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インド競馬から香港競馬の主役へ、キャスパー・ファウンズ調教師が香港で見つけた「居場所」とは

自身5度目の香港調教師リーディングに迫るキャスパー・ファウンズ調教師。インドでの少年時代、香港移住後の苦闘、そして父から受け継いだ「馬が第一」の教えとは。

インド競馬から香港競馬の主役へ、キャスパー・ファウンズ調教師が香港で見つけた「居場所」とは

自身5度目の香港調教師リーディングに迫るキャスパー・ファウンズ調教師。インドでの少年時代、香港移住後の苦闘、そして父から受け継いだ「馬が第一」の教えとは。

キャスパー・ファウンズ調教師は、まるで我が家に帰ってきたかのように、尖沙咀東にあるウッドランズのボックス席へ腰を下ろした。何度も見てきたメニューを開き、店員たちが顔なじみでなければ驚いたであろう、本場さながらのヒンディー語の発音で注文する。最初の皿が片づく前から、早くも追加注文だ。

「サンバルとチャツネを、もう少しお願いします」

ファウンズ師に、これほど似合う店もないだろう。ウッドランズはインドから香港へやってきた店だが、異国の店という雰囲気ではなくなって久しい。

あるテーブルには中国人の家族、隣にはインド人の常連客、店の奥には競馬関係者が2人。誰もが同じ南インド料理を囲んでいる。今では洗練された店となり、フランチャイズ展開までしている。それでも、香港に根づいた理由はいたって自然だった。長く人々に愛され、この街の一部になったのだ。

それは、ファウンズ師自身とよく似ている。

料理を口に運ぶ合間に、ファウンズ師はテーブルの上に伏せていた携帯電話を裏返して画面を確認し、また伏せる。数分おきに同じことを繰り返す。理由は説明しない。少なくとも、まだこの時点では。

ファウンズ師は、5度目の香港調教師リーディング獲得が目前に迫っている。だが、それはこの物語の現在地にすぎない。始まりは、ここから遠く離れた出生地カルカッタ(現コルカタ)にある。カルカッタについて尋ねると、目が輝いた。

「美しい思い出です。本当に素晴らしい場所で育ちました」

歴史、文化、家族とのつながり、そして治安の良さ。愛する土地を守るかのように、次々と言葉を挙げる。学校は南部のバンガロールにあったが、競馬があったのは、父ローリー・ファウンズ調教師が拠点を置くカルカッタだった。少年時代のファウンズ師は、休みになるたび、できる限りそこで過ごした。

「父は、私にとって心から憧れる存在でした。いつも後をついて回り、相棒のように一緒にいるのが大好きだったんです」

生涯を貫いてきた馬への愛は、自ら選んだものではない。幼い頃、馬を中心に回る世界の中で自然と身についた。そこにあったのは、粗削りで洗練とは無縁でありながら、豊かな歴史と紛れもない魂を備えたインド競馬だった。

ファウンズ師が特に懐かしそうに語るのは、1人で1頭を担当し、厩舎の外に置いた竹の枠に帆布を張った簡易ベッドで眠っていた厩務員たちのことだ。

Caspar Fownes at Woodlands in 2026
CASPAR FOWNES / Woodlands // Hong Kong /// 2026 //// Photo Idol Horse

ファウンズ家の名をインドへ運んだのは、曾祖父の「スマイリング」ジャック・ファウンズ氏だった。

20世紀初頭、英陸軍の騎兵部隊の一員としてインドへ渡り、そのまま現地に残った。スマイリング・ジャックの息子であるエリック・ファウンズ少佐とディンキー・ファウンズ大尉も騎兵となり、後に調教師へ転じた。キャスパーが生まれた時には、ファウンズ家のインドでの歴史はすでに3世代に及んでいた。

ファウンズ師は、その人格を形作った少年時代を温かく振り返る。「私たちは、いつもY字型のパチンコを手にして育ちました」と語り、壁にいたトカゲを撃ち落とすような遊びをしていたという。そこには、ただ少年たちと銃と、持て余すほどの時間があった。

銃にまつわる思い出の一つでは、ファウンズ師自身が22口径銃の弾をすねに受けた。それでも本人は、膝を擦りむいた時のことでも話すような調子で振り返る。

競馬一族の別系統にあたる従兄弟のウッズ兄弟と、22口径銃を手にふざけていた時のことだった。キャスパーの脚に弾が当たり、傷痕は今も残っている。だが、40年以上が過ぎても、誰が撃ったのかは明かそうとしない。

