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「ケンタッキーから日本の英雄へ」グラスワンダー、国を越えた伝説の原点を探る

ケンタッキー州のダービーダンファームに生まれ、キーンランドセールを経て、日本へ渡ったグラスワンダー。2歳王者から有馬記念連覇に至るまで輝きを放ち、さらにゲームを通じて新たな世代の心もつかんだ名馬は、30歳でその生涯を閉じた。

「ケンタッキーから日本の英雄へ」グラスワンダー、国を越えた伝説の原点を探る

ケンタッキー州のダービーダンファームに生まれ、キーンランドセールを経て、日本へ渡ったグラスワンダー。2歳王者から有馬記念連覇に至るまで輝きを放ち、さらにゲームを通じて新たな世代の心もつかんだ名馬は、30歳でその生涯を閉じた。

8月8日、30歳でこの世を去る直前の数日間、SNS上の『ウマ娘 プリティーダービー』界隈では、雪に覆われた放牧地で、腹回りにたっぷりと肉をつけた栗毛馬、グラスワンダーの写真が人気を博していた。ファンは「大食い」「すぐ太る」という名馬の特徴を冗談交じりに言及し、その個性がウマ娘でのキャラクターにも反映されていることを楽しんでいた。

だが、訃報が伝わると、ファンの反応にも変化が見られた。ネタ交じりだった「太い」「丸い」といった言葉は慎まれ、多くの人々が実際のレースを見たことのない馬に対して、ゲームやアニメを通じて抱いた親しみから、改めて深い敬意を示した。

『ウマ娘』はCygamesが展開する大ヒットゲームであり、アニメ、漫画、音楽、ライブイベントまで幅広く展開する一大コンテンツだ。日本競馬の英雄たちを “転生” させ、トレセン学園所属の「ウマ娘」として再び物語を紡ぎ直す試みは、国内外のファンを魅了している。

現実の名馬と、ゲームの世界のウマ娘が交錯する場所には、史実と伝説が混じり合う鮮やかな世界が広がる。そこで描かれるのは、実在の競走馬と「ウマ娘」との境界を曖昧にしながらも、熱心なファンの感情を強く結びつける物語である。

四半世紀以上前にターフを駆けたグラスワンダーは、世紀末を彩った「黄金世代」最後の生き残りとして現実世界から旅立った。そして、今年6月に待望の英語版が配信開始された『ウマ娘』においては、世界展開以降、初めて登場キャラクターが現実世界で亡くなった例となった。

Grass Wonder Umamusume character
GRASS WONDER (L), GRASS WONDER (R) / Idol Horse

ファンはついにネット上での葬儀までも執り行い、最初はウマ娘として出会ったグラスワンダーを安らかに見送った。ウマ娘の世界では「勝利への強い執念」を持ちながら、親しみやすく、アメリカ生まれでも「和の精神を持つ」という設定で描かれている。その姿は、日本文化に強い共感や親近感を抱く海外ファンの象徴的な存在としても受け止められていた。

伝説と現実が交差するグラスワンダーの物語において、疑いようのない事実が二つある。“名馬” グラスワンダーは日本競馬を彩った実在の英雄であり、そして実際にアメリカで出身だ。

1995年2月18日、グラスワンダーはケンタッキー州のダービーダンファームで誕生した。父はエアドリースタッドの種牡馬だったシルヴァーホーク、母はダンジグ産駒のアメリフローラ。フィリップスレーシングパートナーシップとジョン・フィリップスによって生産された。

フィリップスは、レキシントン郊外にあるダービーダンファームのオーナーだ。『ウマ娘』については何も知らず、グラスワンダーが長い栗色の髪に額の白星を持つキャラクターとして描かれていることも知らない。しかし、彼の牧場で生まれた馬としてのグラスワンダーには、懐かしい思い出を持っている。

フィリップスはケンタッキー州から電話でIdol Horseの取材に応じ、幼い頃のグラスワンダーを「魅力的な馬でした」と振り返った。さらに「シルヴァーホークと母系の組み合わせは歴史的に価値があり、母アメリフローラはダンジグの娘。この血統は長年にわたって我々にとても良い結果をもたらしてきました」と語った。

