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「叩き上げの頂点」ザック・パートン騎手はいかにして“香港競馬史上最高”のキャリアを築いたのか

2007年、23歳で香港に渡ったパートンは、名手がひしめく世界で最低勝率に沈んだ。18年後の今、彼は香港競馬の王となった。「史上最高の騎手」が誕生するまでの、知られざる物語。

「叩き上げの頂点」ザック・パートン騎手はいかにして“香港競馬史上最高”のキャリアを築いたのか

2007年、23歳で香港に渡ったパートンは、名手がひしめく世界で最低勝率に沈んだ。18年後の今、彼は香港競馬の王となった。「史上最高の騎手」が誕生するまでの、知られざる物語。

ザック・パートン騎手(ザカリー・パートン)が、自宅の特注トロフィー棚の前を通り過ぎる。いや、トロフィー棚という言葉では足りない。レースコースガーデンズの自宅ダイニングの壁一面を占める、まるで小さな博物館の一角のような空間だ。厚さ3インチの棚板がずらりと並んでいる。

その棚が頑丈でなければならないのには理由がある。香港競馬での18年の歩みが、そこに積み上がっているからだ。

棚の中央列には騎手リーディングのトロフィーが9つ並ぶ。ダグラス・ホワイト元騎手の香港最多勝記録を更新した際の特別トロフィー。アジア各地のG1を制した記念品。そして最近加わった少し特別な一品が、娘のロキシーが描いたカーインライジングの絵だ。

この日、パートンは、カーインライジングのバリアトライアルに騎乗したばかりだった。連勝を重ねるスプリンターは、記録をさらに伸ばす19連勝へ向けて調整を進めていた。

パートンは、とうに収まりきらなくなった古いトロフィー棚の前のソファに腰を下ろす。今の姿だけ見れば、自らを香港競馬の“王”と認め、しかも誰も異を唱えない男は、最初からこうだったように思えてしまう。

だが、目の前のコーヒーテーブルに置かれた2冊のレーシングプログラムは、今とは異なる歩みを映し出していた。苦闘と試練、そして危うく途切れかけた香港でのキャリアが、そこにはあった。

その1冊目は、この取材を行った週、2025/26シーズンの第56回開催のものだ。パートンはこの時点で87勝を挙げ、2位以下を倍以上引き離してリーディングを独走していた。

もう1冊のレーシングプログラムは、香港競馬デビューシーズンの第56回開催のものだ。そこには、故郷を遠く離れ、世界トップクラスの騎手たちが幅を利かせていた舞台でもがいていた、23歳の若者の苦闘が刻まれていた。

「当てられますよ。12勝でしょう」

パートンはそう言って騎手リーディングのページをめくる。数字は近かった。だが、数字は物語の一部しか語らない。301回騎乗して13勝、勝率4.3%。スターぞろいの騎手たちの中で最低の勝率だった。

もう一つの物語は、その顔ぶれそのものにあった。首位には74勝のダグラス・ホワイト騎手。追うのはブレット・プレブル。フェリックス・コーツィー。ダレン・ビードマン。ジェラルド・モッセ。そして短期騎乗の名手たち。クリストフ・スミヨン、オリビエ・ペリエ。

そして、そのシーズン途中で香港競馬を離れていたシェーン・ダイ騎手もその中にいた。

パートンはページの上を指でなぞり、小さく息をついた。

「皆さん分かっていないんです。あの時期香港にいた騎手の顔ぶれを見てください。ホワイト、コーツィー、ビードマン、モッセ、ドゥルーズ、ボス、スミヨン、サンマルタン、デルペッシュ、ヌネス、ダイ。すごい顔ぶれでしょう」

「しかも彼らは、評判や技術があるだけではないんです。馬主や調教師との強い結びつきも持っていました。乗り方も見たことがない、よく知らない若造を、乗せるわけがないんです。何度も結果を出してきた騎手がいるのに、なぜ私に任せる理由があるのかってことです」

