アクシデントにBC補欠の不運…それでも英国のレベッカ・メンジーズ調教師が前を向く“理由”「やることが山積みなんです」
レベッカ・メンジーズ調教師の陣営に、思いがけない大きな夢を運んできたアドニウス。だが、Idol Horseのデイヴィッド・モーガン記者が米国遠征を取材しようと厩舎を訪ねると、穏やかな朝は一転、緊迫した事態に変わった。
アクシデントにBC補欠の不運…それでも英国のレベッカ・メンジーズ調教師が前を向く“理由”「やることが山積みなんです」
レベッカ・メンジーズ調教師の陣営に、思いがけない大きな夢を運んできたアドニウス。だが、Idol Horseのデイヴィッド・モーガン記者が米国遠征を取材しようと厩舎を訪ねると、穏やかな朝は一転、緊迫した事態に変わった。
2026 10 29レベッカ・メンジーズ調教師は、ようやく息ができるようになった。30秒ほどの間、地面に横たわり、必死に空気を吸い込もうともがいていた。それが今は道端の草地に上体を起こし、片腕を抱えながら話していた。
「ちょっと息ができなくなっただけです」
「病院へ行ったほうがよくないですか?」
「大丈夫です」
「骨は大丈夫ですか?あれだけ蹴られたのに、どこも折れていないんですか?」
「折れているかもしれませんね」とメンジーズ師は顔をしかめながら、少し笑った。
ちょうどそこへ、厩舎の事務担当であるアンナ・ドーソン氏が白い車でやって来た。顔には心配の色が浮かんでいた。メンジーズ師は大丈夫だと言い、調教助手のカイ氏の様子を見に行くよう伝えた。だが、とても大丈夫には見えなかった。少なくとも、完全に無事という様子ではない。たった今起きたことを思えば、当然だった。
金曜の朝だった。快速2歳馬のアドニウスとケンタッキー州のブリーダーズカップへ向かう、厩舎にとって過去最大となるはずの遠征が、2週間後に予定されていた。イングランド北東部、ダラム州のハウヒルズステーブルの穏やかな朝が、突然の事故で一変した。
アドニウスを共同所有するマイケル・ヒューズ氏と息子たちは、馬たちが駆ける姿を眺め、ブリーダーズカップの夢を語り合う、明るくのどかな朝を過ごして帰ったばかりだった。
メンジーズ師の関心は、ゴードン・クレメンツ氏と、最近入厩した彼の所有馬2頭へ移っていた。馬たちは厩舎から小道を下り、木立のすぐ向こうにある周回調教コースへ入ろうとしていた。
枝の間で小鳥たちがさえずり、その音に遠くの高速道路A1を行く車の低い走行音が重なる。畑を2つほど隔てた先では、遠いロンドンのキングスクロス駅へ向かう南行きの列車が、朝日に銀色の車体を輝かせ、高速で駆け抜けていった。
メンジーズ師は柵に両前腕をのせ、両手を合わせながら、4頭の中にいたクレメンツ氏の牝馬のジョンキラと騸馬のティガタイムについて、馬主本人と話していた。
すると突然、その静かなひとときに異変が起きた。4頭の最後尾にいた、将来は障害競走へ向かう予定のまだ名前のない牡馬が、鋭く頭を下げた。乗り手が首の上から頭を先にして投げ出される。鳥はさえずり続け、A1の走行音も変わらない。目に映る光景だけが、頭の中でスローモーションになった。
「カイです。うちで馴致を担当しています」とメンジーズ師は言った。短い説明とは裏腹に、その声には強い心配がにじんでいた。
乗り手は仰向けに倒れ、やがて膝を立てたが、起き上がれずにいた。人を振り落とした3歳馬が、小道を軽い足取りで戻ってくる。メンジーズ師は柵を飛び越え、馬が速度を落とすと垂れた手綱をつかんだ。向きを変え、倒れたスタッフのもとへ迷いなく歩き始めた。
そのとき、またしても不意の衝撃が襲った。わずか数秒の間に、すべてが目まぐるしく起きた。
牡馬が再び急に頭を下げ、すばやく力強く跳ね上げた。手綱を振りほどき、くるりと身をひるがえすと、両後肢で激しく蹴りつけた。2つの蹄が調教師の胴を直撃する。2門の大砲を同時に放ったような、骨を砕くほどの衝撃だった。メンジーズ師は斜め後方へ吹き飛ばされ、音を立てて地面に落ちた。
クレメンツ氏が柵を乗り越えたときの出来事だった。一瞬、緊張が走ったが、馬は小道を厩舎に向かって駈けていった。
「救急車を呼ぼう」
