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今週末、ジョアン・モレイラ騎手がドーヴィル競馬場のジョッキールームへ足を踏み入れるとき、変わっていないのは場所だけだろう。

モレイラが最後にフランスで騎乗したのは22歳のとき。ポルトガル語以外では一文すらまともに話せず、後の名手は人知れず追い詰められていた。

モレイラは当時、スウェーデン出身でブラジルを拠点とする石油業界の実業家、ステファン・フリボルグ氏の主戦騎手として渡仏していた。フリボルグ氏が率いるエストレーラ・エネルジアのチームは、競走馬や種牡馬を次々と集め、スタッフもそろえていた。

話をすれば「いつかドバイワールドカップを勝つ」と、聞いてくれる相手なら誰にでも言って回るほど自信満々だった。モレイラは、そんな彼をどうかしているとすら思ったという。モレイラは彼の人柄をこう振り返る。

「彼は確信していました。『私はドバイワールドカップを勝つ。あれが私の夢で、必ず勝ってみせる』と豪語していたんです」

(念のため補足すると、フリボルグ氏は有言実行の人物だった。2010年、グロリアデカンペオンがまさにその夢を叶えた)

モレイラは初めてサンパウロのリーディングを獲得した直後で、若く、海外競馬で飛躍する機会を切望していた。フランスを拠点に3カ月間転戦した後、所属馬をドバイへ移す計画だったが、何ひとつうまくいかなかった。馬たちは実力どおりに走れず、ドバイ遠征に必要なレーティングにはますます届かなくなっていった。

厩舎内ではフリボルグ氏のスタッフ同士の争いが始まり、その板挟みになったモレイラは、自ら陣営からの離脱を申し出た。本人の記憶では、3カ月間の騎乗数は「15鞍ほど」。勝利はひとつもなかった。

「自分自身にとても失望して帰国しました。海外で騎乗するという夢は、軌道に乗るどころか、水の泡になってしまいました」

物語は、そこで終わっていてもおかしくなかった。だが、現在42歳のモレイラは、その経験を失敗だったとは捉えていない。本人の言葉では、それが「きっかけ」になった。

「振り返ってみても、後悔はありません。本当に大きな教訓になったからです。身に染みる教訓でした。自分には実力があると思っていました。でも、違ったのです」

挫折を味わったモレイラはブラジルへ戻り、勝つことと学ぶことに同時に取り組んだ。2006年から2008年まで3年連続でサンパウロのリーディングに輝き、エウタンベンとのコンビではG1・ナシオナル大賞(アルゼンチンダービー)を制した。一方で高校を卒業し、大学入試を受けた後、大学へは進まず英語学校の夜間クラスに2年間通った。

フランス競馬での騎乗経験によって、一つの言語しか話せない騎手には限界があると思い知らされたからだ。

「あの経験で、語学を学ぶしかない、そうしなければどこへ行ってもチャンスはないのだと気づかされました」

「あれが、今まで成し遂げてきたことのきっかけでした。フランスであの時間を過ごしていなければ、私の運命は違っていたかもしれません」

「世界のどこであれ、成功するために何が必要なのかを教えてくれました。外国語を話せなければなりません。そうでなければ、諦めるしかないのです」

Obataye and Joao Moreira win G1 Gran Premio Carlos Pellegrini
OBATAYE, JOAO MOREIRA / G1 Gran Premio Carlos Pellegrini // San Isidro /// 2025 //// Photo by hipodromosanisidro.com

その後の歩みは、まさに世界を股にかけた軌跡そのものだ。シンガポール競馬、そして香港競馬へ渡り、両地でそれぞれ4度リーディングを獲得。二つの競馬界に変革をもたらしながら、1200勝以上を積み重ねた。

やがて、『マジックマン』という新たな異名も得た。腰を低く落とし、手綱を短く持つ独特の騎乗フォームは、オートバイのライダーにたとえられることもある。

そのフォームもまた、実りのなかった3カ月をきっかけに変わったもので、そこにはフランスの影響が刻まれている。上体をより起こし、手綱を長めに持つことを重んじるフランスの騎手たちは、若いブラジル人の乗り方をどう見ているか隠そうとしなかった。

