ブレット・プレブルほど、騎手としての高いプロ意識を持っていた者はほとんどいない。だからこそ、過去30年間トップジョッキーとしてのキャリアを維持し続ける原動力となっていた「競争心」を失い始めた今、彼は「引退する日が来た」と悟った。
「月曜日と火曜日はバリアトライアルに騎乗するつもりでしたし、香港のクライアントのために調教に跨ってきたばかりでした。でも、金曜の朝に目覚めて『もう乗りたくない』と思ってしまったんです」と、プレブルはIdol Horseの取材に答えた。「変な感じでした。ただただ、『もう自分には向いていない』という言葉が頭の中に浮かびましたし、もう戻れないとは思いました」
プレブルは過去2年間、競争が激しいシドニーに拠点を置いていたが、過去6ヶ月間は騎乗を休んでいた。しかし、再び復帰する準備は整っていたと言う。
「体は健康ですし、週5でトレーニングを行い、健康には気を配っています」と彼は説明する。「なので、体力的には問題ないのです。体重も問題ありません。それよりも、タイミングの問題です。きっと、今がその時なのです」
「46歳にもなって、健康で、満足感を持って引退できるのは幸せです。騎手のキャリアがどれほど危険で、どれほど難しいものであるかは、私が身を持って感じてきました」
香港で大成功した外国人騎手もいれば、オーストラリアで活躍した騎手もいる。しかし、現代においてその両方でプレブルほど活躍した騎手は、未だかつて存在しただろうか。その点、プレブルは稀有な存在と言える。
プレブルは天性の才能を持っていた。学校を去り、ヴィクトリア州の田舎に厩舎を構えるテリー・オサリバン(Terry O’Sullivan)調教師のもとで乗り始めたのは、15歳のときだった。その後、フレミントンのダン・ミーガー(John Meagher)厩舎に移り、メルボルン地区の見習い騎手チャンピオンを2回獲得した。24歳になるまでにメルボルン地区のリーディング騎手を2回も獲得、そのうち2000年は99.5勝(0.5勝は同着)を挙げ、20年以上更新されなかったシーズン最多勝記録を打ち立てた。1999年と2000年のフレミントン・カーニバルでは4日間で9勝を挙げ、今でもその記録は破られていない。
しかし、プレブルは新たな挑戦を始める。情熱的で熱気に満ち溢れ、24時間眠らない街、香港との出会いだ。
「18歳のとき、ダミアン・オリヴァー騎手を訪ねて香港に行ったときの記憶は、今でも脳に焼き付いています。旧啓徳空港に降り立ち、九龍の高層ビル街を目にしたときは、目が飛び出るほど興奮しました」とプレブルは語り始める。
「その後、シンガポールで短期間乗ったあと、24歳で香港の通年免許を取得しました。アジアの競馬にはずっと夢中でした。環境、雰囲気、人々のレベルが大好きでした。当時の香港には競馬新聞が30紙ほどあり、読みきれないほどです。都市も素晴らしく、生活も楽しめました。関わる人々や都市、香港競馬は全てにおいてレベルが高く、そこで騎手として乗れるのは光栄なことでした」
「競馬開催は週に2日のみ。この乗り鞍に集中できる競馬スタイルが、自分に合っていたのだと思います。どのレースも素晴らしい内容になりますから」
香港では、6回も騎手リーディング2位に甘んじた。首位に立つことを阻んだのは、通算13回のチャンピオン経験を誇るダグラス・ホワイト騎手の存在だった。プレブルのキャリアは彼とのライバル関係だけではないが、この両雄による大激戦が繰り広げられた日々は特筆すべきものがある。水曜の夜はハッピーバレーで、日曜日はシャティンで、彼らは激しく競い合った。日々競い高め合う2人は、香港競馬のレベルそのものを新たな高みへと引き上げただろう。
当時のことについて、「仲は良くなかったですね」とプレブルは明かす。もちろん、今では良く友人の間柄だと言うが、彼は当時の状況についてこう説明した。
