コックスプレート4連覇という偉業を達成した後、ジェームズ・マクドナルド騎手は運転手に一つだけ指示を出した。メルボルンの迷路のような道を走り始めた車中、それは「行き先を変えるかもしれない」という一言だった。
いまや公式に “ワールドベストジョッキー” と認められたマクドナルドは、どこへで行くにも困らないはずだ。
クラウン・カジノで夜通し騒ぐことも、中国の億万長者馬主・張月勝氏の陣営が開く豪華なアフターパーティーに参加することも、妻のケイトリンと静かに食事をすることも、あるいは疲れた一日の後すぐにベッドに向かうこともできた。
しかし、彼が選んだのは一つのメッセージだった。その数分後、ある若き騎手の携帯電話が鳴った。その騎手は、その日の午後早く、マクドナルドがヴィアシスティーナを駆り、間もなく再開発の工事に入るムーニーバレー競馬場の手に汗握る最終レースを僅差で勝利した様子をテレビで見ていた。
「よう、ブラザー。20分でそっちに着く。大丈夫か?」
「やあ、ジェームズ。もちろん大丈夫。でも、1時間前にコックスプレートを勝ったばかりでしょ?」
マクドナルドは、1時間前に何が起こったか、もちろん分かっていた。しかし、メルボルンの競馬場を離れた彼が真っ先に会いたかった人物は、トム・プレブル騎手だった。
23歳のプレブル騎手は、2ヶ月足らず前、ウォーナンブール競馬場での落馬事故により人生を変えるほどの大怪我を負い、車椅子生活を余儀なくされていた。
マクドナルドがオーストラリアから香港、中東、さらにはロイヤルアスコットに至るまで、様々なレースで引っ張りだこの敏腕騎手になる前、彼もまた一人の若き騎手だった。
今ではほとんどの人が覚えていないだろうが、彼が憧れていたのは、トムの父であるブレット・プレブル騎手だ。2012年のメルボルンカップで、マクドナルドがフィオレンテに騎乗して猛追し、ブレット騎手のグリーンムーンに次ぐ2着となった時、二人は決勝線を通過した直後に握手を交わした。
それは、オーストラリア競馬界で最も注目される舞台で見られた、スポーツマンシップ溢れる美しい瞬間だった。そして今、誰も見ていないところで、マクドナルドは再びプレブルのためにそこにいたいと思ったのだ。
トム・プレブルはマクドナルドとケイトリンについて、「彼らは本当に素晴らしい人たちだ」と語った。「僕たちは言葉に詰まることなんてなかった。これからのいろんな事を話し、僕のことについても話してくれたんです。嬉しかったです」
「ジェームズは、『元気そうじゃん』と言ってくれました。車椅子生活でもできるだけ体重を維持するため、これ(椅子から体を持ち上げる運動)をやっているんです」
「見せびらかすためにやったんじゃなく、いつもの習慣としてこれをやっていたんです」
「彼はそれを見て、『腕相撲をしよう』と言ってきた。『今度ね』と返しました。僕はハンドバイク(手こぎ自転車)をやっているんです。以前は毎日歩いていたマリビーノン川に行くと、彼も自転車を持ってきて、一緒にレースするんですよ」


メルボルンカップ・カーニバルを数日後に控えたある日、プレブルはメルボルン北東部にあるリハビリセンターのカフェに座っていた。
他の患者たちが気軽に車椅子で通り過ぎ、「おはよう」と挨拶していく。彼はここの雰囲気が好きだ。他の人々が話し、交流するのを聞けるからだ。ここは殺風景な自室や、ナースコールの絶え間ない騒音からの避難場所なのだ。
午後の早い日差しが差し込んでいる。街の向こう側では、その日差しがフレミントン競馬場の馬場を乾かしている。これから始まる4日間の祭典で、普段なら彼も騎乗の機会を得たいと願っていたはずだ。プレブルが履いているのは、この地域で流行っている白いクロックスだ。
彼は自分の脚と足を見下ろし、そこに何らかの感覚があればと願う。何も感じないのだ。
重要なのは、彼が今、それについて話し、競馬界に自身の見通しを知らせる準備ができたと自覚していることだ。
「事故から7週間と1日が経ちましたが、状況は全く変わりません」と、プレブルはIdol Horseに明かす。