もっともな問いだ。そして、パートンがその答えを出すまでには何年もの時間を要した。

ジョッキールームの猛者たち

シェーン・ダイも、そのページに名を連ねていた騎手の一人だった。ニュージーランド・マタマタ出身のダイは、シドニー地区での騎乗を経てスター騎手へと上り詰めた。ひときわ華やかな存在感と、高い知名度を誇っている男だ。

当時の香港競馬ではホワイトとリーディングを争う存在であり、引退後は馬券を買う立場から、競馬評論家としてこの世界を追い続けてきた。香港競馬の内実を知り尽くす人物の一人でもある。

ダイのザック・パートン評は、率直でありながら温かく、その本質を突くものだった。

「ザックは、生まれつきジョッキーだったわけではありません。シェーン・ダイという人間は生まれつきジョッキーでした。ジェームズ・マクドナルドもそうです。ザックは違いました。自分で自分を作り上げたのです」

「もともとスーパースターではなかった。でも、努力と決意でスーパースターになったのです」

この違いは大きい。生まれ持った才能が崇められ、報われる世界。見習いの頃から将来を約束される天才たち、まだ髭も生えそろわないうちから何でもこなす若者たち。その中で、パートンの歩みは異質だった。

見習い騎手時代、ブリスベン地区のリーディングを獲ったとはいえ、シドニーではダレン・ビードマンに大きく水をあけられていた。そして香港へ渡った時、当時の名手たちが持つようなオーラは何ひとつなかった。完成された名手たちの中で、彼だけがまだ磨かれる前の原石だった。

しかも、彼を迎えたジョッキールームもまた容赦がなかった。2007年に彼が足を踏み入れたジョッキールームは、本人の言葉を借りれば、分裂していた。考え方も違えば、派閥も違う。反目も少なくなかった。

コフスハーバーから来た若者を温かく迎える空気など、この世界にはどこにもなかった。

負けることで、学んだこと

だが興味深いのは、その初期の苦しみが今のパートンを形作ったことだ。持ち前の鉄の意志は、敗北や苦い失望、失敗の積み重ねが生んだものだった。

「人生では、勝つ時より負ける時の方が、はるかに多くを学びます。うまくいっている時は、少し甘くなったり、学びや成長が止まったりするものです」

「でも、うまくいかない時こそ、どうすれば成功できるかを考えなければなりません。今でも、勝ったレースより負けたレースの方をよく覚えているくらいです。負けの方が痛いですから」

「その経験が、毎日歯を食いしばって積み上げ続ける貪欲さを私に植えつけました。何一つ、初めから与えられたものはありませんでした」

香港競馬で騎乗する騎手にとって、努力し続けることは独特の苦しさを伴う。毎朝調教に乗り、バリアトライアルに乗り、レースに乗る。そうして勝てる態勢まで馬を持っていっても、いざその時になると、自分よりコネのある騎手に乗り替わる。

「本当に堪えます。それが何度も何度も起きました」

パートンはそこで言葉を切り、さらにこう続けた。リーディング下位に沈む苦しさを深くするのは、そもそも乗っている馬にほとんど勝ち目がないことだと。

「レースの中で後退していく馬で、うまく見せるのは本当に難しいのです。馬より自分の方が疲れるくらいです。何も返ってこないですから」

「リーディング表を見ても分からないのは、私が乗っていた馬たちの単勝オッズです。そもそも勝負にならない馬にばかり乗っていました」

Shane Dye, Zac Purton and Darren Beadman at Sha Tin trackwork in December 2007
SHANE DYE, ZAC PURTON, DARREN BEADMAN / Sha Tin // 2007 /// Photo by Mark Dadswell (Getty Images)
An official Sha Tin racebook and the 2018 Hong Kong jockey standings as of April
OFFICIAL RACE PROGRAM; JOCKEY STANDINGS / 2008 /// Photos supplied

運命を変えた“休暇”

そして、キャリアの早い段階で、この物語が終わりかけた瞬間があった。

パートンはシーズンの合間に、妻のニコールとタイのプーケットで休暇を過ごしていた。元々、香港競馬には6ヶ月間のつもりで乗りに来ていた。プールサイドで、騎乗機会が細っていく現実を前に、彼はニコールにこう切り出した。

