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「競馬を見られなかった」落馬事故の“後遺症”を乗り越えて新たなステージへ、イーサン・ブラウン騎手が香港デビュー

大きな落馬事故、トラウマ、そして再出発。イーサン・ブラウン騎手は、レースを見ることすらできなかった日々を乗り越え、香港競馬で新たな一歩を踏み出そうとしている。

「競馬を見られなかった」落馬事故の“後遺症”を乗り越えて新たなステージへ、イーサン・ブラウン騎手が香港デビュー

大きな落馬事故、トラウマ、そして再出発。イーサン・ブラウン騎手は、レースを見ることすらできなかった日々を乗り越え、香港競馬で新たな一歩を踏み出そうとしている。

晴れ渡ったアリススプリングスの夜、星は息をのむほど鮮やかだ。赤土があらゆる地平線へと伸び、どの方角へ向かっても最寄りの都市まで丸一日以上かかるような土地では、街灯もスタジアムも、人間の野心が放つ光もその空の広がりを損なわない。

ただ空が開ける。果てしなく、静かで、その下で何が起きていようと無関心なままに。

イーサン・ブラウン騎手は、そんな空の下で育った。乾いた暑さのなか、誰もが顔見知りで、ものを言うのは働きぶりだけという小さな町で育った。ここからは、考え得る限りもっとも遠い場所だ。

その「ここ」とは、水曜夜のハッピーバレー競馬場である。世界でも屈指の華やかさを放つ競馬場であり、都市に押し込められるように造られたコースは、片側はスタンドがホームストレートへせり出すように迫り、反対側では高層ビル群が闇夜を背に並び、人の手で造られた星座のように瞬いている。

場内に集まった1万5000人の熱気と、世界屈指の騎手たちがぶつかり合う、地上でもっとも凝縮された都市型競馬のるつぼだ。

馬たちが姿を現し始める。1頭ずつ待機場へ入り、厩務員に引かれながら、たちまちその空気に呑み込まれていく。馬たちは、しなやかに力をため、神経を張りつめ、周囲のすべてを読み取るように進んでいく。アリススプリングスから遠く離れたこの地で、イーサン・ブラウンは外側の柵越しにそれを見つめていた。

今夜、彼は乗れない。3月半ば、メルボルンで騎乗停止中だった彼は、その強制的な休養を意味のあるものへ変えた。シーズン終盤の香港参戦を1か月後に控え、バリアトライアルに騎乗し、各馬の戦績や近走内容を研究するため、下見を兼ねて香港へ飛んできたのだ。生まれつきの研究肌で、まず見て理解してから動くタイプである。

この夜の彼は、今にもフェンスを飛び越えてコースへ出ていきそうな勢いだ。

「早くあそこへ出たくて仕方ありません」とブラウンは言う。こちらもその言葉を疑う余地がない。「思っていた以上に、乗りたくてたまらないんです」

それほど騎乗を待ち望む今の姿からは想像しにくいが、つい最近までイーサン・ブラウンはレースを見ることすらできなかった。

赤土の故郷

アリススプリングスは、ここからあまりにも遠い。

距離だけの話ではないが、その距離自体も相当なものだ。彼が育った町から、最寄りのメトロ区分の競馬場までは、3000キロの砂漠地帯を横断しないといけない。ましてや、南シナ海を超えた先にある、この光に満ちた競馬場までとなれば、なおさらだ。

「赤土で、乾いた気候でして」とブラウンは簡潔に説明する。「母はごく普通の公務員でした。父は電気工です。家族にとって馬は、それほど身近な存在ではありませんでした」

彼はもともと小柄だった。それ故、周囲からは「ジョッキー向きだ」とよく言われたという。14歳のとき、学校の前後に馬房掃除や水やりを手伝っていた地元調教師の厩舎で、初めて馬に跨った。