グラスワンダーは生後19ヶ月間を、ケンタッキーブルーグラスを食みながらダービーダンファームで過ごした。そして初めての大舞台となったのは、世界的に有名なキーンランド・セプテンバーイヤリングセール。数々の名馬が巣立ったオークションの場だった。

もし、母のアメリフローラが現役時代にその能力を証明していれば、息子のグラスワンダーも自ら所有していたかもしれないとフィリップスは語る。

しかし、「アメリフローラは未出走で、膝の構造に難があり、競走馬として成功するとは思えませんでした。血統は素晴らしかったのですが、自己所有馬にする確信が持てませんでした」と経緯を話す。その不確かさもあって、グラスワンダーをキーンランドのセールに出すというビジネス上の判断を下したのだという。

1996年のキーンランドセールでは、ノーザンファームの吉田勝己氏、西浦和男氏、安田修氏、角田修男氏ら日本の購買者が熱心に参加していた。その中で、上場番号192番のグラスワンダーを25万ドルで落札したのは代理人の角田氏だった。

「セールで売却した当時のことをよく覚えています」とフィリップスは振り返る。

「キーンランドセールの序盤のカタログに掲載される馬たちは常に国際色豊かで、取引も非常にエキサイティングです。グラスワンダーもその好例でした。あのセールは数日間にわたり膨大な頭数が上場されるため、活気に満ちる一方で最も大変な場でもあります」

「序盤のカタログに登場する馬は国際的で高額な取引が中心ですが、カタログが進むにつれて購買者の顔ぶれも変わり、やがてアメリカ国内の購買者を主とし、南米やトルコといった二次的な国際市場の関係者が多くなっていきます」

「しかし今では、日本のような市場が間違いなく世界の名だたる市場に数えられるようになりました。その変化は実に印象的です」

「このセールには段階があるんです」とフィリップスは続ける。「最初の1日や最初の1週間は、あらゆる競馬大国の言葉が飛び交います。それが10日目になると、カウボーイハットにベルトの大きなバックルといった雰囲気になっていくのです。我々は冗談めかしてそう言いますが、それこそがセールの移り変わりであり、この業界全体の広がりを感じられるところなんです」

ブック1で落札されたグラスワンダーは、その後日本へ輸出され、美浦トレーニングセンターの尾形充弘厩舎に入厩。馬主・半沢の所有馬としてデビューを迎えることとなる。セールからちょうど1年と7日後、中山競馬場の新馬戦で初陣を飾った彼は、2着に3馬身、3着に6馬身の差をつける圧巻の勝利を収め、その期待は高まっていった。

当時は日本馬がまだ国際舞台で十分な成功や評価を得ていなかった時期だったため、この馬がどう成長していくかに不安もあったとフィリップスは振り返る。

「日本に渡ると聞いた時は、今では信じられないのですが、『果たしてどうなるか』と不安を抱いたものです。今でこそ日本競馬は体系的に発展し、大きな成功を収め、優秀な人々が集まっています。しかし当時は、まだ国際舞台での存在感は充分ではありませんでした」

「ですが、(2歳戦を勝った直後)すぐに『彼はスターだ』という連絡が日本から飛んできました。おかげで、血統的な評価を大きく押し上げてくれました」

「異国の地で埋もれるどころか、むしろ存在感を放ってアピールしてくれました。とてもワクワクしましたよ」

グラスワンダーはデビューから無敗の4連勝を飾り、その頂点は12月の日本最重要2歳戦、現在の朝日杯フューチュリティステークスだった。レコードタイムで制したその走りは、1970年代に無敗で名を馳せたマルゼンスキーの再来と称えられた。奇しくもマルゼンスキーもまた、母シルが1973年のキーンランドセールに上場された際、母が身ごもった状態で落札された経歴を持つ。

Maruzensky retirement ceremony at Tokyo Racecourse
MARUZENSKY / Retirement Ceremony // Tokyo /// 1978 /// Photo by JRA
Grass Wonder defeats Special Week in G1 Arima Kinen
GRASS WONDER (L), SPECIAL WEEK / G1 Arima Kinen // Nakayama /// 1999 //// Photo by JRA

もっとも、グラスワンダーは海外生まれであったため、マルゼンスキーと同様に日本ダービー(東京優駿)には出走する権利がなかった。さらにケガによって10ヶ月の休養を余儀なくされ、復帰後は2戦連敗を喫した。

