ドクターラスカルは売り物ではない。少なくとも、今のところは。もしかすると、この先もずっと売られないかもしれない。無敗でG2・ヴィンテージステークスを制した同馬は、英国で最も注目を集める2歳馬の一頭だ。早熟性とスピード、馬格、力強さを兼ね備え、血統からは距離が延びても対応し、さらに成長する可能性がうかがえる。
香港でいかにも買い手のアンテナが反応しそうなタイプだ。かつてなら、引退した名調教師のジョン・ムーアがすぐさま飛行機に乗り、バークシャー州ワットコムまで車を走らせ、自らの目で確かめに行っていただろう。ムーアは夏休みのかなりの時間を、シャティンの厩舎に迎え入れる香港ダービー候補の次なるPP(プライベートパーチェス=香港の馬主が海外から個別に購入した馬)探しに費やしていた。
その仕事でムーアを上回る者はいなかったし、彼の引退後も現れていない。現在の香港では調教師の勢力図こそ変わったが、3戦からなる4歳クラシックシリーズを見据え、欧州からトップクラスの馬を探し出そうとする熱意は今も変わらない。
ただし、香港の馬主が欧州で実績を残した重賞・リステッド競走勝ち馬を購入したいなら、巨額の資金を投じる覚悟が必要だ。もっとも、たいていの馬主にはその用意がある。香港ダービーへの適性を感じさせる重賞勝ちの2歳馬や3歳馬なら、100万ポンド(約2億円)を下回ることはない。
では、その金額は100万ポンド台のどこまで上がるのか。それは、その馬がどれほどの能力を持ち、どこまで実績を積んでいるか、非公開の交渉で何人のエージェントが電話をかけているか、そして現馬主がどれほど売却に前向きか、あるいは消極的かによって変わってくる。
ドクターラスカルが最初の2戦を勝った時点で、香港の関係者に代わって動くエージェントたちは、同馬の所有者がゴドルフィンやワスナンレーシングのような大手馬主組織ではないことは、すぐに分かっただろう。馬主側は、トリニティパークスタッドに預託する繁殖牝馬が5頭、現役馬も10頭未満という小規模なオーナーブリーダーで、売却に応じる可能性が高いと見なされた。
同馬にはグッドウッドで勝つ前から何件もの高額オファーがあり、勝利後もそれは続いた。しかし今のところ、オーナーブリーダーのジュリア・ロージア氏と息子のチャーリー・ロージア氏は、売却に心を動かされていない。
チャーリー氏はIdol Horseの取材に対し、「グッドウッドで走る前からエージェントと話をしていて、香港からかなりの金額を提示されました。その後、オファーの額がさらに大きくなったのは言うまでもありません」と明かした。
同馬はロイヤルアスコット開催を見送り、グッドウッド競馬場のヴィンテージステークスを選んだ。ジュリア氏は同競馬場の長年の会員で、26年前にはシンジケートの小口所有者として、ピッコロプレイヤーで自身初の勝利を挙げている。
チャーリー氏の初勝利は2012年のスムーズトーキンラスカルだった。親子は、ミドルハムパークレーシングが所有し、G1・英セントレジャーで2着となったベンチュラストームにも出資していた。その後は投資を大幅に増やし、「ラスカル」の名を冠する馬を共同で生産、所有してきた。
「私たちにとって、この馬と歩む道のりは本当に特別なものです。このような馬を手元に残せれば、競馬界の一流どころと肩を並べられます」とチャーリー氏は続ける。
「世界中から届くオファーは驚くほどの金額です。ただ、実際にセリへ行けば、タタソールズのブック1でもブック2でも、アルカナでも、結局は資金力のある大手と競り合うことになります。たとえ売却で今より多くの資金を手にしても、それでも相手の資金力には及びません」
「ですから私にとっても母にとっても、この馬と一緒にどこまで行けるのか、その歩みこそが何より特別です。親子でそれを経験できることは、私たちにとってとても大切で、幸せなことです」

売却しない理由の一つは、ロージア親子がドクターラスカルの半弟にあたるヴァンディーク産駒を所有していることだ。この馬はタタソールズで売却される予定で、かなりの高値になる可能性がある。