「騎乗機会がなくて、もう帰る時だと思ったのです」

すると、ニコールは笑った答えた。

「『どうして?私はすごく楽しいし、もう少しいればいいじゃない』って。それで、『じゃあ、君の好きにしよう』と思ったんです」

パートンは、その時のことを思い出して笑う。本人いわく、ニコールは当時、その苦しさの深刻さをそこまで分かっていなかった。何が本当に起きているか、見えていなかった。でも、そこが大事だった。

「彼女は、私が良い感じに乗れていて、あとはチャンスが必要なだけだと思っていました。それが正しかったんです」

ダイもまた、同じ点を挙げる。

「パートンにとって、ニコール夫人の存在はとても大きいです。あの人が支えです。ザックは、自分の思いどおりに諦めていたら早い段階で香港を去っていました。彼女が引き留めたんです。彼にとって本当に大きな存在です。多くの人が思っている以上に」

殿堂入りジョッキー、ジム・キャシディの娘であるニコール・パートンは、競馬の世界で育ち、騎手のキャリアの波を、本人が思う以上によく理解していたのだろう。

そうした楽観的な見方が、パートンを香港競馬にとどめた。もしそれがなければ、記録も、リーディングも、ホワイトの最多勝記録更新もなかった。コフスハーバー出身の才能ある若者が、ただ夢破れて終わるだけの話で終わっていた。

騎乗馬を奪っていった男たち

土俵際で踏みとどまったことで、パートンはそれまで持っていなかったものを得た。時間だ。見る時間、学ぶ時間、そして自分の騎乗馬を奪っていた名手たちから学ぶ時間である。

「毎週のようにあの騎手たちと競えたことの一番の収穫は、彼らを見て、研究して、学べたことです。ルーツがそれぞれ違うので、みんな少しずつ違っていました。でも、全員を観察し、学ぶべき特徴がありました」

パートンの語りぶりは、単にリプレーを見返しただけのものではない。同じレースの中で、隣り合って走りながら細部まで見ていた者のそれだ。

ジェラルド・モッセ騎手の騎乗には、美しく独特なスタイルがあった。豪州の騎手がポジションを取るために馬を押していくのに対し、モッセはどこにいるかを気にしない。それが外3頭分でも構わない。馬とリズムを合わせ、息を入れ、流れに乗せる。流れが速い豪州競馬の流儀で育った若手には、異質に映った。

「オーストラリア競馬では、かなりの場面で馬を押してポジションを取りにいくものです。でも彼は、自分がどこにいるかを気にしていませんでした。ただ馬とリズムを合わせていた。息を入れることを重視していました。実にきれいで、我慢の利く騎手でした」

エリック・サンマルタン騎手も似ていた。手綱を長めに取り、馬をリラックスさせ、いつもぎりぎりまで待ち、最後の瞬間に差してくるような騎乗だった。

「大どんでん返しを愛する映画スターのようでした」

戦術的な影響を受けたのはフェリックス・コーツィー騎手だった。パートンは、これまで見た中でおそらく最高の逃げの名手だったと評する。

「先頭に立ったとき、多くの騎手の間違いはペースを遅くしすぎることです。馬を必要以上に抑え込んで、リズムを壊してしまうのです。でも彼は美しいリズムで走らせる」

「標準タイムのこともあれば、時にはそれを上回る流れでも、馬は最後まで応えてくれました。逃げ馬に乗るのは本当に技術が要ります。抑えすぎて失敗する騎手は多いですが、彼は素晴らしかったです」

そしてクリストフ・スミヨン騎手。当時は香港競馬で3度騎乗し、パートンの言葉を借りれば驚異的な存在だった。能力だけではない。スミヨンには、空気を変える存在感があった。

「ジョッキールームにいるだけで、彼が来ていると分かりました。立ち居振る舞いが違った。容赦がありませんでした。何か気に入らないことがあれば、すぐ周囲に伝わりました。あの激しさこそ、彼の競争心なのです」