「撃たれたんですよ。ショーンだったかウェンディルだったか、どちらかは覚えていません」

楽しそうにそう話す。あの日も従兄弟の名前を明かさなかったし、今になって口を割るつもりもない。

だが、銃をめぐる出来事には、さらに深刻なものがあった。

別の日、壁の上にマッチ箱を並べて射撃の的にしていた時のことだ。3人目の兄弟、ドウェインが、間の悪いことに壁の後ろから頭を上げ、眉間付近に弾を受けた。車で病院へ運ばれ、弾を取り出してもらわなければならなかった。

従兄弟たちもインドに残ったわけではない。一時期は彼らも東へ移り、ウェンディルはローリー・ファウンズ厩舎の主戦騎手を務め、ショーンは自ら調教師となった。家族、馬、ライバル関係。少年時代を形作った世界は、そっくり香港へ移り、そこで再び形を成した。

だが、その再出発は決して平坦なものではなかった。

1981年7月、ファウンズ一家は飛行機で東へ向かった。シャティン競馬場内の住居が整うまで、香港ジョッキークラブ(HKJC)は一家をリー・ガーデンズ・ホテルに滞在できるよう手配した。

当時、キャスパーは13歳。姉のステファニーとフェネラは、数歳年上だった。カルチャーショックを象徴する話としてファウンズ師が持ち出すのは、馬ではなく、果物の話だ。

「私たちがいた国では、果物はただ同然と言っていいほど安かったんです」

ところが、ローリーが街角の露店に立ち寄ると、スイカ半玉の値段として25香港ドルと告げられた。

「1981年ですよ。半玉です。インドなら、その金額でスイカを30個は買えました」

息子の語り口を聞いていると、その金額を知らされた瞬間の父ローリーの表情が目に浮かぶ。家族の将来をこの街に懸けたばかりの男が、歩道に立って頭の中で計算し、その数字に表情を曇らせる。

だが、高価な果物よりも深刻な問題が待っていた。当時、インドから海外へ直接資金を移すことはできなかった。誰かに金を預け、その人物が手数料を差し引き、残りが香港で受け取れることを信じるしかない。ローリーは家族ぐるみの友人を信頼した。だが、金は届かなかった。

「何も持たずに、ここへ来たんです」

この日初めて、ファウンズ師の声からユーモアの響きが消えた。

「すべて、一からの出直しでした。一からやり直したんです」

カルカッタの競馬界で2度のチャンピオントレーナーに輝き、通算650勝を挙げ、主要レースをことごとく制し、馬主や報道陣から絶大な人気を集めた調教師が、見知らぬ街でゼロからの出発を余儀なくされた。家族は香港での生活を始めた時から、重圧にさらされた。

元調教師のローリーは何年も前、昼食を共にした席で率直に語っていた。

「非常に厳しかった。私は一瞬で、頂点からその他大勢に転落したんです」

より良い未来を求め、インドでの居心地のよい暮らしを手放すようローリーを後押ししたのは、数十年前、雨季の競馬開催でその気の強さに初めて気づいた妻のパメラだった。

パメラは、夫が才能を無駄にしていると考えていた。その一方で、慣れ親しんだ暮らしを離れた代償が家族全員にのしかかる様子を見守ることにもなった。

「インドの競馬界では、誰もが私たちの知り合いでした。ここでは、誰も知りませんでした。いろいろなことを言われ、夫を『カレー・ファウンズ』と蔑む人までいました。家族全員に大きな重圧がかかっていました。この先どうなるのか、まったく分かりませんでした」

A young Caspar Fownes with dad Lawrie at Royal Calcutta Turf Club in 1981
CASPAR FOWNES (L), LAWRENCE FOWNES (R) / Royal Calcutta Turf Club // 1981 /// Photo by Fownes Family

香港競馬での最初のシーズン、ローリー・ファウンズ厩舎はわずか6勝。調教師リーディング最下位に終わった。翌年は10勝だった。それでも、状況は少しずつ変わっていった。

流れを変えたのは幸運ではない。注目を集める一頭の名馬でも、すべてを一変させる一つの勝利でもなかった。昼食の間、キャスパー・ファウンズ師が何度も立ち返ったこと。それは、父が決して信念を曲げなかったことだった。

ローリーが任されたのは、故障を抱えた馬ばかり10頭だった。当時の香港競馬では、調教師の言葉にほとんど重みがなかった。厩務員たちは強大な労働組合の指示に従い、キャスパーの話では、HKJCでさえ組合と正面から向き合うのを避けていた。それ以外の多くを仕切っていたのは騎手たちだった。