母のリトルミスラスカルは、才能を見せながら不運に見舞われたG2・クイーンメアリーステークス5着馬、ミスラスカルも産んでいる。ただ、リトルミスラスカルには隔年でしか受胎しないという癖がある。ドクターラスカル誕生につながったソットサスとの交配も、その春にグレンイーグルスとの交配を3度試みたものの、いずれも受胎しなかったために実現したものだった。
「ヴァンディークの初年度産駒がセリに出てくる年です。この1歳馬はブック1に上場され、とてつもない金額になるかもしれません。だから私たちには、ドクターラスカルをこちらに残し、欧州でもう少し重賞・リステッド実績を積み上げたいという考えもあります」
ロージア親子にとって、夢は現実のものとなっている。オリヴァー・コール調教師が管理するこの2歳馬は、次走にG1・ナショナルステークスが候補。その後はG1・ジャンリュックラガルデール賞へ向かう可能性もある。父がソットサスということもあり、来年のG1・仏ダービー挑戦もささやかれ始めた。
「でも、私たちはこの馬と過ごす日々を心から楽しんでいますし、これからもずっと関わっていきたいと強く思っています。本当に大好きな馬ですし、100%を自分たちで所有していることも、とても特別です」とチャーリー氏は付け加えた。
「ただ現実には、もし何か大きな、本当に大きな話が突然舞い込んできたら、売らずにいるのは難しくなるかもしれません」
エージェントのウィル・ダグラス氏も、そのことを理解している。マールボロを拠点とする同氏は、香港の顧客に代わってドクターラスカルへのオファーを出した一人だ。10年以上にわたって香港向けの馬を購入しており、欧州から香港へ送り出した主な購買馬には、ペニアフォビア、ライズハイ、プラヤデルプエンテ、モアザンディス、ビッグタイムベイビーがいる。
ドクターラスカルの獲得には至らなかったが、ロイヤルアスコット開催で、すでに将来性豊かな一頭を確保している。G3・ハンプトンコートステークス勝ち馬のジェネリックだ。
売り主はオーナーブリーダーのジェフ・スミス氏。紫色の勝負服で知られ、1980年代以来、チーフシンガー、ダッシングブレード、ロックソング、パーシャンパンチ、アラビアンクイーン、アルコールフリーなど、数々の一流馬を所有してきた。
ダグラス氏がこの3歳馬の購入を持ちかけた際、スミス氏には売却の意思があった。ジェネリックは今後、ジェームズ・カミングス厩舎に入る予定だ。
「ジェフ・スミス氏が生産した馬ではありません。また、当歳で購入した馬を売ることには比較的前向きなのだと思います。ジェネリックはすでに騸馬でもありました。これで条件が二つそろったわけです」とダグラス氏はIdol Horseに語った。父カメコの産駒は、時計の速い香港の馬場に合うと感じていたことも付け加えた。
「ジェネリックにはかなり多くのエージェントが関心を示していました。こちらとしても、非常にいい金額だと思えるオファーを出しました。その後、スミス氏から売却価格を提示されました」
「とても率直な方で、『この金額です。ここから動かすつもりはありません』と言われました。紳士的で、昔ながらの英国人馬主です。交渉は基本的に、そのような形でまとまりました」
ダグラス氏は、春のG3・グリーナムステークスを制し、当時カール・バーク調教師が管理していたアルパルスランにもオファーを出したが、こちらは獲得できなかった。最終的にはエージェントのマーク・マクステイ氏を介して購入され、ダグラス・ホワイト厩舎へ入ることになった。
「今年は、自分でもかなり順調だと言える年になっています」とダグラス氏は話す。
「需要は高まっているように感じますし、香港の馬主たちは非常に強い関心と意欲を示しています。香港ジョッキークラブも、その点で力になってくれています」
「以前から欧州では購入候補になる馬が非常に少なく、獲得競争は厳しいと思います。ただ、ここ数年で欧州から香港へ渡った馬たちは、いい成績を残しています」

香港の買い手には直近の成功例を追う傾向があり、それも欧州勢への追い風となっている。欧州生産馬で、欧州から買い付けられたロマンチックウォリアーは、今なお非の打ちどころのない走りを続けている。ただし、香港で競走生活を始めた時点では、実績のあるPPではなく、未出走の香港インターナショナル・セール出身馬(ISG)だった。