メンジーズ師が片腕を上げた。そんな必要はない、と合図しているようだった。何とか息を吸おうとしていた。やがて、みぞおちへの衝撃が和らぎ、横隔膜の緊張が解け、肺が広がって空気が流れ込むと、彼女は上体を起こした。
ドーソン氏はすぐに駆けつけていた。カイ・ウッド氏を車に乗せ、ほどなく戻ってきた。負傷した乗り手は助手席に座り、首を支えていた。メンジーズ師は、10マイル離れたノースティーズ病院の救急外来へ彼を連れていくよう伝え、自分も一緒に行ったほうがいいという勧めを断った。
もうすぐヘイドック競馬場へ向けて出発しなければならず、その晩はニューカッスルへも行くのだという。
「やることが山積みなんです」とメンジーズ師は言い切った。声は小さくなっていたが、しっかりしていて、衝撃と痛みを覆い隠していた。
体に大きな損傷を負った直後、アドレナリンは強い力を発揮する。だが、それが引けば、本当の痛みが襲ってくる。メンジーズ師は無事なほうの腕を柵に預け、まるで直前の数分間などなかったかのように、残る3頭のキャンターを見ながら話を続けた。
「レベッカ、その腕を診てもらったほうがよくないですか。折れてませんか?」
数分間、彼女はその場にいた。そして厩舎を率いるメンジーズ師は、騒ぎ立てることもなく、静かに小型の作業用車両に乗り込んだ。運転していたのは、厩舎のアシスタントトレーナーであり、頼れる相棒でもあるアンバー・ブライス氏だった。2人はそのまま走り去った。
「タフ」という言葉では、到底言い尽くせない。
「今朝はすみませんでした」とその晩届いたボイスメッセージでメンジーズ師は言った。どうやら、それが彼女なのだ。自分のことは黙って耐え、それでも他人を気遣う。その親しみやすさに偽りはない。
「カイは首の骨を折っています」、そして「私の腕も、あまり具合がよくなさそうです」と知らせてくれた。
「あまり具合がよくなさそう」とは、ずいぶん控えめな言い方だ。実際には、腕に大けがを負っていた。
火曜の夕方、電話でさらに詳しいことが分かった。「腕の骨を、もう2回も戻してもらいました」。彼女は退院して自宅へ戻り、その日の朝には調教コースで馬たちを見ていた。医療スタッフが折れた骨を手で動かし、手首と腕をまっすぐに整復した様子を説明してくれた。前腕の骨の脱臼に加え、肋骨の骨折、肝臓の裂傷も負っていた。
今度は「無事なほうの腕」に血栓ができ、その時点ではアドニウスの生涯最大のレースとなるはずだった一戦を見に行くため、飛行機に乗る許可が下りないのではないかと心配していた。それでも、行けるなら何としても行くつもりだった。
「あの馬、蹄鉄さえ履いていなかったんです」と彼女は言った。まるでそのことが、あれほど大きな動物に両後肢で蹴られた深刻さを、少しでも軽くするかのようだった。
「もしほかの人が手を離していたら、『なんて間抜けなことを』と言っていたでしょうね」と自分自身にその言葉を向けた。
だが、状況を思えば厳しすぎる見方だ。倒れた仲間のもとへ行くことを、人としての本能が優先させたのだから。メンジーズ師は愚かなどころか、まったく逆だ。プロとしての仕事に徹し、効率的で行き届いた厩舎運営を大切にしているからこそ、あのようなことが起きてしまったという事実自体が、蹴られたのと同じほど痛かった。


それでも競馬には、あの金曜の朝のような不測の瞬間がある。いつ、どこで、誰に起きてもおかしくない。この素晴らしいスポーツがどれほど危険か、そして馬の世話をし、調教し、騎乗する人々が、どれほど献身的で勇敢で、並外れてタフなのかを、突きつける瞬間だ。
調教師、厩舎スタッフ、調教助手、厩務員、騎手。馬がつまずく、急に身をかわす、かむ、頭をぶつける、体当たりする、すばやく首を下げる。あるいは、死角から片方、時には両方の後肢で蹴る。思いもよらぬ一瞬に、衝撃は訪れる。
それが、「競走馬と働く」ということだ。体重は半トン、全身に筋肉をまとい、圧倒的な力と自分の意志を持ちながら、物事を考えて判断する能力は限られている。そんな若者のような存在を相手にしているのだ。
ただ、今回の蹴りは、メンジーズ師が今年受けた2度目の痛烈な衝撃だった。飾り気はないが立派な100馬房の厩舎で、約85頭を管理している。ハンデが厳しくなった馬を手放す大胆な判断、1歳馬セールでの投資、新たな馬主の開拓を通じて、着実に管理馬の質を高めている。
