取材の途中で、ザック・パートン騎手の注意がふとそれた。シャティン競馬場の騎手用ジムに入ろうとしているのだが、ドアを開けるための暗証番号が見つからない。ひと言断って会話を中断し、問題を解決すると、数分後に話を再開した。
香港は火曜日の午後。2026/2027年シーズンが開幕する9月最初の日曜日まで、あと5日だ。24歳から暮らすこの街で、20年目のシーズンを迎える。香港競馬はパートンを鍛え、数々の記録を塗り替える王者へと育ててきた。
パートンはこれまで9度、香港リーディングジョッキーに輝いている。それだけでも見事な実績だが、そのひと言では彼が成し遂げてきたことの大きさを十分に伝えているとは言えない。
驚異的な手腕を誇るジョアン・モレイラ騎手との、精神も肉体もすり減らすような、あの最後のタイトル争いを制して以来、このオーストラリア人騎手は香港競馬の騎手リーディングを独占してきた。あれは2022年7月のこと。結果として、それがブラジルの名手にとって、香港で通年騎乗した最後の年となった。
43歳のパートンは、幾度もの栄光と共に苦境も経験してきた。2022年10月には2年後に引退すると述べ、香港を去る計画も立てたが、そうはしなかった。
そして今も、歩みを緩めるつもりはない。体の状態は「ここ6年ほどで一番いい」と感じている。再び狙うべきタイトルがあり、騎乗を待つスーパースターのカーインライジングがいる。G1・ジ・エベレスト連覇も、今ははっきりと視界に捉えている。
自身の手綱で20連勝中の18勝を挙げ、連勝街道を歩んできた、この傑出した騸馬について、パートンはこう語る。
「昨シーズンの終盤に見せた圧倒的な走りを考えると、あと12か月はあのレベルを保てると思いたいですね。そうなれば、私たちが見てきた歴代の名馬たちと、本当の意味で肩を並べることになります。もっとも、すでにその域にいるのかもしれませんが」
「実際のところ、その域にいると証明するために、これ以上何かをする必要はないと思います。歴史に残る名馬としての評価は、もう揺るがないでしょう」

世界最強のスプリンターであり、史上屈指の競走馬でもあるカーインライジングに乗れることは、何ものにも代えがたい「特権」だ。
この数週間で2度のバリアトライアルに騎乗したパートンは、日曜の今季初戦、G3・香港特区行政長官盃に向かう同馬が、これまで以上に肉体的な力強さを増しているかもしれないと考えている。
「もう6歳になったのですから、体は完成しているはずだと思いますよね。でも、オフシーズンに体が大きくなったということは、まだ成長の途中だったのかもしれません。夏には1190ポンド台(約540キロ)まで増えました」とパートンはIdol Horseに話した。
「先週のトライアルの映像を見返しても、ほかの馬に交じって、ひときわ大きく見えました。キャリアの初期には、強い馬たちと並ぶと見劣りしていたのに、今ではこの馬の方が際立って見えます」
昨シーズン、カーインライジングがレースで記録した最も重い馬体重は1164ポンド(約528キロ)だった。
夏の休養明けから、この馬が実戦で走れる状態へ順調に戻るうえで、最近のバリアトライアルは欠かせないものだったが、それはパートンにとっても同じだった。
「シーズンの始まりが、いつも一番きついですね。ここは本当に自分を追い込まなければなりません。限られた時間で、できるだけ早く、できるだけ体を仕上げる必要があります」と、シーズン開幕に向けた“追い込み”について説明する。
「だから開幕に向けて、毎日できる限り自分を追い込んでいます」
パートンと妻のニコールさんは、この夏も海外で休暇を過ごした。子供のロキシーとキャッシュが生まれて以来、ほぼ毎年そうしてきた。今年の行き先はシンガポールと、バリ島を含むインドネシア。ビーチで過ごし、おいしい食事を堪能した。
大切なのは、休養と体づくりのバランスだ。リラックスして楽しむ。ただし、その後に確保した2週間ほどで、体を鍛え直し、切れを取り戻せる範囲にとどめなければならない。
「体重も落とさなければなりませんから、それも大きな部分を占めます」
バリアトライアル、調教、ジムでのトレーニングに「そのほかにやることも含めて」、体づくりに費やす時間は1日5時間ほどになるのではないかと、パートンは見積もっている。
ただ、今季の開幕前は天候に恵まれなかったと嘆く。香港に戻ってからほとんど雨がやまず、予定を狂わせただけでなく、屋外で体を動かそうという気持ちまでそいでしまった。
「その一方で、開幕までにバリアトライアルがたくさんあるのは、ありがたいことです。必要な体力を取り戻すには、レースやトライアルで実際に馬に乗ることに代わるものはありません」
「それでも、開幕前は本当にしっかり追い込む必要があります」
「何週間かたてば、騎乗に必要な体力が自然と戻ってきます。そうなれば、少しアクセルを緩められます」