しかし、年末には見事に巻き返し、暮れの大一番・有馬記念でエアグルーヴ、セイウンスカイ、ステイゴールドといった強豪を退けて復活を遂げる。翌年には夏のグランプリ・宝塚記念を制し、さらに年末には2度目の有馬記念を制覇。日本競馬史に燦然と名を刻む名馬となった。

この『黄金世代』には、同じくケンタッキー州生まれで、フランス遠征を決行して凱旋門賞制覇にあと一歩のところまで迫ったエルコンドルパサー、セイウンスカイ、キングヘイロー、さらに海外遠征黎明期に国外で結果を出したアグネスワールド、そして1998年のダービー馬のスペシャルウィークが名を連ねている。

グラスワンダーは1999年の宝塚記念でスペシャルウィークを下したが、12月の有馬記念で迎えた再戦は今なお語り継がれる名勝負となった。ゴール板を駆け抜けた瞬間、両者の明暗を分けたのはわずか “4センチ” の着差。そこへ鋭く迫ったのは3歳世代の新星、テイエムオペラオーだった。

鞍上の的場均は当時、ゴール後にスペシャルウィークの武豊に「どうですか」と繰り返し声を掛けられたという。当初は敗北を覚悟して苛立ちを覚えたが、写真判定で勝利が確定するとその瞬間に歓喜へと一変したと振り返る。

これがグラスワンダーにとって最後の勝利となった。通算15戦9勝。翌2000年末で現役を退き、社台スタリオンステーションで種牡馬入りした。20歳となった2015年からはブリーダーズ・スタリオン・ステーションに移動。ジャパンカップ馬のスクリーンヒーローを輩出し、その産駒で孫のモーリスも世界的名馬として脚光を浴びた。

晩年、グラスワンダーはビッグレッドファームで過ごした。当時のエピソードとして、「タンポポを好んで食べる」という逸話が伝わっている。

その旺盛な食欲はウマ娘のキャラクター設定にも反映され、引退後の競走馬の支援活動にも光を当てた。彼自身も、引退馬への飼料支援を目的とした『生牧草バンク』によってファンからプレゼントを贈られている。

このポータルサイトでは、誰でも5kg単位の牧草を購入し、馬に届けることができる。ウマ娘を通じてつながったファンを含め、グラスワンダーには種牡馬引退以降、合計3,985kgもの牧草が寄贈された。プロフィール欄には誕生日のお祝いメッセージや逝去を悼む声が並んでいる。

Grass Wonder in retirement
GRASS WONDER / Photo by Big Red Farm
Grass Wonder retirement ceremony
GRASS WONDER / Retirement ceremony // Photo by JRA

“グラス最強” ——2歳王者として、そしてグランプリホースとして頂点を極めたあの頃に響いた声援は、やがて『ウマ娘』のキャラクターを通じて次の世代へ、さらには新たな層の人々へと広がり、名馬の名を未来へと伝えた。

種牡馬時代、厩舎仲間には稀代のクセ馬として知られる芦毛のゴールドシップがいた。グラスワンダーの馬房の前を通ると、まるで敬礼するかのように立ち止まったという逸話が残っている。それが真実かどうかはさておき、あのキーンランドセールという舞台を経た一頭の栗毛馬が、ターフを超えて広く人々の心に刻まれたのは紛れもない事実である。

「我々の哲学は『すべての馬は、そうでないと証明されるまではチャンピオンだ』というものです」とフィリップスは語る。

すべての馬に可能性を信じて接する——その哲学を、グラスワンダーは確かに証明した。

デイヴィッド・モーガン、Idol Horseのチーフジャーナリスト。イギリス・ダラム州に生まれ、幼少期からスポーツ好きだったが、10歳の時に競馬に出会い夢中になった。香港ジョッキークラブで上級競馬記者、そして競馬編集者として9年間勤務した経験があり、香港と日本の競馬に関する豊富な知識を持っている。ドバイで働いた経験もある他、ロンドンのレースニュース社にも数年間在籍していた。これまで寄稿したメディアには、レーシングポスト、ANZブラッドストックニュース、インターナショナルサラブレッド、TDN(サラブレッド・デイリー・ニュース)、アジアン・レーシング・レポートなどが含まれる。

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