何より好きな障害馬を大切にしながら、平地馬の陣容も拡大してきた。
「4か月ほど前のことです」
事故が起きる前の、まだ何事もなかった1時間ほどの取材中に、メンジーズ師はIdol Horseにそう話していた。
「フィンズベリーフィールズという未出走馬に、5週間、毎日乗っていました。バンパーと呼ばれる障害馬用の平地競走に使う馬でした」
「一度もおかしなことはしなかったんです。普通にキャンターをしていたら、急に前へ飛び出して、土手の縁にぶつかり、つまずいて転びました。本当に偶然が重なった事故でしたが、地面がとても硬くて、頭から落ちて意識を失いました」
初夏のあの朝には、病院へ行くかどうかを議論する余地はなかった。そのときは、本人が病院行きを断れるような状態ではなかった。重度の脳振盪を起こし、脳が腫れていた。
3日後、彼女は自宅に戻っていた。英国で最大規模の障害厩舎を率いるダン・スケルトン調教師のもとから移ってきた、重要な戦力であるブライス助手は、メンジーズ師がしばらくWhatsAppを使っていないことに気づいた。何にでも自ら関わり、すべてに目を配る調教師としては、珍しいことだった。そして、ブライス助手は、自宅で意識を失っているメンジーズ師を見つけた。
CT検査で、脳の腫れは落馬前からあったと分かった。原因は感染症、髄膜炎だった。記憶と言葉にも一時的な影響が出た。
「ある時点では、全部が元どおりになるか、本当に分からない状態でした」とメンジーズ師は淡々と話した。どこか他人事のような口ぶりだった。それから、当時の思いをあらわにして言葉を紡いだ。
「幸い、元に戻りました。でも、怖かったです」
競馬に携わる多くの人と同じように、メンジーズ師が恐怖を口にすることはめったにない。弱さは見せない。優しく、親しみやすくあってもいい。
だが、成功するにはタフでなければならない。男性であれ女性であれ、こうしたことを大げさにせず、できるだけ普段どおりに仕事を続ける。それが当たり前とされている。女性なら、なおさらかもしれない。彼女の周囲では皆がそうしているし、彼女自身もそうしている。
気さくな温かさ、物事を新鮮な目で前向きに見る姿勢、そして誰の目にも明らかな打たれ強さ。そこに北部らしい飾らなさが加わる彼女は、アドニウスを所有する地元のヒューズ一家とよく気が合う。
その金曜の朝、一家とともに厩舎へ来ていたのは、ムエタイの元世界王者、リアム・ハリソン、通称『ザ・ヒットマン』だった。TikTokには20万人ほどのフォロワーがいる。
ヒューズ氏と息子たちは、ボクシングの世界に縁がある。彼は自ら汗を流して財を築き、排水工事と造成工事の会社をゼロから育てた。事業を始めたのは、かつて炭鉱があった素朴な村、トリムドンだった。のちに、ハウヒルズから車で25分の海辺の町、シートンカルーへ移った。
ヒューズ氏はドンカスターのセールで、アドニウスを3万2000ポンドで購入した。赤みを帯びた栗毛の小さな馬にひかれた。姿かたちなのか、動きなのか。あるいは、虎を思わせる鋭い目つきだったのかもしれない。一家はアドニウスとともに、クラス1競走も組まれたチェスター競馬場の開催へ足を運んだ。
そこで、アドニウスはリリーアグネスステークスを制した。グッドウッド競馬場ではG3・モールコームステークスで2着、ヨークのイボア開催でも2着。そしてキーンランドへ渡り、殿堂入りを果たしたジョン・ヴェラスケス騎手を背に、G3・インディアンサマーステークスで鮮烈な勝利を収めた。
メンジーズ師にとって、これまでの実績を大きく上回る、キャリア最大の勝利だった。


チェスターでの一戦の後、ヒューズ氏は所有権の50%を、ショーン・クランシー氏ら米国の関係者へ売却した。予定していたブリーダーズカップへの出走後もアドニウスを米国に残す方向で、調教師と馬主たちは話をまとめていた。
だが、メンジーズ師とアドニウス、そして米国での夢をめぐるこの物語は、もしかしたら始まらなかったかもしれない。
