、彼は足踏みすることなく進み続けてきたと言える。エクリプス賞、数多くの重賞制覇、ブリーダーズカップ5勝、ドバイワールドカップ、ベルモントステークス、プリークネスステークス、ケンタッキーダービー、通算3500勝超、生涯獲得賞金3億1170万米ドル。

だが、別の意味では、彼は故郷・プエルトリコから離れていない。自分がどこから来たのか。トルヒージョ・アルトという原点、そして自らの原点となった文化を見つめ続けている。

オルティスと兄は、帰郷するたびに、必ずと言っていいほど騎手学校の生徒たちを訪ねるようにしている。そこにいる生徒たちが、かつての自分たちと同じで、同じ夢を見ていることを知っているからだ。

「プエルトリコの騎手学校に在籍する生徒は皆、イラッドや僕を見ています。それは本当にすごいことです。僕たちがジョニー・V、つまりジョン・ヴェラスケス騎手のような名ジョッキーたちを見ていたのと同じです」

「嬉しくもありますが、同時に責任もあります。競馬場の中でも外でも、正しいことをしなければならない。自分は手本となる立場ですし、良い手本でありたいと思っています」

「学生たちとは話しますし、みんなと良い関係を持ちたいと思っています。そうすれば、懸命に努力すればすべては可能だと、彼らも理解できます。僕も15年前は彼らと同じでした。僕たちにできたのなら、彼らにもできます」

「自分の地元に帰るのが大好きです」

デイヴィッド・モーガン、Idol Horseのチーフジャーナリスト。イギリス・ダラム州に生まれ、幼少期からスポーツ好きだったが、10歳の時に競馬に出会い夢中になった。香港ジョッキークラブで上級競馬記者、そして競馬編集者として9年間勤務した経験があり、香港と日本の競馬に関する豊富な知識を持っている。ドバイで働いた経験もある他、ロンドンのレースニュース社にも数年間在籍。これまで寄稿したメディアには、レーシングポスト、ANZブラッドストックニュース、インターナショナルサラブレッド、TDN(サラブレッド・デイリー・ニュース)、アジアン・レーシング・レポートなどが含まれる。

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