1992年、夏の終わり。リヴァーヴァードンがG1・アーリントンミリオンに参戦すべく、シカゴのオヘア国際空港に降り立ったとき、その世界は丸っ切り違うものだった。
当時のシカゴは、後に6連覇することになるマイケル・ジョーダン率いるNBAのブルズが2回目の優勝を飾ったばかりだった。ジョージ・ブッシュ大統領はホワイトハウスでの在任期間が残り僅かとなり、イギリスのジョン・メージャー首相はダウニング街10番地で長期政権を築こうとしていた。
香港では、最後の香港総督となるクリス・パッテンが着任してから1、 2ヶ月が経とうとしていたが、競馬の方では新時代の幕開けを予期させる出来事が起ころうとしていた。その扉を開けたのが、リヴァーヴァードンだった。
アーリントンへの旅路
「彼はビッグレースのために海外に出向いた最初の香港馬であり、面白い試みだったと思います」と述べたのは、調教師のデヴィッド・ヒル氏。現在は調教師の職を勇退し、テキサス州のヒューストンに自宅を構える。
この実験的な試みは、フェアリーキングプローン、ヴェンジェンスオブレイン、サイレントウィットネス、ケープオブグッドホープ、リッチタペストリー、ロマンチックウォリアーらによる海外での勝利、そして喜怒哀楽様々なチャレンジへの道を切り開くものだった。

ヒルは、香港競馬史上初となる海外遠征という大役を担ったことについて、謙虚に振り返る。「それがレガシーだったかどうかは分かりませんよ。ただ、やってみようとなり、やってみただけです」と彼は語った。
共同馬主のサー・オズワルド・チュン(張奧偉)氏は「素晴らしいジェントルマンでした」とヒルを懐かしむ。1991/1992シーズンの閉幕後すぐに、世界最高峰の賞金を誇るアーリントンミリオンから招待が来た。生産者でもあり、共同馬主でもあるロナルド・アーカリ(夏佳理)氏は、それを調教師のヒルと主戦騎手のバジル・マーカスに伝えた。そんなことが起きた背景には、このような理由もあった。
香港ジョッキークラブのCEOを約6年間務めたガイ・ワトキンス氏は、毎年12月に香港国際競走のために集まる海外馬の動向を見続けてきた。そして、それと同時に香港馬は海外でどれだけ通用するのかにも興味を持っていたのだ。
しかし、1992年に海外遠征するということは、現代の状況とは全く違う。アーリントンにはヨーロッパからの遠征馬が使う国際厩舎はあったが、香港からの遠征馬を受け入れたことは一度もなかった。だって、誰も行っていないのだから。
「誤解してほしくないのは、我々は丁寧に歓迎されたということです。」とヒルは言う。「獣医は毎日様子を見に来てくれましたし、馬場入りの時間も特別に用意してくれました」
「しかし、用意された施設は、まあほぼテントみたいなものでしたよ。検疫の事情で、国際厩舎から約500メートル離れた位置に、木造の仮住まいが用意されました。テントは雨を凌ぐためだったと思いますが、彼専用に急いで建てられた建物でしたから」
史上初の世界挑戦
簡素な厩舎の話はさておき、この遠征は収穫が大きく、実力を試す貴重な機会になると期待されていた。
前年の勝ち馬でジャパンカップ優勝馬のゴールデンフェザント、カナダの芝チャンピオンであるスカイクラシック、ヨーロッパのトップホースであるセカンドセットとイグジットトゥノーウェア、2年前の英ダービー馬でアメリカの芝G1制覇もあるクエストフォーフェイム、錚々たるメンバーとリヴァーヴァードンは対戦する機会になった。

リヴァーヴァードンが香港代表に選ばれた理由は、この当時圧倒的な存在だったからだ。1990/1991シーズンは香港ダービーを含めて6戦6勝で全勝。1991/1992シーズンは香港招待カップ、香港ゴールドカップ、クイーンエリザベス2世カップ、チャンピオンズ&チャターカップを制し、負けた3回は適距離以外のレースだった。
“チーム香港”は、レースの約1週間前となる9月6日に現地に到着した。
「コースを歩いたが、とてもタイトだった」と主戦騎手のマーカスは振り返る。「リヴァーヴァードンのレーススタイルとしては、理想的なコースではありませんでした。彼はリラックスして走るのが好きですから。多くのレースは道中控えて、直線に入ると外に持ち出して末脚を伸ばす競馬が得意でした」