「治療法が見つからない限り、完全な回復への望みはありません。今は前に進むことを学ばないといけないですし、これが自分の新しい人生なんだと思います」
「最初は気持ちも落ち着かなかったですし、世の中を恨みました。ですが、改めて考えてみると一つ思ったことがあったんです。実は『もっと悪くなっていた可能性もあるんじゃないか』と」
「僕には腕があり、頭もあるという意味で、とても幸運でした。他の落馬事故では、亡くなったり、脳に損傷を負ったりする人もいる。脚以外はすべて揃っている。これが現実なんです」
その日の開催は、ごく普通の一日になるはずだった。二世ジョッキーのエリート、新進気鋭の見習騎手であるプレブルは、ビクトリア州南西部の海辺の町、ウォーナンブール競馬場の平日開催のために遠征していた。
その日の最終レース、プレブルはプルベライザーという馬に騎乗し、落馬した。
医療スタッフがすぐに現場に駆けつけた。プレブルの意識はあった。しかし、ほぼ即座に重大な怪我だと判明。彼は地元の病院に運ばれ、その後すぐにメルボルンへ空輸された。医師たちが人生を変えるほどの脊髄損傷を負ったのではないかと危惧する中、5時間にわたる緊急手術が行われた。
手術後、プレブルが集中治療室で目を覚ますまでに、2日近くかかった。
病床で眠る彼のそばには、父のブレットと、数十年に渡る騎手たちへのサポートが認められ、オーストラリア・デーの叙勲者の一人となった、デス・オキーフ氏が付き添っていた。
経管栄養チューブが外されると、プレブルはベッドから出ようとした。医師たちが彼をなだめなければならなかった。話そうとしても、言葉に詰まるばかりだった。
やがて、彼はメッセージを伝えようと必死に手を振り始めた。オキーフには、彼が何を望んでいるのか全く分からなかったという。
「まるでジェスチャーゲームをしているようだった」とオキーフは冗談を言う。一方のブレットには、彼が何を求めているか正確に分かっていた。「写真を撮ってほしがっているのが分かったよ」とブレットは笑う。
人生で最も暗い瞬間の一幕について改めて聞かされると、トムは微笑みを浮かべた。彼にはその記憶がなく、落馬のことも、その日の早い時間に何が起こったのかさえ、ほとんど思い出すことができない。
すべてがぼんやりしているだけだ。「競馬場に着いたのは覚えている」と彼は言う。
「その前に2レース乗ったはずだが、全く覚えていない。唯一の記憶は、競馬場に着いてバッグから荷物を出したことだけです」
「次の記憶は、落馬から2日後の木曜日、口から経管栄養チューブを抜かれてMRIスキャンを受けていた時です。ずっとむせ込んでいました。ショックとか、痛みのせいだと思います」
「(落馬の後)どうやら僕は、ずっと意識があったらしいんです」
脊髄損傷が治癒するかどうか、どのように、あるいはいつ治癒するかについて、正確な科学的知見はない。しかし、ほとんどの医師は、事故後の最初の72時間が患者の回復を決定する上で最も重要であることを知っている。
3日が経過しても、プレブルの胴体と脚には依然として感覚がなかった。彼の医療チームは、彼が再び歩けるようになる可能性は低いと伝えなければならなかった。
診断は『T4レベルASIA分類A(完全)対麻痺』だった。脊髄は切断されてはいないものの、深刻な損傷を受けており、体幹と脚の麻痺を引き起こしている。
プレブルは「希望は持ち続けている」と言う。「状況は全く改善していませんが、腫れが引くまでに最大3ヶ月かかると言われました。ひどい腫れだったんです」
「ほんのわずかな感覚でもいい。そのためなら何でもします。スイスやカナダでは多くの研究が行われているので、そこへ行くことも考えています。何らかの感覚を取り戻す助けになるなら、どんなことでもするつもりです」
「言うなれば、歩き始めの幼児に戻ってしまったようなものです。そして今、成長し直し、学び直している真っ最中です」
