飛び交う巨額マネー、木陰の女王たち…“日本独自”の当歳馬セールは活況、熱気に満ちたセレクトセール
ノーザンホースパークの木々の下に、母馬と当歳馬約500頭が集まった。この日、血統と将来性を見極めようとするオーナーたちが、「世界的にも珍しい」大勝負に挑もうとしていた。
飛び交う巨額マネー、木陰の女王たち…“日本独自”の当歳馬セールは活況、熱気に満ちたセレクトセール
ノーザンホースパークの木々の下に、母馬と当歳馬約500頭が集まった。この日、血統と将来性を見極めようとするオーナーたちが、「世界的にも珍しい」大勝負に挑もうとしていた。
2026 07 15デアリングタクトはこの日、歩き回っていたが、落ち着きは保っていた。誇らしげに頭を高く掲げ、目には鋭さがある。母馬らしい力強い体で、苔むした草地の上を、軽やかにあちらへ、こちらへと歩く。
馬を引くスタッフもその動きに合わせ、短く持った引き手を軽やかに、しかし確実に操る。必要な時には肩に手を添え、自由に動けるだけの余裕を与えながらも、しっかりと制御している。
数メートル先、長く続く木立の端には、デアリングタクトの仔が立っている。イクイノックスを父に持つ二番仔の牡馬へ、声を潜めた報道陣がカメラやスマートフォンを向けている。
当歳の牡馬はじっと立ったままだ。耳をそばだて、左右交互にゆっくりと動かしたかと思えば、今度は高く立てる。尾は穏やかに揺れている。
母のデアリングタクトは、6年前に鮮烈な牝馬三冠を成し遂げた名牝である。今も動き続け、立ち止まるのはほんの一瞬にすぎない。それでも、その振る舞いには女王らしい威厳と力強さがある。
かつて競馬場の女王として君臨したデアリングタクトの脳裏には、自らが経験した光景がよみがえっているのかもしれない。それは、間もなくこの若き王子を手にする新たなオーナーが、いつかこの牡馬にも同じ舞台を経験してほしいと願うものでもある。
「きっと興奮しているんです」
デアリングタクトの担当者は笑顔を見せた。
「この雰囲気で、競馬場を思い出しているのではないでしょうか」
ここでレースが行われるわけではない。だが、湿気を含んだ灰色の空が広がる、蒸し暑い朝のノーザンホースパークには、紛れもない期待感が漂っている。木々の下には、ほのかな緊張と、抑え込まれた高揚感が満ちていた。
頭上には、高く伸びたカラマツが濃い緑色の松葉のような葉を茂らせ、その間にカエデやシラカバが立つ。木立の向こうには、開けた草地が広がっている。

その周囲では、オーナー、調教師、生産者といった購入希望者が行き交い、あるいはその場に立っている。記者やカメラマンのほか、吉田ファミリーゆかりの地で開かれる年に一度の巨大な当歳馬セールを見に来た、限られた見学者たちの姿もある。
こちらでは興奮した仔馬が立ち上がり、あちらでは別の仔馬が母馬の乳を飲んでいる。
周囲には繁殖牝馬が並び、落ち着いている馬もいれば、草を食んでいる馬もいる。神経を研ぎ澄ませている馬、そわそわと動き続ける馬、前脚で地面をかく馬、蹄を踏み鳴らす馬もいる。
仔馬たちは歩いたり、軽く駆けたりしている。単独のこともあれば、母馬と並んで進むこともある。
そのすべてを包み込むのが、途切れることのない馬たちの声だ。あちらから、こちらから、いななき、母馬が発する低い声、幼い仔馬の甲高い鳴き声が飛び交う。
まるで拍子の少しずれた、馬たちによるコール・アンド・レスポンスの大合唱のようだった。
すべてが始まったのは、午前7時半から8時の間だった。人生でめったに出会えない光景を前にすると、時間の感覚はいつの間にか失われていく。
その頃、繁殖牝馬と仔馬、そして担当者たちが厩舎から姿を現し、馬道を通って木立と草地へ向かっていった。
一見すると混沌としているが、そこには明確な秩序がある。繁殖牝馬と仔馬は上場番号順に列をつくり、高い評価が見込まれる馬たちはカラマツの間で待機している。
後半の上場馬は草地で辛抱強く順番を待つ。やがて列に沿って進み、木々の間を抜け、最後は引き戸の向こうにあるセール会場のステージへ向かう。
その先にあるのが、日本競走馬協会(JRHA)が主催するセレクトセールの会場。まさに壮麗なパビリオンだ。前日には、良血の1歳馬たちが驚くほどの高値で次々と取引された。
だが、ここで明確にしておくべきことがある。当歳馬は決して付け足しではない。かつてのセレクトセールでは、むしろ1歳馬の方が脇役だった。
「以前は1歳馬を売っていませんでした。当歳馬のみでした」