「調教師は誰からも敬意を払われていませんでした。父が、それをすべて変えたんです」

その背後には、競馬に影響力を及ぼす外部勢力もいた。ファウンズ師が「裏で糸を引く者たち」と呼ぶ存在だ。当時は、香港競馬に暗い影を落とした「上海シンジケート」の時代で、表に姿を見せない実質的な馬主が、別人の名義を使って30頭、40頭、50頭もの馬を動かしていた。

父は声を荒げて戦ったわけではない。正しい仕事を何度も積み重ね、結果によって証明し、競馬界が変わらざるを得なくなるまで戦った。腱に問題を抱えた馬、繋靱帯を痛めた馬、ゲート難の馬。そうした立て直しの難しい馬を引き受け、勝たせた。騎手に厩舎を支配させることも拒んだ。ローリーはかつて、こう説明している。

「私が馬を預かりながら、騎手に厩舎を動かさせるつもりはないと、彼らが理解した時、戦いは決着しました」

キャスパーは、この経緯の伝え方には慎重だ。誰かを屈服させたという話ではない。競馬界全体の基準が引き上げられたのだという。それまで曖昧だった責任の所在が明確になり、それに伴って労働環境も改善された。結果として、全員の水準がともに上がった。

だが、キャスパーが最も誇りに思う父からの遺産は、勝利ではない。父に繰り返し叩き込まれた価値観だ。それは今でも、すらすらと口から出てくる。

「自分が正しいなら、戦わなければなりません。自分が間違っていたなら、自分から手を差し出し、きちんと謝るんです。相手の目を見て、『本当に申し訳ありません』と言う。それが私の中に刻み込まれています」

ローリーの人柄を象徴する話がある。それはキャスパーではなく、ロイヤル・カルカッタ・ターフクラブの元会長、サイラス・マダン氏が明かしたエピソードだ。

1974年のバンガロールダービー。ローリーは自身の管理馬、スカイラインを馬場へ送り出したばかりだった。手を焼く馬で、単勝オッズ21倍の人気薄だった。その時、ライバルのモーリシャスパールがゲート入りを拒んだ。ローリーは何のためらいもなく柵を飛び越え、相手の馬をゲートへ入れる作業を手伝った。

その2頭は、同レース史上最も劇的な決着の末、同着となった。

「この出来事は、ローレンス・ファウンズという人物の人柄を、実によく物語っています」とマダンは語る。キャスパーもそれに続けてこう話す。

「想像できますか。ローリーは柵を飛び越えて、相手の馬をゲートに入れたんです。そんなことができるのは、父くらいですよ」

ダージリンの涼しい丘陵地は、コーズウェイベイの密集した街並みに変わった。キャスパーは、香港で最もよく知られた学校の一つ、キング・ジョージ5世校、通称KGVに通った。だが、本当の学び舎は調教場だった。学校へ行く前の毎朝、厩舎へ向かった。

「始まるのは午前4時です。家に戻ってさっと朝食を取り、7時40分のバスで学校へ行きました」

13歳で馬の手入れを始め、競馬を一から学んだ。マフーと呼ばれる厩務員、労働組合、そして背後の黒幕たちに父がひるまず向き合い、状況を変えていく姿を見ていた。調教師助手になる頃には、香港競馬を呼吸するように吸収していた。ハンデ戦のシステム、調教のリズム、馬主との駆け引き、騎手の心理。すべてが身についていた。

しかし、その先の道は、あやうく閉ざされるところだった。

ローリーが調教師定年の65歳に達した時、ファウンズ家に続いてきた調教師の系譜は、途切れる寸前まで追い込まれた。今となっては信じがたいが、2003年、キャスパーには調教師免許が認められなかった。人に頭を下げて懇願するような人物ではなかったローリーは、英字紙『サウスチャイナ・モーニングポスト』の最終面に公開書簡を寄せ、胸の内を吐露した。

ローリーは書簡で、息子が18年間にわたって自分のそばで働き、調教師の仕事を学んできたこと、それにもかかわらず、ファウンズ家から調教師免許を持つ者が60年以上ぶりにいなくなろうとしていることを訴えた。