もし、騎手になるために生まれてきたような人物がいるとすれば、それはトム・プレブルがピッタリ当てはまる。
香港競馬で歴代5番目の勝利数を誇るブレット・プレブル元騎手と、1990年代後半にオーストラリアで400勝以上を挙げたマリー・ペイン元騎手を両親に持つトムは、自身の好みに関わらず、いずれは馬上にたどり着く運命だった。
しかし、人生の道筋が直線的であるわけもなく、プレブルの人生には、栄養学の研究や不動産業への挑戦といった寄り道も含まれていた。
彼の幼少期は、主にシャティン競馬場に隣接するアパート群で過ぎていった。そこでは、父のブレットが毎週のように、ザック・パートン、ダグラス・ホワイト、ジェラルド・モッセ、ダレン・ビードマンといった名騎手たちと鎬を削っていた。
香港競馬で頭角を現している新星、ルーク・フェラリス騎手は学校時代の親友だったという。
プレブルは「僕にとって香港は故郷のようなものだった」と振り返る。
しかし、ブレットとマリーは、トムに競馬の道を無理強いすることはなかった。オーストラリアに戻って高等教育を終えた後、彼の人生は乗馬とは無縁のものになるかに思われた。
トムがサラブレッドと共に歩む未来を見据え始めたのは、コロナ禍の初期、他の産業が自粛に追い込まれる中で、競馬だけが開催を続けた時期のことだった。高校で得た栄養学の知識を武器に、172cmという高身長を克服して体重を維持できると、元騎手の両親に告げた。
「私は30年間騎乗してきたが、彼ほど食事管理を理解している騎手は見たことがない」と父のブレットは語る。


トム・プレブルが騎手として競馬場でデビューすると、勝ち星が次々と舞い込んできた。
ブラックキャビアを育てたピーター・ムーディー調教師は、馬主たちにプレブルを紹介する際、よく「プレブル家とペイン家の血を引く良血」と評していた。ムーディー師曰く、「騎手として生まれ、騎手として育てられた男」とのことだ。
その血筋ゆえに、プレブルが節目を迎えるたびに、競馬メディアが彼を取り上げた。
彼自身、その一つ一つが持つ意味を理解しており、それらは消えない証として彼と共に生き続ける。彼の右前腕には、漢字で『科学』と刻まれたタトゥーがある。彼の初勝利馬は、サイエンティフィックという名前の馬だった。
その近くには、今年初めに重賞勝利を挙げた最初の馬、タイトルファイターにちなんだ別の彫り物もある。
それらのタトゥーの隣には、日本のアニメ映画『千と千尋の神隠し』のキャラクター「カオナシ」のタトゥーが並んでいる。トムは大の親日家、旅行で日本を訪れるたび、安心感を覚えるという。
「父さん(ブレット)はタトゥーにあまり乗り気じゃないけど、今は『もう好きなようにしていい』と言ってくれるんですよ」とトムは笑う。
新人時代のプレブルが競馬界で頭角を現し、父のブレットがまだ騎乗していた頃、二人の親子対決という話題は必然的に持ち上がった。しかし、ブレットは息子と対戦することに耐えられず、2024年初頭、その輝かしいキャリアに静かに幕を下ろした。
「自分の息子とレースで競ったことがあるが、正直楽しめなかった」とブレットは言う。
「一緒に乗っているとずっと息子のこと、怪我をしないかが心配でした。(トムが相手なら)自分は10倍乗れなかったと思います。私には無理でした」
プレブルのリハビリ施設に、80歳の見知らぬ人物から一通の手紙が届いた。それは心に響く、温かい手紙だった。
その男性は、自らを『馬券は当たらないが、良い馬と良い騎手は一目で分かる』一人の馬券愛好家だと名乗った。そして、ここ数年、プレブルほどレース観戦で喜びを与えてくれた存在はいない、と彼は記していた。
「あれは本当に、本当に嬉しかったです」とプレブルは言う。「これまで、信じられないほどのサポートを受けてきました」
プレブルのもとには、競馬関係者からのメッセージや訪問も殺到している。
元G1ジョッキー、現在は牧場を経営するクリス・シモンズ氏が今週、卓球をするために病院を立ち寄った。気になる結果は、シモンズ氏が11-8の僅差で勝利。試合の終わりには、プレブルに対して軽口を叩く余裕さえ見せたという。