ノーザンファーム代表の吉田勝己氏は、Idol Horseの取材にそう語った。
セレクトセールが現在の形で始まった1998年には、1歳馬と当歳馬の両方が上場された。しかし吉田氏によると、翌年には1歳馬部門が取りやめとなり、2006年に復活するまで開催されなかった。
「不思議なことに、お客さんが当歳馬セールを望んでいるんですよ。それが習慣でした」
「全部1歳馬に変えようかとしたことも昔はありましたが、お客さんの方が当歳馬が良いと希望するんです」
念のために言えば、当歳馬市場の主軸は転売益を狙うピンフッキングではない。ここで買うのは、世界の競馬界を代表する大物たちであり、日本競馬界でも最高水準のバイヤーだ。良血馬を転売するためではなく、自らの所有馬を見つけるために買っている。
「お客さんの中には、当歳馬を早く買わなければというイメージがあるようです」と吉田勝己氏は説明する。
「当歳馬セールの方が血統が良いとされているのが理由かもしれません。私自身は、当歳馬セールをやめて1歳馬だけにしても構いませんが、そうなると庭先取引で先に決まってしまう習慣があるんです。日本人の面白いところですね。世界中にはない文化ですね」


木陰では、購入を検討している人物が担当者に頼み、仔馬を母馬と並べて立たせている。仔馬を母馬の体の内側に収めるように配置し、両馬の体つきを比較しているのだ。
まだ体つきよりも長い脚の方が目立つ、生後数カ月の馬が、将来どのような姿になるのかを想像しようとしている。
オーストラリア競馬を代表する名伯楽、故バート・カミングス調教師の言葉を借りれば、1歳馬を買うことは、エンジンの性能がまったく分からない車を買うようなものだ。であれば、当歳馬を買うこととは、いったい何と例えればよいのだろうか。
「かなりの賭けです。当歳馬を見極めるのは本当に難しいものです」
クラシックトレーナーの中内田充正調教師は、Idol Horseの取材にそう答える。
「2年後、どんな馬になっているかは分かりません。それでも自分がその賭けに出なければ、誰かが賭けに出て、良い馬を手にすることになります」
それでも、日本の意欲的な購買者が尻込みすることはない。そして生産者側にも利点がある。
「見るのは、その時点での仔馬そのものです。成長の早い遅いが表れる前の、ありのままの姿を見ることができます。なぜなのかを言葉で説明するのは難しいですが、良い馬なら、誰よりも先に当歳のうちに買いたい。それがオーナーたちの考え方なんです」
中内田師はそう説明する。
落札したオーナーは、自らが最善と考える育成方針を選ぶことができる。いわば、まっさらなキャンバスであり、翌年の1歳馬セールに向け、ほかの誰かの方針で仕上げられた馬でもない。
「生産者の立場から見れば、投資を早く回収できる利点もあります」
「次の世代を生産するための資金を得られます。当歳で売れば、それほど長く待つ必要がありません。1歳馬や2歳馬として売るなら、資金が戻るまで2年ほどかかる場合もあります。しかし当歳で売れば、母馬に種付けをしてから1年後には回収できます」
馬道の先頭に立つのは上場番号301番、フランスのG3勝ち馬であるキングズハーレクインを母に持つ、イクイノックスの第2世代産駒となる牡馬だ。
その顔には父と同じ白い流星がある。耳をせわしなく動かし、若い牡馬らしい落ち着かない仕草を見せながら、神経質な緊張を隠せずにいる。一方、母馬は眠そうな様子で、鳴き続ける息子を気にも留めていない。
しかし、母仔がそろってセール会場へ入ると、立場は逆転する。
競売人が次々と入札額を読み上げ、会場のビッドスポッターが購買者からの合図を声に出して伝える中、キングズハーレクインは引き手を引っ張り、後ずさりする。トモの筋肉はこわばり、耳と尾を絶えず動かしている。
二日目の朝、藤田晋氏は、購買者用に確保された緑色の椅子に座っていた。高さ約2メートルの鉢植えの針葉樹が並ぶ列のすぐそばだ。
BCクラシックとサウジカップを制したフォーエバーヤングのオーナーである藤田氏は、前日の1歳馬部門で6頭を購入していた。その中には、1歳市場初のイクイノックス産駒として上場された8200万円(約50万米ドル)の牡馬も含まれている。落札総額は10億200万円(約610万米ドル)に達した。
だが、サイバーエージェントを創業した53歳の億万長者は、潤沢な資金力を誇る。
藤田氏はこの日の口火を切り、上場番号301番を2億円(約120万米ドル)で落札した。キングズハーレクインの2026の4代母は、英国の伝説的スプリンターであり、名繁殖牝馬でもあるマーウェルだ。
