ウィンクスの鞍上を託されることは、栄誉だったのか、それとも重荷だったのか。
確かに、ヒュー・ボウマンと同時代の騎手が、彼女ほどの機敏さと比類なきストライド、そして走るほどに際立つ優位性を兼ね備えた馬に、再び巡り合うことはないだろう。
しかし、ウィンクスに関わったすべての人々、調教師、馬主、厩務員、馬運車の運転手、そして無事にゲートを出るよう祈り続けたスターターに至るまで、すべてにのしかかった耐え難い重圧のことも忘れがたい。
そして、その最前線に立っていたのが彼女の主戦騎手である。世界中の何百万人もの視線が手綱のわずかな動きに注がれるなかで、彼がどんな心境だったか想像できるだろうか。
忘れられがちだが、2019年のロイヤルランドウィック競馬場での引退レース(4年にわたる無敗の最終章となる33連勝目)直後、ボウマンは深呼吸をして、彼女に口づけをしようと身をかがめた。その瞬間、時に気難しいこの女王は頭を跳ね上げ、忠実な相棒の顔面を見事に直撃した。
ボウマンの下唇はぱっくり割れた。すべてに感謝を、そんな置き土産である。ウィンクスについて語る最後のテレビ取材で、彼は出血を押さえるティッシュを手に立っていた。騎手に残された、文字通りのフィナーレだった。
「実は彼女については普段あまり話しませんが、振り返るのは素敵ですね」とボウマンは言う。
「引退から6年経っても、世界のメディアはまるで半年前まで走っていたかのように彼女を語ります。それこそが彼女が世界の競馬界に及ぼした影響の大きさの証しです。時は流れても、この馬との絆は生涯続くと確信しています」
オーストラリア競馬の黄金期を回想する彼の周りに、ランドウィックの大観衆はいない。香港・上環の、ほとんど人影のないカフェだ。沿岸をかすめた熱帯低気圧の影響で発令されていたシグナル8の警報が解除され、店がようやく開いたばかりである。
長女のバンビさんは、ウィンクスという “ジェットコースター” を十分に理解するには幼かったかもしれないが、ランチの席で、殿堂入りの父がキャリアの黄昏を語るのに耳を傾けている。
ウィンクスを思えばボウマンが浮かび、ボウマンを思えばウィンクスが浮かぶ。
端正な牝馬が頭角を現す前から、ボウマンはすでにオーストラリアの一流騎手だった。だがその後の数年で、ウィンクスとのパートナーシップによりG1・25勝を積み重ね、この男はオーストラリアの新聞一面の常連となった。

『ウィンクス時代』は遠い昔となったが、今この場でIdol Horseのインタビューに答える45歳の彼は、下唇の血を拭ったあとの “下り坂” を、ようやく言葉にしてくれた。
「モチベーションは下がり、当時ほどの規則正しさも保てていませんでしたし、精神的にも消耗していました」
「いまは乗り越えました。肉体的にも精神的にも、私だけでなく周囲の人間にも負担がかかっていたのは間違いありません。当時は旅の途中で、ウィンクスには達成する目標があり、ただそれを遂行していただけなので、負担に気づかなかったのです」
「フットボールのチームに、年間8回の決勝戦を戦わせるようなものです。感情的にそれをやり遂げられるでしょうか。もしやり遂げたとしても、4年後には燃え尽きたチームになっているでしょう。それが一番わかりやすい例えです」
当時の記憶はいまも鮮明に残る。それでも、彼を動かす原動力は別の源泉から湧いている。弱肉強食の香港で、自らの評価を磨き続けることだ。この環境が、彼のキャリアの活力を呼び戻した。
かつてはオーストラリアから単発の遠征で香港の大レースに臨んでいたが、数年前、ジョアン・モレイラ騎手の後任として、香港ジョッキークラブから家族(妻のクリスティーンさんと2人の娘)と移住するよう打診を受け、受諾した。
ボウマンは豪州・ニューサウスウェールズ州の地方出身。広い土地に隣人も少ない環境で育ったため、「ライフスタイルの変化と順応が必要でした」と明かす。
「香港は大好きです。いまは落ち着きました。仕事の面だけで見ても、キャリアのとても良いタイミングでした。来てからの数年は順調で、それが肝心です。ここは非常に厳しい環境で、結果が出なければチャンスはすぐに枯れます」
実際、ボウマンのチャンスは枯れていない。
香港入りした豪州の名手が、ザック・パートン騎手を王座を脅かす、とまではいかずとも、「その独走を食い止めるべく爪痕を残す」と考えるのは自然だったかもしれない(2024/25年の騎手リーディングで、ボウマンは大差の2位)。