パートンは彼ら全員を見ていた。技術だけではない。落ち着き、戦術眼、そして同じ戦場に立たなければ感じ取れない細部まで。レースを重ね、敗北を重ねる中で、彼は作られていった。

1か月で「10勝」

パートンの転機は、別の騎手と厩舎の関係悪化から訪れた。

デビューシーズンの最終盤、グレン・ボス騎手はリッキー・イウ厩舎で騎乗していた。だが関係はこじれた。イウ師はパートンに声をかけ、もっと乗らないかと尋ねた。パートンには、乗る馬がいなかった。彼はその誘いを承諾し、その最後の1か月で10勝を挙げた。

「香港競馬で1か月に10勝すれば、絶好調と言っていいです。シーズンは10か月あります。毎月10勝ならシーズン100勝です。香港競馬でシーズン100勝以上を挙げた騎手は、歴史上3人しかいません。それがどれほど快進撃の1か月間だったかの目安になります」

ただし香港競馬では、他の土地のように勢いがそのまま続くわけではない。パートンは2年目に戻ってきても、また最初からやり直しだった。

「2年目になって、さあここから一気に、とはなりませんでした。戻ってきたら、また最初から歯を食いしばって積み上げ直しでした」

だが、イウ師との縁が開いた扉は、一時の好調以上のものだった。パートンは、それまでの海外出身騎手としては数少ない、地元出身の調教師たちと本当の信頼関係を築く存在になっていく。

きっかけは必要に迫られてのことだった。外国人調教師たちがチャンスをくれなかったからだ。

だが、生き残るために始まったものは、やがて実りある関係へと変わった。イウ調教師、ダニー・シャム調教師、デニス・イップ調教師、フランシス・ルイ調教師とパートナーシップを築き、周囲がまだその力を十分に評価していなかった頃から彼らの馬に乗り、ともに成長していった。

「ダニー・シャム師はいい例です。私は何年も前から、あの人がどれだけ優れた調教師かをずっと言い続けてきました。苦しい時期があって、数字も落ち込み、また這い上がっている最中でした」

「でも私にとっては、本当に乗りやすい素晴らしい調教師でした。自分の馬を隅々まで分かっていて、いつも馬を仕上げてきます。今でこそロマンチックウォリアーの活躍で、誰もがあの人の力量を認めています。でも私にとっては、ずっと前からそうでした。当時は誰もそれに気づいていなかっただけです」

ルイ師との関係は、また別の意味で示唆に富む。普段、パートンはルイ師の馬にそこまで多く乗るわけではない。ルイ師は出馬決定をぎりぎりまで遅らせるため、その頃には大抵、パートンは他馬への騎乗ですでに埋まっているからだ。

だが、本当に大事な場面、つまりルイ師が調教師リーディングを争っていた時、彼はすべてをパートンに託した。パートンはその期待に応え、トレーナーを頂点へ押し上げた。

そこには、偉大な騎手と、ただ才能があるだけの騎手を分ける、目立ちにくい能力の一つが表れている。信頼に報い、不義理に厳しいシステムを渡り歩く力だ。

Zac Purton holding his trophy aloft after breaking Douglas Whyte's record in early 2025
ZAC PURTON, WINFRIED ENGLEBRECHT-BRESGES / Happy Valley // 2025 /// Photo by HKJC
Zac and Nicole Purton ring the bell after Zac broke Douglas Whyte's HK wins record in early 2025
ZAC & NICOLE PURTON / Happy Valley // 2025 /// Photo by HKJC

終わりなき重圧 

話題が香港競馬で騎乗することの精神的な重圧に及ぶと、パートンは静かに振り返る。それは、多くの名手すら押しつぶしてきた重圧だ。

「批判はあらゆるところから来ます。裁決委員には絶えず何かを問われます。新聞、解説者、ソーシャルメディア、調教師、馬主。馬が結果を出せなければ、誰かを責めなければならない。たいてい矛先は騎手に向かいます」

「終わりがないのです。本当に、まったく終わりがありません。だから耐性を身につけなければなりません。最終的には、それを切り離して横に置けるようにならないといけません」