タイトなアーリントンパーク競馬場ではそれが厳しいため、もっと前で競馬をするというプランが立てられた。しかし、その前に立ちはだかった課題はゲートだった。
マーカスは「彼は素晴らしい馬なんですが、ゲート入りに癖があるんです」と語る。彼は午後になるとシャティンのヒルの厩舎へと出向き、リヴァーヴァードンのゲート練習に付き合う日々だったという。
「特定の角度で入れる必要があるんです。以前は私自身がまずスターティングゲートの中に入って、彼がゲートに押し込まれてから馬に乗りました。しかし海外でこのようなことができる保証が無かったので、ゲート入りの猛特訓を繰り返しました」
一方、ヒルは競馬場の担当者を説得し、アメリカ競馬での枠入りとは違う手順を認めさせた。係員に引かれず、先に枠入りさせるというものだった。
本番当日を迎えると、リヴァーヴァードンは素直にゲートに入り、内ラチ沿いを器用に回ることができた。しかし、その後は失速し、フランスのディアドクターが勝ったのを尻目に12頭中11着に終わった。
「リヴァーヴァードンには向いていなかったかな」とヒルは語る。香港競馬にとってはオフシーズン明けの9月開催でレース勘が戻っておらず、孤立した厩舎に置かれたことも悪影響だったと彼は分析している。
「シカゴに到着した時、最高の仕上がりではなかったと思います。レースも上手く行きませんでした。好スタートを切ったは良いものの、落ち着きを取り戻せず、かかりっぱなしでした。まあ、叩きのレースを用意できませんでしたからね」
「最高の状態なら勝てたとまでは言うつもりありませんが、少なくとも4着や5着ならあったと思います」
アーリントンミリオンの単勝売上は51万2849米ドルだったが、香港の競馬ファンはリヴァーヴァードンの単勝に4万1843米ドルを突っ込んだ。当初は4倍の2番人気まで人気は上昇したが、次第に落ち着いて締め切りの頃には11倍と表示されていた。それでも、予想より遥かにオッズは低かったのは確かだ。
アーリントンミリオンでは賞金も栄誉も獲得できなかったが、その代わりと言うべきか自信は持ち帰った。世界最高峰のレースも夢ではないと感じた香港の馬主たちは、すぐさま次の遠征準備に取り掛かった。2年後、リヴァーヴァードンはオーストラリアに遠征してコックスプレートとメルボルンカップに出走することとなる。
香港競馬のシーズン開幕日、4頭立ての2300m戦が組まれ、そこを快勝してオーストラリアに意気揚々と向かう。しかし、待っていたものは2度の惨敗だった。
リヴァーヴァードンが滞在したオーストラリア・サンダウン競馬場は、幸いにも木造とテントを組み合わせたものではなかったが、旅行サイトで星が並ぶようなスイートルームではなかったのは確かだ。
「小さなパドック(放牧場)と行き来できる輸送用コンテナの中で暮らしていましたが、そのパドックも馬房のサイズと大して変わらないものでした」とヒルは語る。「唯一良かったのは、サンダウン競馬場を貸し切り状態で使えたことです。朝は自由になんでもできました。でも、馬房は貧弱でしたけどね」
レースは、またしてもリヴァーヴァードンに不向きなものだった。ムーニーヴァレーのコックスプレートでは追い込みに懸けたがスローペースの前に屈し、メルボルンカップでは前回の反省から先行したが、それは本来の脚質とは程遠いものだった。
ヒルは「その頃には全盛期の力はなかったが、やるしかなかった」と嘆く。「彼の脚は衰え始め、靭帯にもガタが来ており、明らかにピークを過ぎていました」と振り返る。
リヴァーヴァードンが頂点に立つ時代は過ぎ去ったが、新時代の幕開けを告げたのも彼だった。

新しい時代を迎えた香港競馬
時は1991年、香港ジョッキークラブが代表して馬を購入し、抽選で馬主に配分する従来の分配方式が終了した。この改革により、資金力のあるオーナーは海外の一流馬を直接調達することが可能になった。
この変化の波に乗ったのは、シンガポールから来たアイヴァン・アラン調教師だった。リヴァーヴァードンの初挑戦から6年も経たずして、香港馬の存在を世界に知らしめるキッカケを創り出した。