「胸を張りなさい、息子よ。私はお前を誇りに思う」

かつて父ローリーの前に立ちはだかった香港競馬界の既存の壁が、今度は息子の行く手も阻んでいた。2人ともよそ者で、受け入れられるまでには時間がかかった。

だが、シーズン終盤の土壇場で、別の外国出身トレーナー、ピーター・チャプルハイアム調教師が突如として香港競馬を離れた。それによって、ようやく扉がわずかに開いた。キャスパーはその扉を通り抜け、そこから着実に道を切り開いていった。

Caspar & Lawrie Fownes Hong Kong early days
LAWRENCE FOWNES & CASPAR FOWNES / Hong Kong / Photos by Idol Horse
Caspar and Lawrie Fownes in Hong Kong
LAWRENCE & CASPAR FOWNES / Hong Kong // Photos by Idol Horse

晴れて調教師となったキャスパー・ファウンズは、厩舎開業直後から結果を残し、成績は上がり続けた。

評価の甘い人ではなかった父ローリー自身が、やがて息子の方が優れた調教師になったと認めるまでになった。キャスパーに自己評価を求めると、持ち前の謙虚さが顔を出す。自分の方が優れているとは決して口にしない。しばらく考えた後、自分は父よりも優れた騎手を起用できたからだと答えた。

私は、父は義理堅すぎたのではないかと水を向けた。キャスパーも否定しなかった。ローリーは義理立てから、厩舎の主戦騎手を使い続けることがあった。だが、キャスパーはそうしない。騎乗が水準に達していなければ、誰が乗っていようと関係ない。そして、そのことは本人にはっきり伝える。

「それが受け入れられないなら、辞めてもらって構いません」

ファウンズ師は、淡々とそう言う。

今シーズンここまでに挙げた69勝のうち、46勝はハッピーバレー開催でのものだ。そのうち3勝は、直前の水曜夜、助っ人としてファウンズ厩舎の主戦を務めたジョアン・モレイラ騎手が挙げたものだ。5度目のタイトルを手にすれば、それは実質的に、水曜夜の積み重ねで築いたものとなる。

なぜ、これほどハッピーバレー競馬場に強いのか。それは、どの馬がこの舞台で力を発揮するかを見極め、その持ち味を最大限に引き出すのがうまいからだ。

誰もハッピーバレー向きとは考えないような馬を連れて行き、そこで一変する姿を見てきた。そうした馬は、成長してシャティンへ戻り、以前より優れた走りを見せる。

「ハッピーバレーで走ることによって、実際に馬が成長する場合があります。ハッピーバレーまで移動すること、急カーブのコーナー、そしてそこで経験する一連のことが、馬を成長させるのでしょう。ハッピーバレーへ連れて行った馬が、その後シャティンに戻って何勝かすることはよくあります」

それだけではない。

「競馬場そのものが大好きなんです。心から愛している場所です」とファウンズ師は語る。少年時代、父の馬がハッピーバレーで走る姿を見ていた頃から、その思いは変わらない。「レースがすぐ目の前で行われます。観客席が5階、6階、7階まで積み重なり、その歓声が真っすぐ下へ降りてくるんです」

そして、そこにある劇場的な雰囲気も愛している。ファウンズ師自身が主役になることも多い。ファウンズ師の豪快な勝利のパフォーマンスは、ハッピーバレーの空気の一部だ。水曜夜、ライバルのダニー・シャム調教師が2連勝した後、ファウンズ師がこの日3勝目で応戦すると、拳を突き上げながらパドックへ出ていき、こう叫んだ。

「勝負を挑むなら、こちらも受けて立ちますよ!」

ファウンズ厩舎の馬が勝ち負けに加わってくれば、その走りが目に入るより先に、ファウンズ師の声が聞こえてくる。

ある世代の競馬ファンにとって、忘れられないキャスパー・ファウンズの姿がある。

2010年、ハッピーバレーの昼開催で6勝を挙げ、調教師による1開催最多勝記録に並んだ時のことだ。ファウンズ師はパドックで完全に我を忘れ、突然ディスコダンスのような動きを披露した。最初は両腕をぐるぐると回していただけだった。

やがて勢いが増し、最後は映画『サタデー・ナイト・フィーバー』からそのまま抜け出してきたような、ジョン・トラボルタばりの指差しポーズに変わった。どこから出てきた動きなのかと聞かれても、本人にも分からないという。

「自分の中から、自然に出てきたんです。私の頭の中に誰が住んでいるのか、自分でも分かりません」

その振る舞いについて、少しも悪びれる様子はない。むしろ、競馬にはもっとああした姿があっていいと考えている。「競馬はスポーツです。勝った時は、もっと思い切り喜んでいいんです」と本人は言う。