プレブル自身は、2032年に母国開催のブリスベン・パラリンピックが開催される頃には、卓球が自分にとっての選択肢になっているかもしれないと考えている。
彼の周りには、これから先の数週間、数ヶ月、数年がどのようなものになるかを教えてくれる人々がたくさんいる。2018年、香港での落馬事故により車椅子生活となった元騎手のタイ・アングランド氏も、定期的に相談相手となってくれている。
タスマニアの調教騎手だったキャサリン・リード氏も、落馬事故で対麻痺となった。彼女は今や3人の子供の母親であり、プレブルとも話をしている。パラリンピック選手のエマ・ブース氏もまた、馬術でオーストラリア代表になるまでの道のりをプレブルに語り、助けになってくれた。
彼らは皆、プレブルに希望を与えてきた。母のペインが伝える、科学と研究の小さな進歩を記した膨大な資料と共に。「母さんは、そういった資料を山のように持ってくるです」とプレブルは言う。
「母さんは、僕を助ける何かが見つかることを強く願っています。僕よりひどい状態から回復した人たちの話を送ってくれるんです。僕が落馬した日、誰かが再び歩き始めたという研究が発表されました。母さんはそれを見つけて、『これは偶然のはずがない』と言っていた。少し希望が湧いてきます」
医師や理学療法士たちは、シャワーを浴びたり車に乗り込んだりといった日常動作におけるプレブルの筋力と機能の改善に驚いている。彼は数週間以内に母の家へ移り、その間に自宅をバリアフリーに改修し、キッチンや浴室へのアクセスを容易にしたいと考えている。
ようやく自宅に戻った時も、テレビのチャンネルは競馬中継に合わせられることだろう。
競馬は、最初の過酷な2ヶ月間のリハビリ期間も、彼にとって心の支えであり続けた。彼は今でも、かつて騎乗した調教師たちや、パートナーを組んだ馬たちを応援している。そして、少し馬券を楽しんでみる人生も悪くないかもしれないとさえ考えている。
彼の心理カウンセラーもまた、将来やりたいことを思い描くよう勧めている。
最も心惹かれるのは、日本への旅行だ。「僕のカメラロールを見たら、車と日本食と秋葉原ばかりですよ」と、東京の有名なアニメの聖地に言及して微笑む。

「本当は、車を借りて富士山までドライブして、あの道を走りたかったんです。まるで現実とは思えない綺麗な景色なんです」
「僕はJDMカー(カスタムカー)が大好きなんです。もし、自分の車を選んで車椅子対応に改造できるなら、JDMカーを選びます。それが自分の夢ですね」
今週中にも、プレブルはフレミントン競馬場に戻り、顔なじみの調教師、騎手、馬主、そして関係者たちと顔を合わせる予定だ。多くは彼にどう挨拶すべきか分からないかもしれない。彼のメッセージは至ってシンプル、“前向きに、未来に焦点を合わせること” だ。
「ポジティブな雰囲気は良い雰囲気だ」と、父のブレットは言う。
トムは「家に帰りたいですね」と言い、「また社会に戻ってきたいです」と意気込みを語る。
「競馬界に恨みはありません。あれは不慮の事故でした。皆さんには哀れんでほしくないです。そうされると、自分が自分を哀れんでしまいますから。みんなが気の毒に思うと、自分のことが気の毒に感じてしまいます」
シーズン最大級の大レース、コックスプレートを制したジョッキーが急遽訪ねてきた時、彼が感じていたのはそうした感情ではなかった。
彼がマクドナルドをレースで打ち負かすチャンスは、おそらく二度とないだろうかもしれない。しかし、プレブルの言葉は希望に満ちている。川沿いでのサイクリング、日本への旅行、パラリンピックへの野心、そして科学のブレイクスルー。
そして、あの腕相撲をする時間は、いつだって残されている。
(訳者追記:クラウドファンディングサイト『GoFundMe』では、トム・プレブル騎手の治療費を募る支援プロジェクトが進行中です。クレジットカードを利用して寄付が可能なので、よろしければ支援ページをご覧ください)