「長い間、すれ違っていましたね。香港では、水と油のような関係性でした。お互いの騎乗依頼を奪い合うのが仕事です。私生活と仕事は切り離さないといけないが、共にプロの誇りを持っており、負けたくないので、個人的にも思うところがある。私たちは隣接するアパートに住んでいて、毎日の調教で顔を合わせ、子供たちも同じ学校に通っていました。それが拍車をかけた。お互い、常に同じ環境にいましたから」
時に激しく、時に火花を散らす香港競馬での生活だったが、オリビエ・ドゥルーズとは親しい友人関係を築いた。彼は、華やかなフランス人ジョッキーだ。その魅力、ポジティブさ、ファッションセンスは、常に周囲を明るく照らしていた。
「オリビエのカリスマ性と人柄は、プレッシャーに晒され続ける勝負の世界を明るく変えてくれました」と、プレブルはドゥルーズについて語り始める。
「時には全ての人や物事が敵のように感じることもありますが、彼の憎めない人柄の前では、勝負に負けたときでも喜びを感じることがありました。そして、逆に(オリビエに)勝ったときは、彼も思いっきり喜んでくれます。弱肉強食の世界なので普段はそんなことはないのですが、これは特別な関係です」
「オリビエは騎手としても個人としても、多くの手助けをしてくれた。半分は彼に育てられたと言っても過言ではないですし、服装も彼のセンスに染まりました」
プレブルは競馬事情にも詳しい。香港で騎乗していたライバル騎手の中で誰をリスペクトしていたか尋ねられると、すぐにスラスラと名騎手の名前を挙げ始める。「15年間、そこで対戦していた騎手のレベルは驚くほど高かった」
「香港では様々なスタイルが融合しており、フランス人騎手のジェラルド・モッセやオリビエは自分とは異なる騎乗スタイルでした。馬を外に置き、リズムや呼吸を大事にした騎乗でしたね。オーストラリア人ほど、前に馬を置くことを優先していませんでした」
「それから、フランス人ながらアグレッシブな騎乗スタイルのエリック・サンマルタン騎手や、ベルギー人だがフランス拠点のクリストフ・スミヨン騎手もいましたね。彼のことは『ソーミ(Soumi)』と呼んでるんですが、若いながら自信満々で飛び抜けていましたね。フェリックス・コーツィー騎手はオーストラリア人ほどタクティカルな乗り方はしませんでしたが、素晴らしいバランス感覚と騎乗スタイルを持っていました」
「ザック(・パートン騎手)は一度リズムを掴むと素晴らしく、ジョアン(・モレイラ騎手)も同様でした。ジョアンが乗ると、馬がまるで斤量を感じていないように走るんです。内から4頭分ほどの大外を回しても、5馬身くらい突き抜けてしまうんです。『一体なにが起きたんだ?』と不思議に思うほどです。他の騎手が乗ると、8馬身差くらいで負けてしまう。彼はおそらく、私の知る限りだと一番の異常な才能の持ち主でしたね」
プレブル自身の騎乗スタイルは、ゴールライン手前での粘り強さ、大胆な位置取り、そしてレースプランを精密に実行する達人技で知られていた。この持ち味は、同郷のパートンにも受け継がれている。
層が厚く競争が激しい時代を生き抜いたにも関わらず、香港では803勝を挙げた。これは、プレブルの上手さを象徴する記録と言えるだろう。2017/2018シーズンを最後に香港を去ったが、この当時彼より多く勝ち星を稼いでいたのは、ホワイト、パートン、そしてトニー・クルーズの3人のみであった。その後、モレイラにも追い抜かれたが、プレブルは依然として最多勝利記録の歴代5位に位置している。
香港で過ごした15シーズンの間、海外でもビッグレースで勝利を積み重ねた。2006年の安田記念をブリッシュラックと共に制しただけでなく、2010年にはクリスタルリリーに騎乗してゴールデンスリッパーを、2012年にはグリーンムーンでメルボルンカップを優勝した。2015年には、プレブルとホワイトのライバル関係は香港を飛び出し、G1・オーストラリアンギニーで火花を散らした。そこではプレブルのワンジナが、ホワイトのアルパインイーグルを写真判定の末にハナ差で破った。
プレブルが香港から母国のオーストラリアに戻った後、インセンティヴァイズに騎乗して2021年のコーフィールドカップを制した。難しい外枠からのスタートだったが、冷静な騎乗で勝利に導いた。オーストラリアの「グランドスラム」レースのうち、勝っていないのはコックスプレートだけである。