その当時は、それが運命だとは感じていなかった。初めて実際のコースへ出されたとき、その馬は暴走した。全力で4周を疾走。止めることはできなかった。

「1週間くらい、腕の感覚がありませんでした」

今の彼は笑みを浮かべ、そう振り返る。イーサン・ブラウンという人間は、どんな逆境にも最後には笑って向き合う。ただ、そこにたどり着くまで少し時間がかかることもある。

A young Ethan Brown on strapping duties at Alice Springs in 2015
ETHAN BROWN / Alice Springs Turf Club // 2015 /// Photo supplied

The Gap Between Two Worlds

クランボーンに厩舎を構えるミック・ケント調教師(マイケル・ケント)は、競馬への向き合い方が徹底している人物だ。

ブラウンが15歳でオーストラリア南部へと移り住み、ケントのもとで暮らし始めたとき、彼はアリススプリングスを出たばかりの田舎の少年だった。実家以外では暮らしたことすらない。その二つの世界の隔たりは大きかった。

「この人は、本当に競馬に真剣なんです」とブラウンは言う。

ケントが彼に与えたものは、手綱捌き、レースを読む力、位置取りといった、騎手に必要な技術教育だけではなかった。いずれブラウンを、オーストラリア屈指の完成度を備えた若手騎手へ育てることになる細部への徹底したこだわり。それに加えて、もっと言葉にしにくい何かを与えた。

望郷の念が避けようもなく押し寄せ、たった一人、何もかも見知らぬ環境にいる重さに耐えきれなくなったときもあった。15歳のブラウンが辞めたいと言うと、ケントは彼を支えた。一度は故郷のアリススプリングスへ帰らせたが、連絡は絶やさなかった。いつも正しい方向へ導いてくれた。

「ずっと導いてくれました。どんなときでも、必ずそばにいてくれたんです」

ケントの厩舎からは、これまでにも多くの一流騎手が育っている。クレイグ・ウィリアムズ騎手も、ボー・マーテンス騎手もそうだ。ジェイク・ベイリス騎手は、あの苦しい初期の日々をともに過ごし、親友であり同居人にもなった。

騎手を育てるとは、ただ乗り手を作ることではない。そのことを理解している調教師がいる。ケントはまさにそういう人物だ。15歳で息子をアリススプリングスから送り出したあと、何週間も泣き続けた母のソニアも、早い段階から彼を信頼していた。

「誰にでも息子を預けるつもりはありませんでした」と彼女は語っている。「ミック(ケント調教師)は本当に素晴らしい方です。イーサンを助けてくれたのは、仕事の面だけではありません。精神的な面でもそうでした」

ケントを知る人たちからは、そういう話をよく聞く。

そしてそれこそが、イーサン・ブラウンがまったく別の場所ではなく、今夜ここに立っている理由なのかもしれない。

残り300メートルの悲劇

2023年3月のあの日まで、彼は自身の騎手人生で最高に充実した日々を送っていた。

そのシーズン、ビクトリア州で62勝。通算400勝も超えたばかりだった。23歳にして、年齢が倍の騎手でも成し遂げていないことを、すでにやってのけていた。3月4日、フレミントン競馬場でのG1・オーストラリアンギニーも、彼にとってはいつものG1、いつもの土曜、いつもの一戦にすぎなかった。

残り300mを切った瞬間で、騎乗馬のマキシミリアスが転倒した。

鞍上のブラウンも一緒に投げ出された。

気を失うことはなかった。それが、その後のすべてをなおさら過酷なものにした。記憶が途切れてくれるような救いもなく、意識を失うこともなかった。脳内の記憶が途絶えてしまう瞬間も、ついには訪れなかった。

馬が自分の下で崩れた瞬間から、救急車に乗せられるまでの一部始終を、彼は鮮明に覚えている。波のように押し寄せる痛みも、何かが本当におかしいという確信がその場で形になっていく過程も、すべてだ。