クラス5でもG1でも、ファウンズ師にとっては同じだ。「本当に、自分も騎手になったような気持ちで、ゴールまで声を上げて応援しています。それが楽しいんです」と話す。

その感覚を失ったなら、競馬の大切なものをすべて失ったのと同じだという。その喜びが演技にならないのは、一つの勝利の背後に何があったのかを知っているからだ。

「人々には、馬がレースに出て、いとも簡単に勝ったように見えるんです。でも、その馬が2週間前に熱を出していたことや、体のどこかを痛めていたことは分かりません」

現在の香港競馬を輝かせている2頭、カーインライジングとロマンチックウォリアーの話になると、チャンピオントレーナーとしての顔は影を潜め、一人の競馬ファンとしての情熱が前面に出る。

2頭はファウンズ師の管理馬ではない。だからこそ、その賛辞は胸を打つ。

香港史上屈指の2頭について、ファウンズ師はこう語る。

「あの2頭を見られるなんて、私たちにはもったいないほどです。本当に信じられない存在ですよ」

カーインライジングには、良い意味で恐ろしさを感じている。

「規格外の怪物です。機械のような馬です」

マイルで試す機会があれば、世界最高のマイラーたちにも勝てると確信している。そして、見られるうちに誰もが2頭を見てほしいと考えている。

「競馬ファンなら、実際に競馬場へ来て、あの2頭が走る姿を見るべきですよ。サッカーのワールドカップや、ゴルフのマスターズを見に行くようなものです」

しかも、ファウンズ師のタイトル争いには、ほかとは違う難しさがある。自厩舎に、そうした怪物が一頭もいないのだ。厩舎には重賞勝ち馬がいない。G1勝ち馬どころか、今シーズンはG1に出走した馬さえいない。シーズンを通じて4勝以上を挙げた管理馬も一頭もいない。

割り当てられている70馬房のうち、ちょうど半数にあたる35頭がレーティング60以下だ。ライバル厩舎には複数勝利を挙げる馬、香港ダービー出走馬、広く名を知られた馬がいる。ファウンズ厩舎にいるのは、ひたむきに走る馬たちと、それを生かす戦略だ。

「チェスのようなものです。常に4手先を考えています」

適切なレースを見極め、機を待ち、好機が訪れれば確実にものにする。外から見えるほど簡単な戦いではなかったと強調する。シーズンを通じてシャム調教師、マーク・ニューナム調教師と首位を入れ替えながら争い、一度は追い抜かれて3位まで後退した。そこから2位へ戻り、さらに首位まで盛り返した。

「外からは簡単そうに見えるでしょう。でも、感情を大きく揺さぶられるシーズンでした。本当に厳しい戦いです」

Joao Moreira with Caspar and Ronan Fownes at Happy Valley in 2026
JOAO MOREIRA, CASPAR & RONAN FOWNES / Happy Valley // 2026 /// Photo by HKJC

話題が香港という街そのものに移ると、この昼食の間で初めて、ファウンズ師は話す速度を落とした。

「香港の人々が大好きです。中国の人々も、その文化も大好きです。この場所のすべてを愛しています」

香港が苦難を経験する姿を見てきた。

「停滞した時期もありました。最近も、本当に厳しい時期がありました。それでも香港は必ず立ち直ります」

まるで家族について話すかのような口調だった。もしかすると、それは自身の一家にも通じる性質だからこそ、よく理解できるのかもしれない。再び立ち上がる街は、かつてゼロからの再出発を迫られた一家を受け入れた街でもある。

どのような時も、香港の競馬だけは変わらず続いてきたとファウンズ師は考えている。光、動き、馬、個性豊かな人々。街でほかに何が起きていても、週に2回、競馬は行われる。ファンについて、こう語る。

「競馬ファンには足を運べる場所があり、楽しみにできるものがあります。日常を少し忘れられるんです。馬券を買うにしても、自分なりに予想を巡らせ、結果に関わっているような感覚を持てます」

今やファウンズ師自身が、この街を彩る主要人物の一人だ。その立場を受け入れている。昼食へ向かう途中、近くの銀行で働く人たちに写真を頼まれ、快く応じた。

その後、誰かが「ガーヤウ!」と叫んだ。「頑張れ」を意味する、いかにも香港らしい広東語の励ましだ。香港が自分たちの仲間と認めた人物に向かって投げかける言葉である。九龍の通りの向こうから、その声が飛んできた。

