ジョン・ムーア元調教師は大きな笑みを浮かべながら、軽やかな足取りと共に、大きな決断をしなければいけないと冗談を飛ばす。90平米もあるウォークインクローゼットの奥の片隅で、ムーア氏は全盛期にシャティンで着こなした象徴的なサファリスーツをめくっている…ライトブルー、バーガンディ、ネイビーブルー、そして定番のカーキ色。彼は今シーズン、オーナーという新たな肩書きで香港競馬に復帰する際、どれを着ようかぶつぶつ言いながら迷っている最中だ。
「真ん中のボタンがまだ留められるといいのだけど」とムーア氏は笑いながら言う。
「しかし本当に、香港に戻って、競馬に関わることができて嬉しいです。あらゆる可能性に胸を躍らせていますが、何よりも馬場に戻ってこられたことが嬉しいです。馬場に下りて、勝負服を着たジョッキーが動き回るのを見る。オーナーたちと肩を並べて、諸々のことを経験する。何より我々がここにいるということ、勝つためにここにいるんだと示すということが」
ムーア氏のトレードマークであるサファリスーツの色はまだ決まっていないが、勝負服は海老茶色と白のものとなる予定だ。これはかつて香港でのムーア厩舎の勝負服として、そして最近ではオーストラリアで成功した馬主として知られる組み合わせだ。今や彼は新設のシンジケートの代表となった。長年ムーア氏に預託していた馬主であるマシューの息子、ティム・ウォン氏と初めて馬主になるヴィクター・リー氏と組んで、Go Racingを結成したのだ。
「オーストラリアから香港に戻ってきて一段落してから、妻のフィフィと何人かのオーナー、元オーナー、そして特に親しい友人たち合わせて10人で集まり、シンジケートの許可を申請してみようと考えました。最初は『ジョン・ムーアレーシングシンジケート』と名付けるつもりだったけど、もちろん香港ジョッキークラブ(HKJC)に止められたました。香港のトレーナーシンジケートと似すぎていましたからね。そこで何となく’Go Racing’を思いついたんです」

HKJCによる定年制限の強制により、物議を醸した引退から4年。35年のキャリアに渡って積み重ねた1734勝という記録は未だ破られていない。その後、最初はシドニーで弟のゲイリー氏と、次に一人でゴールドコーストで2度調教師として復帰しようと試みたが、どちらも人員と施設の問題で不調に終わった。
74歳の彼は今、調教に携わっていないことにより穏やかな日々を送っているが、HKJCのライセンス委員会の決定には未だに納得していない。
「調教は恋しいけど時間がね…」と、ムーア氏は50年間の厩舎での苦労を考えながら声を潜めた。
「調教師して成功を収めるには、事実上24時間体制でなければならないんです。簡単なことではないですが、ルーティンになってしまうと、むしろそのルーティンから抜け出すのが難しい。でも今はもうあの時間の感覚には縛られていないです。週7日、午前4時30分に起きる必要もない。だから調教は恋しいですけど、あのライフスタイルは恋しくないですね。常にノンストップでしたから」
それでも、ムーア氏が漂わせているエネルギーからは、もし機会があれば明日の午前4時30分に馬場に戻るだろうという印象を感じる。
「もちろんですよ、香港は世界一の調教場ですから」と彼は言う。「これまで見てきたどの場所と比べても、間違いなく香港が一番です。組織構造、厩舎スタッフ、マネジメント、すべてが整っていて、すべてがスムーズに運営されています。私の仕事は馬を買って調教することだけでした」
荃湾にあるケーブルテレビタワーの5階にある、ムーア氏のオフィスを改装したミニ競馬博物館のレザーソファに腰を下ろすと、ドアの横には「ジョン・ムーアファンクラブ」の看板が置かれている。ムーア氏は、オフィスの他にこれまで獲得したトロフィーや記念品を収納するためのスペースを必要としたのだ。目の前には、壁一面に床から天井まで届くガラス張りのキャビネットがある。ここには輝かしいキャリアの戦利品がぎっしりと詰まっている。33回のG1勝利、6回の香港ダービー優勝、そして7回のチャンピオントレーナーのトロフィーだ。

我々の前のコーヒーテーブルには2冊のスクラップブックがある。1冊は、ムーア氏の父、史上最高の騎手の一人に数えられるジョージ・ムーア氏のキャリアを追ったものだ。そのうち1946年の切り抜きは、ブリスベンから来た新たな軽量騎手がシドニーの競馬界を沸かせているという内容だ。
そしてこのスクラップブックの後半には、1960年代中頃以降の見出しがあり、彼を不世出のオーストラリア人騎手と称え、北半球での活躍により1967年のBBC国際スポーツマン・オブ・ザ・イヤーを獲得したことを伝えている。もう1冊のスクラップブックは1970年代のジョージ・ムーア氏の調教師としてのキャリアと、香港のプロ競馬創成期における11回のチャンピオントレーナーを記録している。
ムーア氏は父親の大きな影から抜け出しただけでなく、弟の影からも抜け出した。ゲイリー・ムーア調教師も元騎手として、香港で7回のリーディングジョッキー、フランスでも1回のリーディングと凱旋門賞(1981年・ゴールドリバー)の勝利という記録を残した。そしてゲイリーの勝者だ。ムーア家の名前は常に香港競馬と同義だが、おそらくジョン・ムーアこそが最もこの競馬地区に影響を与えたのだろう。
香港競馬史上どの調教師よりも多くのレースに勝利しているにもかかわらず、ムーア氏は常に量より質を優先してきた。彼は実戦経験のある馬を買うことで基準を上げた。現在のペースでいけば、ジョン・サイズ調教師は12回のチャンピオンシップを獲得しており、引退前にムーア氏の通算勝利数を追い越す可能性が高い。しかしチャンピオンホースの数でムーア氏に追いつくには時間が足りなくなってきている。
ソファの後ろの壁には、額に入ったポスターがあり、ムーア氏が管理した9頭の年度代表馬が順番に並んでいる。そのうち7頭は7年間連続して選出されている。マカルプラスター(1994/95年)、ヴィヴァパタカ (2008/09年)、ミリタリーアタック(2012/13年)、デザインズオンローム (2013/14年)、エイブルフレンド (2014/15年)、ワーザー (2015/16年)、ラッパードラゴン (2016/17年)、そしてビューティージェネレーション(2017/18年・2018/19年)だ。