だが、彼は現実的だ。パートンは調教師や馬主との厚い支持基盤を築き、さらに、記録を塗り替えてきた彼と同じ土俵で戦うための軽い斤量には、ボウマンは到底落とせない。
「人はライバル関係を作りたがりますし、私もザックに挑みたい気持ちは山ほどあります。でも、現実を見なければなりません。彼に真っ向から挑むという目標設定は無謀です。本気でやるなら、4~5ポンドは軽い斤量で乗れるようにしないといけませんが、それは私の範囲外です」
「ときには、いまの立ち位置に満足することも必要です。闘争心は消えませんが、私は量より質に焦点を当て、ライフスタイルも楽しみたい。快適な体重で乗っています」
「もっと頑張るべきと感じる時もありますが、必要な時に頑張る。いいバランスだと思いますし、年齢と成熟がそれを可能にしてくれます」
「自分にできることの精度をさらに上げたいと思っています。今季、80~90勝まで押し上げられれば十分に現実的な目標で、その結果に満足してシーズンを終えられるでしょう」
この言葉には、現代でも屈指の “馬上の思索家” としての彼がにじむ。彼の語りは熟慮に満ち、誇張はなく、多くの場合で核心を突く。

話題はこれまでのことから、これからのことへと移る。この取材の数週間後、シドニーの総賞金2,000万豪ドルを誇るジ・エベレストを制した香港短距離王のカーインライジング、そして彼自身の将来だ。
かつてはウィンクスがボウマンにとってそうであったように、デヴィッド・ヘイズ厩舎のカーインライジングが、パートンの相棒として、勝つたびに国民的な熱狂を呼び、一般メディアを席巻する様を、うらやましさを押し隠して見守ってきた。
ボウマンは短距離界のスーパースターを追い詰める立場だったが、カーインライジングに並ぶのはほとんど不可能だと、一緒のレースを走る中で思い知らされた。
「彼は、我々が見てきた中で最高のスプリンターかもしれません。本気でそう思います。いったんゲートが開けば、ほとんど隙がありません」
とはいえ、彼がジ・エベレスト初制覇を諦めたわけではない。カーインライジングが、2026年に連覇を目指して戻ってくる可能性が高いとしても、だ。
土曜日、ムーニーバレー競馬場のG1・コックスプレートでは、クリス・ウォーラー調教師が管理するアエリアナに騎乗する。ボウマンにとって、豪州G1・通算100勝目が懸かる大一番だ。
今、ボウマンはキャリアの“やり残しリスト”をスラロームのように縫って進んでいる。すなわち、ジ・エベレストとメルボルンカップだ。ハンデ戦の後者は、斤量制限のために彼にとって常に難儀なレースである。
「どちらか一方を最上位に置くつもりはありません」とボウマンは語る。「ジ・エベレストは最上位に並ぶ存在ですし、G1・コックスプレート5勝目を挙げられたら、それもまた特別です」
「アスリートとして、大舞台で戦いたい。そのためには多くの歯車が噛み合わなければなりません。私はいま香港に集中していて、そうあるべきですし、その機会に深く感謝しています」
「それでも、メルボルンカップは子供の頃からの夢です。いまの人生とキャリアの段階では、若い頃ほどの大きな意味はないかもしれません」
「それでも、そうしたレースで味わう勝利の感覚は……言葉にできません。あまりに望む気持ちが強くて、むしろ夢見ることを恐れてしまうほどです」
ボウマンが夢を見る時間は、もう少し続くだろう。
身体が衰え始め、心が空回りし始めてもおかしくない年齢のはずだが、彼にそんな兆しはない。『引退』という言葉は、もう少し待とう。
パートン、そして少し間があってボウマン。悪くない順番だ。
「それよりも、やめたら自分は何をするのか、というほうが問題ですね」
サウナを出て、延々とゴルフでも、という問いかけに、「何もしないわけにはいきません」とボウマンは言う。
「プロの騎手であり続けることは、特にトップレベルでは、肉体的にも精神的にも非常に過酷です」
「モチベーションが高く、体重管理がうまくいっているときは、スムーズですが、モチベーションが欠けたり、無理に体を絞りすぎたりすると、集中が途切れ、ミスが増える。そうしたことは自覚しています」
「良い馬ほど、モチベーションを上げてくれるものはありません」
たとえ、それが去り際に頭突きを食らわせる馬であっても。血と汗と涙の価値を最後に確かめさせてくれるのが、名馬の証だ。