モレイラが香港を去って以来、パートンはアクセルを目いっぱい踏み込む必要がなくなった。そう見る向きもあるかもしれない。だが、毎週対戦するライバルの騎手たちの実力を認めるパートン自身も、その見方を否定するだろう。
加えて昨シーズンは、騎手の顔ぶれがひときわ豪華になる時期もあった。シドニーのスーパースター、ジェームズ・マクドナルド騎手に加え、欧州からはホリー・ドイル騎手、マキシム・ギュイヨン騎手、ディラン・ブラウン・マクモナグル騎手に短期免許が交付された。
そして、シーズン終盤にはモレイラも加わり、彼は3か月の期間限定騎乗で32勝を挙げた。
それでもパートンは、他の騎手を大きく引き離してリーディングを獲得した。短期参戦の騎手たちが香港競馬を活気づけ、ファンに新鮮さをもたらし、この競馬の舞台がかねてから誇ってきた競争の激しさをいくらか高めたことは間違いない。ただ、王者は別の角度から見ている。
「昨シーズンの一時期のように騎手が多すぎると、香港競馬の環境にとって健全ではないと思います」
「10人、12人もの騎手が騎乗を得られず、騎手控室で座っているのは、いいことではありません。みんなの機会が減り、流れをつかむのが本当に難しくなります」
「そうなると、控室の雰囲気も少し悪くなり、それがレースに持ち込まれることもあります。たくさん仕事をしているのに、ほとんどチャンスがないというのは、なかなか受け入れ難いものです」
新しい騎手が加わると、レースの流れが変わり、リズムが乱れる。パートンはその様子を、白い屋根に赤い車体のトヨタ・クラウンコンフォート、つまり香港のタクシーの後部座席で香港島の街を走ったことがある人なら、よく分かる例えで説明する。
「香港のタクシーに乗っているようなものです。運転手が片足をブレーキ、もう片足をアクセルに置いて、ずっと加速と減速を繰り返している、あの感じですね」
「レースも少しそんな感じになることがあります。仕掛けるべきではないタイミングで騎手が動き、不必要にレースの流れに波をつくってしまう。一方で、動いていくべき場面なのに、待ちすぎることもあります」
「対応に苦労する時もありますが、それもスポーツの一部なのでしょうね。いろいろな要素が常に動いていて、それに適応しなければなりません」
ただ、パートンは自身の経験からも話している。香港に来たばかりの頃は、関係者とのつながりを築こうと必死だった。調教で乗っていた馬を、レースでは実績ある騎手に取られることもあった。一方で、パートン自身も、自らの名声の恩恵を受けてきた。
人とのつながりを築くことにかけて、パートンほどの騎手はいない。香港競馬の仕組みを知り尽くした、したたかな達人であり、成功するために人脈がいかに重要かを理解している。
香港流のやり方で大きな比重を占めるのが、馬主との付き合いだ。食事をともにし、絆を深める。香港競馬のトップジョッキーになっても、古くからのつながりを保ち、新たな関係を築かなければならない。
「今も大切なことですし、馬主の皆さんとは今もよくお付き合いしています。結局、私の成功は、どれだけ支えていただけるかにかかっています」
「馬主や調教師の皆さんが、引き続きチャンスをくださることを願うしかありません。そうしていただければ、いい結果を出せることは、これまでも証明してきました」
「ただ、皆さんに満足していただけるよう努め、関係を保ちながら、ひとつずつやっていくことなんです」
「馬主の顔ぶれも常に変わっています。新しい馬主が加わり、新しいシンジケートが結成される。絶えず変化し続けていますし、今は中国本土を拠点とする馬主が所有する馬も多くなりました」
コロナ禍後、一時減少していた馬主層を活気づけているのが、中国本土から参入する新しい馬主たちだ。ただ、それには難しさもある。
「お会いする機会をつくるのが難しく、たいていは開催日にしか会えません」とパートンは話す。
「香港ジョッキークラブ(HKJC)には本土の馬主を担当する方々がいて、いつもパドックにいます。その馬主の皆さんと食事に行く機会があれば、HKJCの方々も必ず同席します。主に、馬主の皆さんが英語を話せないので、会話を手助けしてくれるのです。本土の馬主のことをよく知っているので、とても助かります」

新シーズンが目前に迫るなか、カーインライジング以外には、特に楽しみにしている馬はいないという。「まずは少しずつシーズンに入っていき、自分がどこに導かれるのか、どんな展開になるのかを見ていこうとしています」と話した。
とはいえ、常に注目の中心にいるのは、この名馬だ。世界最高賞金の芝レース、ジ・エベレストが近づけば、なおさらである。それでもパートンは、プレッシャーという見方を一蹴する。
「プレッシャーというより、今は期待を寄せられているのだと思っています。レースに出るたびに、一定のレベルの走りを求められているということです。ハードルはずいぶん高くなりましたが、大切なのは、きちんと結果を出し続けてくれることです」
「私はかなり恵まれています。香港にいる間は、オーストラリアで注目の的にならずに済みます。レースに合わせて現地入りするので、厳しい視線にさらされずに済むんです」
「昨年と同じようにデヴィッド(ヘイズ調教師)に前面に立ってもらい、彼らしいやり方で対応してもらいます」
そしてパートンは、カーインライジングとの挑戦も含め、長年続けてきたやり方でシーズンを乗り切っていく。
「目標は、これまでやってきたことを続けるだけです。やり方を一から変えようとはしていません」
「シーズンには流れがあります。その流れに乗って動きだし、香港国際競走を迎え、そこから香港ダービー、チャンピオンズデーまで駆け抜け、最後にシーズンを締めくくる。毎シーズン同じです。私ほど長くここにいると、自然に体に染みついているものですよ」
その言葉だけを聞けば、簡単そうにも思える。だが、体力を取り戻し、騎乗に必要な体重まで絞る厳しい闘いがあり、その後も「水曜、日曜、水曜、日曜という、とても単調な繰り返し」の「きつい日々」を通じて、40代の体を維持しなければならない。
蒸し暑さに体力を奪われる夏も、短い冬の寒さのなかでも続く香港のシーズンは、「精神的にも肉体的にも厳しい」のだ。
それでも、これこそがザック・パートンの知る世界であり、最も得意とする仕事だ。そして今、それを彼以上に上手く乗り越える者はいない。
「馬に乗るのが楽しいですし、レースに出て競い合い、アドレナリンが湧き上がる感覚も好きです。勝つことも楽しいですね」とパートンは言う。
「とにかく、この仕事が楽しいんです」