直近5年の香港ダービー優勝馬のうち、欧州出身馬は2頭で、PPも2頭だった。
香港を拠点とするエージェント、エリック・シー氏も、ドクターラスカルへのオファーに関わっていた。顧客にはロマンチックウォリアーの馬主、ピーター・ラウ氏もいる。
「最も難しいのは、香港ですぐにダービーを狙える馬を見つけることです。適切な条件を備え、しかも売却する意思のある馬主が所有する馬が、毎年現れるわけではありません」とシー氏は説明する。
「それが毎年、質の高い馬をまとめて確保することを難しくしています」
「また、人は直近に得た情報を必要以上に重視する傾向があります。ですから、前年のダービーやクラシックシリーズを見れば、次にどのような馬が買われるか、ほぼ予測できるのです」
「昨年、PPとしてダービーで最もいい成績を残したのはナンバーズでした。同馬はクイーンズランドダービーから来た馬です。そして今年、同じレースから再び多くの馬が購入されていることが分かります」
今回はオーストラリアのG1・クイーンズランドダービーが特に大きな注目を集めた。1着から3着までのプロビデンス、モノポリスティック、インスパイアードレジェンドはいずれも香港へ向かうことになり、このうち上位2頭は売却された。さらに、下位に終わったビューティースウィフトとキルマンも香港へ向かう。ビューティースウィフトはすでに香港馬主の所有馬で、キルマンはその後に売却された。
「もう少し前まで振り返ると、マッシヴソヴリンがダービーを勝った年の夏は、クールモアによる香港向けの売却頭数が最も多かったと思います」とシー氏は続ける。
「ですから今後、PPの仕入れ先としてどの地域やどのようなレースが人気になるのかは、ある程度予測できます」
だからこそシー氏は、ムーアがかつてそうしたように、すぐに香港ダービーを狙える馬より1歳若い、ドクターラスカルのような2歳馬を買い求めている。ムーアが香港ダービーを勝った6頭のうち、アイルランドから輸入されたデザインズオンロームも、そうして見いだした一頭だった。
しかし、理想的な輸入馬を追いかけていると、無数のオファーが飛び交う争奪戦になりかねない。香港向きの一頭を確保するために交渉が長期化することには、ダグラス氏もあまり深く関わりたくないという。
「至る所から、多くのオファーが飛び交うことがあります」とダグラス氏は話す。
「顧客には、最初から出せる限りの最高額を提示するのが最善だと助言しています。私たちの評価額はここまでだと決め、その金額を提示する。そして、そのオファーを24時間、あるいは1営業日だけ有効にします。期限が過ぎれば次へ進みます」
「オファーは長引きがちなので、私は期限を設けるようにしています。交渉が長引くことは誰にとっても良くありませんし、誰のためにもならないと思います。少しでも多く引き出そうとするようなやり方では、気持ちのいい取引にはなりません」
ドクターラスカルについては、どこからも桁外れのオファーが届かなければ、来年の仏ダービーが現実の目標になりそうだ。それは小規模な馬主なら誰もが思い描く夢だろう。
ただし、その前に、同馬は9月13日にアイルランドのカラ競馬場でG1初制覇を狙う可能性が高い。
「今はナショナルステークスへ向かう公算が大きく、その後にもいくつか目標を考えています」とチャーリー氏は説明する。
「例えば、ロンシャン競馬場のジャンリュックラガルデール賞へ行くこともできます。ただ現実には、この馬は距離が延びるほど、さらに良くなるはずです」
「近年のクールモアの実績を見れば、仏ダービーがいかに大きな舞台になっているか分かります。ですから私たちも、ぜひ挑戦したいと思っています」
「とはいえ、何とも不思議な立場です。私たちは今も、競馬界では小規模な馬主にすぎません」
一生に一度あるかどうかという夢のような高揚感に包まれていても、チャーリー氏も売却の可能性を完全には否定していない。
「競馬の世界では、たいていのものには値段がつくと、誰もが分かっていますから」