当歳馬を買う際には、やはり血統が何よりも重視されるようだ。
「馬は時間とともに変わっていきます。だから血統が重要ですし、母馬のほかの産駒や、その母馬自身についてもよく見ておく必要があります」
中内田師はそう語る。
「このセールでは、仔馬と一緒に母馬も来るので、仔馬だけでなく母馬も実際に見ることができます。これは非常に大きな利点です。また、このセールの取引馬は競馬場でも良い成績を挙げています。だから購買者も信頼しているんです」
その購買者の信頼と優れた血統が一つになったのが、中内田師自身もよく知る一族の牡馬だった。
少し前、木立の端に近い静かな場所では、オーストラリアのG1馬ヤンキーローズが、落ち着き払ったキタサンブラック産駒の牡馬と並び、草を食んでいた。
母仔は上場番号401番としてセール会場へ入った。
ヤンキーローズは、中内田厩舎で牝馬三冠を制しながら、不運にも早世したリバティアイランドの母だ。今回の当歳馬は、その半弟に当たる。
この牡馬は、大口購買者として知られるエムズレーシングが4億1000万円(約250万米ドル)で落札した。これこそ、購買者の信頼が示された結果というものだろう。


まだ幼さの残る上質な当歳馬を売買することは、欧州をはじめとする“旧世界”のオーナーや生産者には奇異な文化に映るかもしれない。
繁殖牝馬と仔馬がそろってセール会場に立つ姿も、誰もが理想と考える方法ではないだろう。それでも、この仕組みは機能している。
そして、木々の下で母馬と仔馬が寄り添い、まだ始まったばかりの生涯における大きな瞬間に備える光景には、特別なものがある。
また、落札されたからといって、仔馬がすぐに母馬から引き離されるわけではないことも記しておくべきだろう。精神的な負担を避け、健全な育成と離乳を可能にすることは、馬の成長にとって極めて重要だ。
「仔馬は原則、翌年3月まで母馬と一緒に過ごします」と吉田勝己氏は説明した。
「オーナーには、まず代金の半額を支払っていただき、翌年3月に残りの半額を支払っていただきます。その時点で、完全な所有権がオーナーへ移ります」
落札された仔馬を連れながら、これから牧場へ戻る繁殖牝馬の中には、オーストラリアのG1馬モシーンもいた。セール前、モーリス産駒の牝馬と並んで注目を浴びても、モシーンはまったく動じなかった。
ニューマーケットのG1・フィリーズマイルを制したコミッショニングと、キズナ産駒の当歳牡馬もいた。この牡馬は2億7000万円(約160万米ドル)で落札された。
さらに、欧州のG1馬インカーヴィルと、アドマイヤマーズ産駒の当歳牡馬も会場に姿を現した。
大口購買者の一人で、「ダノン」の冠名で知られる野田順弘氏は、オーストラリアの一流馬ファンスターを母に持つイクイノックス産駒に3億1000万円(約190万米ドル)を投じた。同氏はその前日にも、ファンスターの半姉、ヤングスターを母に持つ1歳馬を、4億2000万円(約250万米ドル)で購入している。
デアリングタクトと仔馬の当歳牡馬は、上場番号372番としてセール会場へ入った。
木立の下で見せていた光景が、ここでも繰り返される。ただし、ステージ上の女王には、今度はいくらか焦れた様子も見える。
歩みを止めず、鼻先を担当者へ押しつけ、自らの存在を強く示す。一方、イクイノックス産駒の牡馬は静かに外を見つめている。競売人の歌うような独特の節回しを聞きながら、いったい何が起きているのだろうと考えているのかもしれない。
デアリングタクトの若きプリンスは、3億3000万円(約203万米ドル)で落札された。
1歳馬部門の売却総額は、日本のセール史上最高となる176億6000万円、約1億900万米ドルに達した。当歳馬部門の売却総額は158億2400万円となり、過去最高だった前年の171億5400万円を下回った。
中内田師は“当歳馬セール”という日本独自の存在をこのように表現する。
「世界のどこを見てもこのようなセリは行われていませんが、日本の競馬界ではうまく機能しています。とりわけ、このセレクトセールの運営は見事です」
激しい雨が降った後、午後は次第に暮れ、夕方へと近づいている。パビリオンの向こうにある木立は、今では静まり返っている。草地にも、もう誰もいない。
繁殖牝馬と仔馬は去り、購買者たちも会場を後にしようとしている。
彼らが資金を投じたのは、答えが出るまで長い時間を要する大勝負だ。その賭けが、2年ほど待った先で報われることを願いながら。