ピエール・ン調教師は、日本でG1を勝ったときの光景を知っている。
2015年3月、G1・高松宮記念で香港のエアロヴェロシティが勝利した。彼はポール・オサリバン厩舎のアシスタントトレーナーとして中京競馬場への遠征に帯同し、共に勝利の美酒を味わった。
今、彼は自らの名を冠した厩舎を率いる立場だ。そして、日曜日のG1・スプリンターズステークスではムゲンの調教師として出馬表に名前が載っている。
初の海外遠征と同様、中山の急な坂はムゲンにとって初めての経験だが、ンは香港競馬のお家芸である短距離路線の強さを信じている。かつて、サイレントウィットネスやウルトラファンタジーがこのレースのトロフィーを母国に持ち帰った。
「我々の短距離路線は強いですからね。香港と言えばスプリンターです」
「もちろん、日本のスプリンターが弱いとは言いません。難しい挑戦ですが、香港馬はやはり世界の短距離レースを勝っている実績があります。香港馬が経験してきたペースやレーススタイルは有利に働くと思うので、日本でもそれを発揮したいですね」
「前走は1400mで勝ちましたが、今回は1200mに戻して直線で少し坂のあるレース。フレッシュな状態で走れますし、彼のスタミナを考えるとこのコースでもやっていけると思います」

41歳のンは厩舎開業からわずか2年で名を馳せる存在となったが、それも意外な話ではない。名伯楽、ピーター・ン調教師の息子として香港で生まれ育ったが、競馬界に足を踏み入れたのはオーストラリア。アメリカ、日本、アイルランド、そしてニュージーランドでも経験を積んできた。
「まだ3シーズン目ですが、すでに海外レースにも挑戦してきました」
「初年度はまだ態勢が整っていなかったのですが、もっと力をつけて、海外レースでも勝てるようになればと思います。良い馬が現れれば、海外遠征を計画することができますから」
Idol Horseの取材にそう答える彼だが、初の海外遠征は開業から6ヶ月、グロリアスドラゴンとデュークワイをドバイのG1に送り出したときだった。昨年はデュークワイとアパッチパスを韓国に遠征させ、G3・コリアスプリント4着とG3・コリアカップ7着という結果を手にした。
ムゲンは彼が思い描く、理想的な海外遠征馬に近い。調教師としての彼の名を、世界に知らしめる良い機会になるだろう。
「それが目標の一つです」と彼は語る。
海外志向が強い彼は、時代の流れとも一致している。世界の競馬が縮小傾向にある中、香港ジョッキークラブが主催するワールドプールは拡大の一途を辿り、ドバイだけでなくサウジアラビア、オーストラリア、アメリカ、日本でも高額賞金が用意される時代となった。香港国内でも充分な賞金が用意されているが、海外に出ることの重要性も理解している。
「世界中の競馬界全体にとって大事なことだと思っています」
「そして、香港馬が世界中で走り、その強さをアピールすることもできます。香港には良い馬がいて、調教レベルも高いと示すことができるんです。世界の舞台で戦うことは、香港競馬と競走馬、そしてホースマンのクオリティを証明する機会に繋がります」

2ヶ月で2カ国のG1制覇、オサリバン厩舎時代にエアロヴェロシティと共に日本とシンガポールを旅した経験は、ンにとって忘れられない日々となっている。勝利の感覚、教訓、そしてこの勝利によって開けた野望への道だ。
「以前に働いていた調教師の下で学んだテクニック、管理手法、レースへの準備といったことは、もちろんいつも頭の中に入っています。どれも興味深く思っています」
ニューサウスウェールズ大学で安全科学と日本学を学んだンは、大学近くのランドウィックにあるデイヴィッド・ペイン厩舎でアルバイトを始めたところから競馬人生が始まった。卒業後、デヴィッド・ヘイズ厩舎に移り、その後は母国の香港で調教助手として働き始めた。
香港に帰国してHKJCのトレーニングシステムに入った彼は、オーストラリアではクリス・ウォーラー厩舎やミック・プライス厩舎、アメリカではビル・モット厩舎、日本では安田隆行厩舎で修行を積んだ。その後、シャティンで父の厩舎のアシスタントトレーナーとして働き始め、過去最高の成績を残したラストシーズンの活躍を後押しした。
「正直、卒業するまでは競馬界に入るとは思っていませんでした」
「子供の頃、いつか競馬に携わりたいという夢はあったかもしれませんが、卒業して就職するまでは考えてもいませんでした。その後、どういうわけか香港で馬に乗る仕事に就いたというわけですね」