また、プレブルは追い切りやバリアトライアル(レース形式の調教)で馬の能力を見極めるスキルも高く評価されていた。デヴィッド・ホール調教師とはオーストラリアや香港で285勝、キャスパー・ファウンズ調教師とは香港で126勝を挙げ、トップトレーナーから厚い信頼を勝ち取っていた。
ファウンズ調教師との勝利のうち10勝は、競馬ファンからも人気があるラッキーナインとのコンビで挙げた勝利だった。香港ではセイクリッドキングダム、アブソリュートチャンピオン、ラッキーバブルズ、ケープオブグッドホープ、ブリッシュラックなどのお手馬がいたが、その中でもこの馬がお気に入りだと言う。
「ラッキーナインは本当に素晴らしい馬でした。私が乗った馬の中で一番強いというわけではないかもしれませんが、大好きな馬の一頭です。本当に性格が良い馬なんですよ」とプレブルは語る。現在17歳となったラッキーナインはリビングレジェンズで余生を送っているが、引退後に会いに行ったこともある。この記事で使われている写真も、彼と写真を撮ったときのものだ。
「良い馬なんですが、香港に来た当初は心配性で気が弱い馬でした。とにかく怯えていて、数日ごとに体重が10キロ近く減っていました。でも、最終的に環境に適応し、勝利への強い意志を持った競走馬に変貌しました。最高の相棒でしたよ」
ラッキーナインはドバイ、オーストラリア、日本のG1レースで入着し、2013年と2014年にはシンガポールのG1・クリスフライヤー国際スプリントを連覇した。
「彼と、そして親友のキャスパー(・ファウンズ調教師)と過ごした時間は、充実したとても楽しい日々でした」と、プレブルは当時を懐かしむ。
「本当に楽しかった、とても楽しかった」
プレブルが引退の決断を最初に伝えたのは、パートナーのエリンと、長年コーチとして支えてくれた師匠のデス・オキーフ(Des O’Keefe)氏だった。彼とは、ダン・ミーガー厩舎にいた時代に初めて知り合った。
「二人はそれぞれ違う方法で自分を支えてくれました」とプレブルは語る。「エリンはここ数年の間に出会い、親友として支えてくれました。デスは長年に渡って、良き相談相手であり続けてくれました」
最も辛い会話は、22歳の息子トーマスと話したときだったという。トーマスは現在、メルボルン地区で見習い騎手として活動している。「思わず、感情的になりました。同じレースで競い合うことを夢見ていたのですが、そういう運命ではなかったのかもしれません。彼に無駄なプレッシャーを背負わせたくありません」
長年プレブルと戦ってきた騎手なら頷けるだろう。どのような騎手にとっても、プレブルと競い合うプレッシャーは多大なものである。
騎乗依頼の電話が夜明け前のプレブルを叩き起こすことはことはもうないが、彼の忙しさは引退後も変わらない。騎手としての仕事を続ける傍ら、自身が立ち上げた馬具ビジネスが成功を収めていた。彼は現場主義のマネージャーであり、メルボルンの製造拠点では忙しなく働いている。
「午前4時半に工場に行き、午後5時までそこにいる。ほとんど毎日それですね」と今の日々を明かす。プレブルの会社が作る鞭は、世界の多くのトップジョッキーが使用している。
香港にいた頃、周囲のビジネスマンから話を聞いたプレブルは、急成長する中国南部の製造業にチャンスを見出した。そこで『Persuader』という馬具のブランドを立ち上げ、見事に大成功を収めているのだ。
「自分のビジネスがあり、自分で引退を決断することができる。とても幸せなことです」とプレブルは語る。
「あと20勝、50勝しても、自分の人生は大きくは変わらないと思います。今の目標は、Persuaderを世界一の競馬用馬具ブランドにすることです。人生を新たな章に進めるための、大きなモチベーションになってくれます。この仕事には情熱を持って取り組んでいますし、ビジネスがここまで成長したことは誇りに思いますが、これで終わりではありません。まだまだ先は長いです」