「ブラジルでの騎乗スタイルは、フランス人たちが好む形とは合いません。力強さが足りず、鞭の使い方は荒すぎる。そう言われるのも、少し分かります」

帰国したモレイラの騎乗スタイルは変わっていた。馬の動きに合わせて体を動かすようになり、手綱を少し長く持ち、姿勢も変えた。

「帰国したときには、乗り方が大きく変わっていました。誰もがそう言っていました」

もう一つ、運命的な巡り合わせがある。当時、同じジョッキールームにいたのがクリストフ・ルメール騎手だった。フランスで出会った人々のうち、自分に最も親切だった人物として、モレイラはオリビエ・ペリエ騎手とともにルメールの名を挙げる。

「いつも陽気で、とても親しみやすく、本当にファンキーでした。それは今もまったく変わっていません」とモレイラは笑顔を見せる。「騎手としても、人としても大好きです」

ルメールはモレイラと年齢が近く、当時は新婚で、騎手としてもまだ駆け出しだった。2005年、フランスのジョッキールームにいた2人の若き新鋭。その後、2人はともに地球の反対側へ渡り、新たな言語を学び、一国の競馬を席巻する存在となった。

モレイラはアジア各地で頂点に立ち、ルメールは日本競馬そのものを塗り替えた。

モレイラは金曜日、拠点とするクリチバから飛び立つ。不運に終わったあの遠征以来、フランス競馬では初騎乗となる。ドーヴィル競馬場のジャックルマロワ賞で、日本から遠征するシュトラウスとコンビを組むためだ。

自分を打ちのめした国へ、自身のキャリアを築く一助となった競馬大国・日本を代表するような勝負服を纏って帰ってくる。舞台は、かつてタイキシャトルを栄光へと導いたドーヴィルの直線1600mだ。

しかも、モレイラは絶好調でフランス入りする。先週の日曜日はサンパウロで5鞍に騎乗し、4勝と2着1回。その前日のクリチバでは4鞍で3勝と2着1回を挙げた。

さらに前の週末には、リオデジャネイロでの2日間でG1を含む3勝をマークした。その直前にはシーズン終盤の香港に短期参戦し、キャスパー・ファウンズ調教師のリーディング獲得に大きく貢献した。

シュトラウスは乗り難しいところがある。行きたがるモーリス産駒で、適性としてのベスト距離はスプリントとマイルの間にある。

だが、モレイラは誰にも負けないほどシュトラウスをよく知っている。2歳時には初の重賞勝利へ導き、今年2月には賞金総額100万ドルで新設されたアブダビゴールドカップを制覇。アブダビで日本調教馬初の勝利を挙げた。

今回の騎乗が発表された際、モレイラはIdol Horseの取材に対し、「日本を代表して世界の舞台に挑む力になれることを、いつも光栄に、そして誇りに思っています」と話していた。常に前向きなブラジル人騎手は好走を期待しており、モレイラならシュトラウスからその走りを引き出しても不思議はない。

だが、日曜日にシュトラウスがどのような走りを見せようと、今回の騎乗はある記憶を呼び起こす。必死に活路を求めていた22歳の若武者がフランスへ降り立ち、1勝も挙げられないまま、挫折を味わって帰国したときの記憶だ。

今週フランスへ戻る男は、サンパウロからシャティン、札幌からシドニーまで、世界各地で勝利を量産してきた。そして、実りのないあの3カ月がなければ、そのどれ一つとして実現しなかったと、迷うことなく言うだろう。

「もしあのときフランスへ行っていなかったら、どうなっていたんでしょうね」

マイケル・コックス、Idol Horseの編集長。オーストラリアのニューカッスルやハンターバレー地域でハーネスレース(繋駕速歩競走)に携わる一家に生まれ、競馬記者として19年以上の活動経験を持っている。香港競馬の取材に定評があり、これまで寄稿したメディアにはサウス・チャイナ・モーニング・ポスト、ジ・エイジ、ヘラルド・サン、AAP通信、アジアン・レーシング・レポート、イラワラ・マーキュリーなどが含まれる。

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