調教師の父が定年を迎えると、オサリバン厩舎、名門のジョン・サイズ厩舎、そしてフランシス・ルイ厩舎を渡り歩き、それぞれの厩舎で活躍を裏から支えた。エアロヴェロシティとの活躍もあって、いつしか調教師としての独立が待ち望まれるようになっていった。
そして、ンはその期待を裏切らなかった。7月に2年目のシーズンを終えると、69勝を挙げてリーディング2位。元ボスのフランシス・ルイ調教師を最後の最後まで追い詰めるも、わずか1勝差でタイトルを逃した。彼は今後のシーズンについては、敢えて予想を避ける。
「その年ごとにやっていくだけです。初年度は41勝を挙げ、そこからさらに成績を伸ばそうとしました。2年目は確かに成績も良くなりましたが、厩舎、馬、スタッフともにまだまだ改善の余地を残しています。完璧な仕事、完璧な管理を目指し、挑戦し続けようと思っています」
「今シーズン、うちの厩舎の馬がどれだけやれるか楽しみにしています。どれだけレーティングを上げられるか、重賞で戦えるか、とても楽しみにしています」
昨シーズンの香港ダービー2着馬ギャラクシーパッチ、そしてデビューを控えるヨハネスブラームス、その期待はこの2頭に向けられている。

エイダン・オブライエン厩舎時代にG2・ジムクラックステークス2着の実績がある3歳騸馬のヨハネスブラームスについては、以下のように期待を語った。
「この馬を預かることをとても嬉しく思っています。素晴らしい厩舎の馬ですし、購入できてとても嬉しいです」
「今朝、従化トレセンの方で最初のバリアトライアルに臨みましたが、見事な走りを見せました。特別な馬のように見えます」
12月の香港マイルを見据えるギャラクシーパッチはすでに特別な馬だ。昨シーズンはG1・クイーンズシルヴァージュビリーカップで2着に入り、最後にG3を2勝してシーズンを締め括った。海外遠征も視野に入る馬だが、ンは慎重な姿勢を示す。
「彼の気性を考えると、まだ海外遠征には踏み切れません。遠征できるほど落ち着いた馬ではありません。今シーズン終了後、もしくはシーズン半ば、レース経験を積んで気性面も成長してくれば、チャレンジしてみるかもしれません」

一方、中山競馬場に滞在するムゲンについては、従化の厩舎を任せているアシスタントトレーナーのレイ・リョン調教助手に調整を託した。彼は『信頼できる』ホースマンだといい、その姿は10年近く前にエアロヴェロシティを任されたオサリバン厩舎時代のンのようだった。
今週の後半には東京に到着する予定となっており、大学での専攻や中京での思い出を通じて縁のある国でムゲンが走る姿を楽しみにしている。
「日本の競馬ファンの情熱は驚異的ですが、日本競馬は高いプロ意識や競馬のスタイルも素晴らしいので、良い経験になります」
「少ししか話せませんが、日本語を学び、その国の文化を知り、良い経験や良い思い出を持っています。特別なことです」
「エアロヴェロシティとは素晴らしい結果を出せましたし、いつか自分の馬を日本に連れて行ってあの時の結果をもう一度と思っていました。それが私の目標です」