ヒューズ氏の息子、ジェイ氏は「父がレベッカ(メンジーズ師)に電話して、『実は、ちょっと手を焼く馬がいるんです。あなたなら馬を本当に分かっているし、この馬の扱い方も心得ていると思います。なんとか引き受けてもらえませんか』と頼んだんです」と明かす。
「多くの人なら、あの馬を諦めていたでしょう。レベッカとここのチームがいなかったら……。時間が必要な馬でしたし、きちんと面倒を見てもらう必要があったんです」
メンジーズ師も、連絡を貰った当初は迷ったと認めている。
「もう少しで断るところでした。馴致がとても難しくて、すでに2つの厩舎を経ていた馬だったんです」
そう話したのは、あの痛烈な蹴りを受ける1週間前、ブリーダーズカップの3週間前に当たる金曜日だった。障害競馬のヘクサム競馬場で、ハンデ戦のハードル競走に出る馬に鞍をつけながらの会話だった。
「マイケル・ヒューズ氏から電話が来て、『どれくらい手がかかるんですか?』と聞きました」
「そのころはとても忙しくて、断りかけたんです。でも、それまで馬を断ったことは一度もありませんでした。いつも、まず連れてきて様子を見ることにしていたんです」
「それで、日曜の朝、自分で馬運車を運転してミドルハムへ向かい、厩舎に着きました。アドニウスは馬房で鎮静剤が効いて眠っていましたが、帰り道の途中で目を覚まして、ちょっと本性を見せました」
「まず休ませることにして、そのまま放牧地に出したら、落ち着いたんです。最初は私自身がかなり手をかけました」
「だから、あの馬にこんなにも夢中なんです。本当に夢中なんですよ。馴致もずいぶん自分でやりましたし、スタッフの1人が毎日乗ってくれました」
「気性面は完全に変わりました」と同師は話を続ける。「馬として見違えるようになりました。自分に力があると分かっているんです」
メンジーズ師は、慣れ親しんだ英国北部の障害競馬の世界に身を置いていると話す。同時に、もっと広い地域で名前を知ってもらうことが、厩舎経営にとっていかに重要かも語る。障害競馬が土台なのは変わらない。だが、賞金の低さという純粋な経済事情が、平地にも目を向けなければならないことを物語っている。
30代後半に差しかかる、まだ若い彼女は意欲にあふれている。周囲の信頼を集めるチームと、勝てる厩舎を築きつつある。充実した設備をそろえ、伝統的な馬の扱いと新しい手法を結びつけながら、馬主一人ひとりに目を配る場所だ。
「北部で運営している、南部の厩舎のようなものです」と彼女は言った。
サラブレッドへの愛情と同じくらい、成功を目指す意欲も明らかだ。カンブリアの自宅裏にある放牧地へ毎年夏にやって来る馬が、いつもの白黒の小型馬とは違うと気づいた「8歳か9歳」のころから、それは表れていた。そこに来ていたのは、「大きな茶色や黒の馬」だった。
彼女は手紙を書き、放牧地に隣接する家へ届けた。父はパイロット、母は今は引退した自動車教習の指導員で、どちらも馬にはまったく興味がなかった。すると、手伝いを申し出た娘について確認する電話が、両親のもとにかかってきた。
それが始まりだった。馬たちは、今は亡きレイバーンのトレーナー、ファーディ・マーフィー調教師の厩舎から、夏を過ごしに来た障害馬だった。当時、イングランド北部を代表する障害厩舎のひとつだった。次第に仕事を任されるようになり、やがてマーフィー師から毎週50ポンドを現金で受け取るようになった。
14歳になるころには、学校が休みになると同厩舎で調教に騎乗していた。そして、ついにはマーフィー厩舎のアシスタントトレーナーになった。
マーフィー師が拠点をフランスへ移したことを機に、メンジーズ師は24歳で独立し、英国競馬界の現役最年少調教師となった。
だが、ハウヒルズで大きな転機が訪れたのは、10年ほど前だった。ジョン・ウェイド氏は、近くのエイクリフにある採石場や、運送、廃棄物リサイクルの事業で財を築いた地元の実業家だった。大きな赤いダンプカーは、40年以上にわたり、この地域では見慣れた光景だった。
2年前に亡くなったウェイド氏は、障害競馬の熱心な愛好家でもあった。自分の所有馬を調教できる許可を得て手がける傍ら、かつてダラムのポイント・トゥ・ポイント競走(障害競走の一種)のコースだったハウヒルズを、立派な200エーカーの施設へ育て上げた。今、メンジーズ師が拠点とする場所だ。