1998年、アランはラリー・ヤン氏が所有する芦毛のオリエンタルエクスプレスを安田記念へと送り込んだ。日本のチャンピオンマイラーであるタイキシャトルと対峙し、僅差の2着を確保した。タイキシャトルはその後、フランスのドーヴィルでG1・ジャックルマロワ賞を制している。
翌年、アランはインディジェナスをアスコットに連れてきた。夏のビッグレース、G1・キングジョージ&クイーンエリザベスSを使い、デイラミの6着に敗れた。その後、秋になると日本に行き、G1・ジャパンカップで日本総大将のスペシャルウィークに迫る2着という好走を演じた。このレースで先着した相手には、モンジューとハイライズというヨーロッパ屈指のトップホースも含まれていた。この時、香港馬という存在は間違いなく世界中から注目を集めていた。
「日本とイギリスに行く前は、自信はあまりありませんでした。地元のトップホースをアウェイの地で戦わせたらどうなるか、それを試すための挑戦でした」と語るのは、主戦騎手のダグラス・ホワイト。ジャパンカップでは騎乗できたが、アスコットでは急性虫垂炎(盲腸)のため急遽乗り代わっている。
「オーナーや調教師は徐々に自信を持ち始めたと思います」と彼は見ている。「彼らにできるなら、私たちもできるという雰囲気が生まれました。アイヴァンの馬が通用したことで、雪だるま式に機運が高まり、チャンスが開けました」
大きなブレイクスルーが訪れたのは、アラン調教師のフェアリーキングプローンが2000年6月にG1・安田記念を勝った時だ。その後、トニー・クルーズ調教師のサイレントウィットネスが台頭し、世界的な注目を集めた。17連勝の偉業、そして日本のG1・スプリンターズSを勝つ名馬へとなった。


同時期に走っていたデヴィッド・オートン厩舎のケープオブグッドホープは、まるで”偉大なる彼”を避けるように海外へと飛び立ったが、遠征先で殊勲の勝利を挙げている。オーストラリアではG1・オーストラリアS、イギリスではロイヤルアスコットのG1・ゴールデンジュビリーSを勝ったのだ。その後、デヴィッド・フェラリス厩舎のヴェンジェンスオブレインがG1・ドバイシーマクラシックを、リッキー・イウ厩舎のウルトラファンタジーはスプリンターズSを勝った。
2010年代に入ると、香港のトップホースは海外での好成績も求められるようになってきた。この10年で海外での勝利が19勝あり、そのうち11回は2013年5月から2015年5月の2年間の期間で達成されている。
これには、リッチタペストリーが2014年3月にドバイ・メイダン競馬場で挙げたG3勝利や、2015年5月のシンガポール・クランジ競馬場でダンエクセルとエアロヴェロシティが国際G1を2勝した日も含まれている。この2つの間に絞った場合、香港馬は海外で重賞を9勝、その中には2014年のドバイワールドカップデーで挙げたG1・2勝も含まれている。まさに、黄金の15ヶ月と言えるだろう。
この香港馬の海外での絶頂期は、当時勢いに乗っていたジョン・ムーア調教師が牽引していた。
2013年のG1・シンガポール国際カップをミリタリーアタックで勝って海外初勝利を挙げたジョン・ムーア調教師は、こう語る。「初期は経験のある優秀な人材を見つけて、遠征の最適解を見つけるのに試行錯誤していました。しかし、遠征を恐れる時代は過ぎ去ったのです」
リヴァーヴァードンがシカゴの地を踏んで以来、香港の競走馬はこれまで10カ国で合計280回の遠征(マカオでの出走は除く)を行い、31勝、2着は24回、3着は33回の好成績を収めてる。これは、勝率10%、トップ3に入る確率は31%という数字に繋がる。
2015年のロイヤルアスコット開催でエイブルフレンドが予想外の大敗を喫した後、遠征ラッシュはやや下火となる。それに追い打ちをかけるようにコロナ禍が到来し、海外遠征は完全に途絶えた。しかし、コロナ禍が過ぎ去ると再び盛り上がりを見せ、2023年には中距離王者のロマンチックウォリアーがコックスプレートを、翌年にはカリフォルニアスパングルがドバイのG1・アルクオーツスプリントを勝っている。
リヴァーヴァードンが踏み出した国際舞台への一歩は、World Poolの時代へと繋がる革命への第一歩でもあったのだ。