落馬事故で負傷したブラウンは5.5リットルの血液が流出していた。人体にある血液は6.5リットル、多くても7リットルほどである。

3日間で3度の手術。グレード5の肝損傷。動脈断裂。腎臓損傷。下部脊椎3か所にひびが入った。ロイヤルメルボルン病院の集中治療室で、パートナーで同じく騎手のセリーヌ・ゴードレーと母ソニアが付き添う最中、3日間にわたって薬で昏睡状態に置かれた。

1か月間、声すらも出せなかった。手術と大量出血が、声まで奪ったのだ。

競馬界は固唾を飲んで見守った。しかも、当時のロイヤルメルボルン病院ではテレビのドキュメンタリーシリーズの撮影が行われていたため、やがて何百万人ものオーストラリア国民が、その救命室で起きていたことの一端を目にすることになる。

土曜午後の競馬での事故、命の危機に瀕している23歳の騎手。スポーツの華やかさと、その裏で当事者が背負っている現実。その落差がむき出しになった。

落馬から5週間後、彼は公式調査の一環として、レーシング・ヴィクトリアの裁決担当者と同じ部屋でリプレーを見た。本人の言葉を借りれば、想像していた以上にショックを受けたという。

「落馬そのものも痛みも、いまでも覚えています。ずっと意識がありました。だからこそ、復帰するのが本当に難しかったんです」

落馬の「後遺症」

彼が戻ってきたのはその年の8月だった。落馬事故から5か月後。誰もが予想したより早く、おそらくは早すぎる復帰だった。サンダウン競馬場の開催で実戦復帰したとき、競馬界は安堵とともに、それを奇跡と呼んだ。

だが、あれはまだ本当の意味での復帰ではなかった。

「戻って4か月くらいの頃だったと思いますが、『これは早すぎた。まだ無理だ』と感じたんです」

2023年10月、ブラウンは再びレースから離れた。競馬界ではあまり耳にしないほど率直な声明とともに。

「復帰の準備はできたと思っていました。表に出ないところで本当に必死に努力して、またレースで乗れるようになろうとしていました。ただ、落馬前のレベルでレースに乗るところまで戻るには、どれほどの自信、自分を信じる力、ひたむきさ、そして強い意志が必要なのか、見誤っていました」

だが、彼が公には語らなかったことがある。そしていま、ハッピーバレーの灯の下で馬たちが通り過ぎるのを見ながら、ようやく話し始める。その数か月が実際にはどんな日々だったか、ということだ。

PTSD。不安。心が起きた出来事を処理できないとき、身体は身体なりに反応する。その結果として増えた体重。かつて騎手としてのブラウンを特別な存在にしていた資質、つまり痛みを押し切り、踏ん張り、馬上で迷いを見せない本能は、今度は彼にとって真正面から逆風となった。

ブラウンは騎手人生を通じて、自分の身体が発する警告をコントロールことを学んできた。だが今度は、その信号だけが唯一耳を傾けるべきものになっていた。

しかもパートナーのセリーヌ・ゴードレーは、同じ騎手として毎日勝負服を着てレースへ向かう。その間、彼は家でその現実と向き合っていた。

「最初は、レースを見ることすらできませんでした。本当に見られなかったんです。見ようとしても、『いやだ、自分が経験したようなことを誰にも味わってほしくない』と思ってしまって」

「特にセリーヌはそうでした。彼女は乗っていましたから。あの姿を見ることができなかったんです」

苦しさは、単に向き合えないスポーツがあったというだけではない。愛する人が、自分を深く傷つけたその仕事を続けている。その姿を外から見守るしかない日々だった。周囲には家族や友人、そしてセリーヌがいた。

「たぶん、患者としては扱いやすい相手ではなかったと思います。家でじっとしていると、落ち込むし、気分も悪くなるし、世界そのものに嫌気がさしてくるんです」

それでも彼は乗り越えた。結局のところ、自ら離れる勇気こそが彼を救った。

「これで強くなれました。人は学びますから。そして、ものすごく感謝できる人間にもなったと思います。すべてを失いかけるところまで行きましたから」

本当のどん底を抜けてきた人には、独特の語り方がある。大げさでもなければ、見せるためでもない。不要なものが削ぎ落とされ、より澄んだものだけが残ったような、落ち着いた明晰さがある。ブラウンの話し方はまさにそれだ。