「ジョン(ウェイド氏)がいなければ、軌道に乗ることはできませんでした。絶対に無理でした。絶対に」と彼女は強調する。
メンジーズ師をウェイド氏に引き合わせたのは、ブライアン・ヒューズ騎手だった。ウェイド氏は調教の仕事を縮小しており、当初はハウヒルズに誰かを迎えることに気が進まなかった。
だが、ヒューズ騎手が、この若い調教師に一度会ってみるよう勧めた。今では調教コースも放牧地も、広く風通しのよい厩舎棟も、敷地のすべてをメンジーズ師が所有している。ウェイド氏の死後、市場価格で買い取ったのだ。
「初めて会ったとき、ジョンは『馬は何頭いるんですか?』と聞きました。『20頭です』と答えると、『あと20頭、欲しいですか?』と。『ええ、ぜひ欲しいです』と言ったら、『20頭、預けましょう』と言ってくれました」
「だから、ジョンのところへ移ると、あっという間に、一夜にして頭数が倍になったんです」


これほど障害競馬に根づいた場所から、米国の重賞を制し、ブリーダーズカップを目指す馬が現れるとは、そのときは2人とも想像できなかっただろう。
だが、人生の衝撃は不意に訪れる。そのことをメンジーズ師は痛いほど知っている。G1・ブリーダーズカップ・ジュベナイルターフスプリントの1週間前、彼女とチームはまたしても打撃を受けた。理解に苦しむことに、キーンランドの前哨戦を勝っていたにもかかわらず、アドニウスは補欠にとどまったのだ。
レースを3日後に控えた火曜の朝、キーンランドの厩舎地区。厩務員として世話をし、調教にも騎乗するディアズ・ギブソン氏を背にしたアドニウスは、引き締まった馬体を見せ、いかにも健康そうだった。
「あの馬が出走枠に入れないなんて、あまりにひどい話だ」
通りかかった人がそう話すのが聞こえた。そう感じている人は多かった。その時点でアドニウスは補欠で、出走するにはさらに3頭の回避が必要だった。
アドニウスは、ギブソン氏のもとで、すでに1か月以上キーンランドに滞在していた。メンジーズ師とチームは、「神経質で、体高14ハンド(約142cm)の、毛むくじゃらの小さな栗毛馬」だった扱いの難しい若駒を、ここまで導いてきた。
初めて能力の片鱗を見せたのは、今年の春、ニューカッスル競馬場で行われたバリアトライアルだった。その日、手綱を取ったのは調教で騎乗するアンドリュー・クーパー氏で、ゴム長靴を履き、鞭も持たずにやって来た。
「騎手は誰も乗ってくれませんでした。みんな、ほかの厩舎での恐ろしい話を聞いていたからです」とメンジーズ師は振り返る。
「うちのスタッフが、コナー・ビーズリー騎手やポール・マルレナン騎手たちを相手に、鞭を使わず、手と脚だけで促してバリアトライアルを勝ったんです。その時点で、平均より少し上のものは持っていると分かりました。でも、本当のところは、なかなか分からないものですよね?」
アドニウスはデビュー戦のマッセルバラ競馬場で、カイヤ・フレイザー騎手を背に7馬身差で勝った。そのときのオッズは13倍。ここまで6戦4勝、2着2回で、獲得賞金は20万ポンド近くに上る。前走のキーンランドでは出遅れたが、速いペースで飛ばす先行勢をとらえ、アタマ差の際どい勝利を収めた。
その後、ギブソン氏とヴェラスケス騎手がまたがって行った調教も、アドニウスへの期待をさらに膨らませるものだった。
今年、肉体にも心にも大きな試練を受けてきたメンジーズ師は、気まぐれな運命を頼りにできないことを知っている。ハウヒルズのあの金曜の朝、地面に座って痛みを隠し、気丈に振る舞っていた彼女にとって、アドニウスがBCジュベナイルターフスプリントの出走馬12頭に選ばれなかったことは、できれば受けずに済ませたかった、さらなる心の痛手だった。
だが、ハウヒルズのチームは、打ちのめされてもすぐに立ち上がる。仕事は続き、勝利は積み重なる。アドニウスのブリーダーズカップ出走がかなうかどうかにかかわらず、現場で自ら手を動かすメンジーズ師とチームは、皆の才能と知識、経験を結集し、すでに大切な一歩を踏み出している。
これからも揺るがぬ土台であり続ける英国北部の障害競馬。その枠を越え、ふさわしい馬さえいれば、もっと幅広い舞台の高いレベルでも戦えることを示したのだ。