現在、ムーア氏と彼のシンジケートは、往年の名馬たちをシャティンに連れてくるのに使われたのと同じようなプライベートパーチェス(PP)許可証を所持している。しかし、ムーア氏はどのようにしてこの許可証を手に入れたのだろうか? 香港で馬主になるには、HKJCのメンバーになり、抽選で許可証を「獲得」しなければならない。ムーア氏がクラブの正会員になった経緯は、それ自体もまた香港競馬史の小さな一ピースなのだ。
(注記: PPは香港移籍前にデビュー済みの馬を表す表記
「父が私にアマチュア騎手の免許を取らせてくれて。1971年3月21日に香港にやってきました。父は英国で騎乗していたときにHKJCとのつながりができたようです。でもアマチュア騎手のライセンスは取得したけど、騎乗するにはHKJCの正会員にならければならなかったんです。手持ちは20ドルくらいしかなかったから、どうやって支払うつもりだったんでしょうね…?結局父の友人たちが面倒を見てくれて、アマチュアとして騎乗するのにすぐに申請できました」
ムーア氏は1971年10月に香港競馬がプロ化された時と、1985年に調教師になった時に会員資格を「返上」しなければならなかった。「会員資格を3回取得して3回返上しました。調教師をやっている間、引退したら再び正会員になれるかどうか、担当者に確認し続けてましたね」
Go Racingは当初、PP許可証の『補欠リスト』に載っていたが、今年HKJCは所属馬の頭数を増やすために50の許可証を補欠から昇格させ、ムーア氏にもチャンスが巡ってきた。調教師としての全盛期なら、この許可証でG1クラスの有力馬を探していただろうが、時代は変わった。香港のオーナーたちの購買力は経済の低迷とともに下降した。他方でムーア氏の近年のスター馬の多くが調達されたオーストラリアでは、オーナーたちは賞金に恵まれており、有望な馬が現れるとそれを容易には手放したがらない。
ムーア氏は、もし今でも厩舎を運営していたとしても、かつて有名だった質の高い輸入馬を買うのは難しいだろうと認める。ムーア氏がオーストラリアで権利を得て海老茶色と白の勝負服で走らせている馬を香港に連れてくる可能性の方が高いが、その中には既ににG1クラスの有力馬がいるかもしれない。


ムーア氏がほとんどの権利を保有している、キャピタリストの2歳馬で重賞3着馬のアメージングイーグルは、有望株として浮上している。
「彼は間違いなくここ(香港)に連れてくる候補の上位にいます。他にも彼のような馬を連れてくることを考えていますが、まだやるべきことがあります。G3を3着はしてますが、少なくともG1でそれくらいにはならないといけませんね」
「オーストラリアでは同じメンバーと競走馬を所有していて、手持ちの中で最高の馬を選ぶだけです。シンジケートの馬のほとんどはトライアル勝ち馬です。先日もホークスバリーで2頭のトライアル勝ち馬が出ました。1頭はパーティングザシーズという名前で、もう1頭はファーナン産駒のグランドイーグルです」
Go Racingの勝負服を背負う馬はまだ決まっていないが、この史上最高の調教師のひとりのために、誰が調教師として重責を担うのだろうか? ムーア氏の初孫エンゾ(ジョージ・ムーア氏の妻、アントニアの父)の、もう一人の祖父であるトニー・クルーズ調教師が有力候補なのだろうか?「ハハハ、どうかな」とムーア氏は言う。ムーア流に、その決定は長いランチの席上で行われるだろうと付け加えた。

「これ、という特定の調教師はまだ選んでいませんが、確実に除外されている調教師もいます。でも、この競馬地区で成功を収めている調教師が私のために調教するのは非常に難しいと思いますね。私とかなり協力してくれる人でないと。もちろん、私が馬を調教するわけではないですけど、何が起こっているのか、何を計画しているのかを知りたいですね。シンジケートに戻って、調教師と話をして、彼の仕事ぶりを知り、いつトライアルに挑戦させる予定か、臨戦過程はどうなっているかを伝えられるようにしたいですね」
ムーア氏は息子のジョージ氏と共に近年馬を調達するなど、良血馬の動向に注目し続けているが、潜在的なオーナーになることで彼の競争心に再び火がついたのは明らかだ。彼は大きな目標を設定し、かつてのように大胆な発言をしている。
「いずれは香港国際競走で勝ち負けできる馬を連れて来たいですね。これが私がやりたいことです。勝つために来る。それが究極の目標です」