英国のパスポートを持ち、カルカッタに生まれ、ヒマラヤ山麓で学び、オーストラリア人女性と結婚し、そして完全に香港の一員となった男に向けて。

父がスイカの値段に愕然とする姿を見た少年は、この街に深く根づく存在になった。

Caspar and Lawrie Fownes on the rails at Sha Tin
CASPAR & LAWRENCE FOWNES / Sha Tin // 1990s /// Photo by Idol Horse
Lawrie & Caspar Fownes in Hong Kong
LAWRENCE & CASPAR FOWNES / Hong Kong / Photo by HKJC

ファウンズ師がこれまで獲得した4度の香港リーディングタイトルは、すべてが同じ重みを持っていたわけではない。

最も重かったのは3度目だった。父ローリーが癌と闘っていた時期に勝ち取ったタイトルであり、2015年4月、父はパメラと3人の子供たちに見守られながら、大埔の自宅で77歳の生涯を終えた。

その数日後、キャスパーはこう話していた。

「最後の数日間も、父は闘い続けていました。頭は最後まで非常に明晰でしたが、体が持ちませんでした」

失ったのは父だけではなく、「恩師であり、親友でもあった」人物だった。ローリーは息子に、正直さ、誠実さ、思いやり、愛、そして許す心を植えつけようとしていた。そして、キャスパーはこう続けた。

「父が私の人生にいてくれたことは、本当に恵まれたことでした。父が私にしてくれたように、私も息子たちにとって良い父親になれたらと願っています」

だからこそ、実現すれば5度目となる今回のタイトルは、過去4度以上の意味を持つ。今、厩舎で誰が一緒に働いているかが、その理由だ。

息子たちもまた、かつてのキャスパーと同じように、父の後をついて厩舎を歩き回るうちに、競馬に心をつかまれていった。

ローナンは右腕であり、すでに競馬界で働いている次世代の“ファウンズ”だ。兄のライアンも競馬に強い関心を持っている。末っ子のライリーも後に続こうとしているが、まだ学生である。

キャスパーの妻アリックスは、今回のタイトルをどうしても取ってほしいと願ってきたという。夫がどれほどの調教師なのかを、すべての人に示してほしいと思っていた。今シーズン、ファウンズ師は腰を据え、その期待に応えることを決めた。

モチベーションについては、こう語る。

「家族の存在が非常に大きいです。息子たちは成長し、今ではチームの一員として支えてくれています」

物語の形は、いつの時代も変わらない。結果的に人生最後の数カ月となった時期、ローリーはHKJCがシャティンに構えるクラブハウスで、息子の3度目のリーディングタイトルについて語った。その時も、当時厩舎で働いていた自身の娘フェネラが果たした役割を、忘れてはならないと強調した。

「チーム全体の努力です」

父ローリーの後をついて回ったキャスパーは、やがて息子たちに後をついて回られる父親になった。一族に受け継がれたのは、香港へ届く前に奪われた金ではない。金では買えない、家族を大切にする価値観と競馬への愛だった。

食事の皿が片づけられる頃、尖沙咀の空が割れたように、激しい雨が降り始めた。台風警報が発令され、雨が滝のように降り注ぐ。バスの屋根からは、大量の雨水が波打つように路上へ流れ落ちていた。

ここでようやく、携帯電話の意味が分かる。昼食の間、何度も画面へ目を向け、注意を別の場所にも向けていた理由だ。厩舎では一頭の馬が体調を崩し、疝痛の症状に苦しんでいた。ファウンズ師は食事中ずっと、送られてくる動画で状態を確認していたのだ。

雨の中を近くのシャングリ・ラ・ホテルまで歩き、そこからウーバーを呼んで厩舎へ戻るという。

馬と馬主を何よりも先に大切にする。遠い昔、別の国でローリーが一人の少年に叩き込んだ教えだ。

その少年は今、58歳になった。5度目のタイトルを懸けた香港競馬シーズンは、執筆時点で残り2開催。それでも香港の豪雨の中へ急ぎ、父から教えられたことを、今も変わらず実行しようとしている。馬が第一だ。

マイケル・コックス、Idol Horseの編集長。オーストラリアのニューカッスルやハンターバレー地域でハーネスレース(繋駕速歩競走)に携わる一家に生まれ、競馬記者として19年以上の活動経験を持っている。香港競馬の取材に定評があり、これまで寄稿したメディアにはサウス・チャイナ・モーニング・ポスト、ジ・エイジ、ヘラルド・サン、AAP通信、アジアン・レーシング・レポート、イラワラ・マーキュリーなどが含まれる。

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