自分がどれほど苦しんだかを語っているのではない。そこを越えてきたことを語っている。

「復帰するには、自分の身体が『もう大丈夫だ』と言ってくれるのを待つしかありませんでした。無理に急ごうとはしなかったんです。ある日ふと、また乗りたいと思えた。そこから始めました。必要だったのは、とにかく忍耐でした」

彼が復帰したのは2024年1月。その春のカーニバル開催ではG1レースを3勝し、メルボルン地区のジョッキーリーディングでも3位に入った。そして香港競馬から声がかかった。

Ethan Brown salutes the Caulfield crowd
ETHAN BROWN, JIMMYSSTAR / G1 Oakleigh Plate // Caulfield /// 2025 //// Photo by Grant Courtney
Ciaron Maher and Ethan Brown with the Oakleigh Plate
CIARON MAHER, ETHAN BROWN / G1 Oakleigh Plate // Caulfield /// 2025 //// Photo by Grant Courtney

「香港へようこそ」

ハッピーバレー競馬場は、いつものように音と光と電気のような熱を放っている。馬たちはすでにゲート後方で待機し、発走は近づいている。

その日、中国語の地元紙に一本の記事が出た。「次なる豪州の若手が香港を制しに来た」と。見出しはこうだった。「イーサン・ブラウンは『パートン2.0』を目指す」。敬意から口にしただけのパートンの名前を、彼が決してしていない宣言へとすり替えた見出しだった。

ブラウンは、その点をはっきり訂正する。

「いや、今の時点で、自分をそんな立場ではありません。とにかくベストを尽くしたいだけです。誰かと自分を比べるつもりもありません。純粋に、ここで学びたいんです」

その答えには、控えめな野心がある。そうでなければ、そもそも彼はここにいないだろう。だがその言い方には、野心以上に、苦しみの末に身につけた何かがにじむ。自分の先を急がないこと。身体が合図をくれるのを待つこと。物事が訪れるのを受け止めること。そうしたことを、難しい形で学んだ人の響きがある。

27歳にして彼は、多くの人が一生かけても向き合わずに済ませてしまうようなことを、すでに自分の中で知っている。

ブラウンが話している最中、一人の人物がパドックの方向から近づいてきた。

背筋は伸び、歩みは悠然としている。過去四半世紀の香港競馬を見てきた人なら、説明されるまでもなく分かる顔だ。

その人物は手を差し出す。

「イーサンさんですか? ダグラス・ホワイトです。香港へようこそ」

自己紹介はもはや必要ないだろう。アリススプリングスでテレビ越しに香港競馬を知り、9年前、メルボルンで見習い騎手として競馬界に足を踏み入れた少年に、この人物が誰かを改めて説明する必要もない。

騎手時代のホワイトは13年連続リーディング。1813勝。現在は調教師だが、おそらく今もなお、この街が生んだ史上最高の騎手だ。ブラウンはその手を握る。アリススプリングスからハッピーバレーへ。かつて馬が暴走し、1週間腕の感覚を失ったあの砂の調教コースから、この力強い握手へ。

「香港へようこそ」

馬たちが収まり、ゲートが開く。新たなレースが始まる。

マイケル・コックス、Idol Horseの編集長。オーストラリアのニューカッスルやハンターバレー地域でハーネスレース(繋駕速歩競走)に携わる一家に生まれ、競馬記者として19年以上の活動経験を持っている。香港競馬の取材に定評があり、これまで寄稿したメディアにはサウス・チャイナ・モーニング・ポスト、ジ・エイジ、ヘラルド・サン、AAP通信、アジアン・レーシング・レポート、イラワラ・マーキュリーなどが含まれる。

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