「自分の能力、自分のやり方に自信を持つことです。外からの声に振り回されてはいけません」

ダイが最も高く評価するのも、その資質だ。騎手が言葉を濁し、勝ち目のない単勝2倍の本命馬を持ち上げ、空疎な前向き発言で馬券ファンや調教師、馬主を満足させようとすることの多い世界で、パートンは自分が思ったことをそのまま口にする。

「彼は自分の意見をはっきり言う。そういうところが私は好きです。騎手の中で、言葉を本気で受け取れる数少ない一人です。言うことが、そのまま本心だからです」

「単勝2倍の本命馬に乗っていても、テレビで『私はあまり好きではありません。こういう理由です』と平気で言う。普通の騎手なら『大きなチャンスです』と言うでしょう。頭の中では何か分かっていても、それを言わないのが普通です」

「ザックはありのままを言う。それが競馬界にとって素晴らしいのです」

その厳しさは、かつて自分が足を踏み入れたジョッキールームそのものも変えた。パートンによれば、今のジョッキールームは、彼が香港に来て以来もっともまとまりがある。ひとつは世代交代だ。若い顔ぶれが増え、時代が変わった。

もうひとつは意図的なものだ。パートンはゴルフ会やボート遊びを企画し、かつて自分が部外者だった頃にはなかった形で、部屋をひとつにまとめている。かつて分裂した空間に入ってきた若者が、今ではその空間をひとつに保とうとしているのだ。

また彼は、安全対策や施設の改善を訴える代弁者の役割も果たしてきた。当局と時々開かれる会合で物申す姿勢により、毎週自分に負かされるライバルたちからも、苦々しさを含みつつ一目置かれている。

逆の立場

どれだけ多くのトロフィーを背後に並べていても、パートンは勝利より敗戦の方を多く覚えていると言う。野球で言えば、最高の打者でも7割は失敗しながら殿堂入りする。騎手も同じだ。敗戦の方が痛い。だが、その分だけ多くを教えてくれる。パートンにとって、敗北は原動力となった。

その考え方が、最初の56開催で13勝だった男を、香港競馬史上最高のジョッキーへと導いた。伝説たちが並ぶページで最低の勝率だった男が、最後には全員より長く第一線に立ち、成績でも上回ったのである。

そしてその考え方は、思いがけない共感も育てた。なぜなら今の彼は、かつて自分を苦しめた側、つまり誰かに代わって騎乗依頼を受ける側にいるからだ。

「今の私は、誰かが積み上げてきた仕事の恩恵を受ける側にいます。彼らの表情も、その苦しさも見えます。どう感じるか、私は痛いほど分かります。自分がそこにいたからです」

時には若い騎手のところへ行き、自分がその馬に騎乗することになったと直接伝えることもある。義務感からではない。待ち続け、期待し、何も分からないまま他の騎乗依頼まで逃してしまうあの感覚を、彼自身が覚えているからだ。

「多くの場合、みんなは期待しているから待って、他の騎乗依頼を受け付けません。実際は、『この馬には乗れないよ』とはっきり言ってもらった方が優しいんです。問題ありません。次へ進んで、別の騎乗馬を探せばいい。でも、もう空きがない話を待ち続けていると、また別の機会まで失ってしまうのです」

コーヒーテーブルの上に、2冊のレーシングプログラムが並んでいる。1冊は2008年、もう1冊は2026年。同じ開催番号、同じ競技、同じ男。変わったのは、それ以外のすべてだ。

ニコールは正しかった。彼に必要だったのは、ただ、もう少しの騎乗機会だった。

マイケル・コックス、Idol Horseの編集長。オーストラリアのニューカッスルやハンターバレー地域でハーネスレース(繋駕速歩競走)に携わる一家に生まれ、競馬記者として19年以上の活動経験を持っている。香港競馬の取材に定評があり、これまで寄稿したメディアにはサウス・チャイナ・モーニング・ポスト、ジ・エイジ、ヘラルド・サン、AAP通信、アジアン・レーシング・レポート、イラワラ・マーキュリーなどが含まれる。

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