シャティン競馬場の慌ただしい、追い切りの朝。それは、ジョセフ・オブライエン調教師の隣を歩く若い騎手へと向けられた、じっと見つめる視線から始まった。ひと呼吸置いて、出馬表に目を落とし、そして質問が飛んだ。
「えっと、発音はどんな風が正解ですか?ブラウニー・ドングル?」
中国語を話すその地元競馬記者の発音は不正解だったが、その心意気は正解だった。そしてそれは、ディラン・ブラウン・マクモナグル騎手の香港到着が、すでに話題と関心を呼んでいることの証拠でもあった。
この地では見慣れない新顔、世界のこの地域ではまだ馴染みの薄い人物だが、誰もが「これからもっと耳にすることになる」と感じ取れる存在が、このマクモナグル騎手だ。
1月1日から3月29日までの間、マクモナグルは香港に拠点を置く。香港国際競走の前に到着すると、新しい環境の全てを吸収しようと早速動き出した。まずはインターナショナルジョッキーズチャンピオンシップで、盛り上がりを見せるハッピーバレーを目撃すること。次に、香港国際競走でアルリファーとガレンに騎乗する準備として、シャティン競馬場での追い切りを見学することだ。
マクモナグルはIdol Horseの取材に「間違いなく楽しみにしています」と話し、香港遠征への抱負を語った。
「大変な挑戦になると思います。香港には良い騎手がたくさんいて、狭い世界で、競争もとても激しい。間違いなく学びの連続になります」
ネイビーのチノパンに青いシャツ姿で現れたマクモナグルは、香港ヴァーズで騎乗するアルリファーの追い切りを見届けた後、集まっていた海外メディアと地元メディアの取材に颯爽と対応し、どの記者にも同じように落ち着いた口調で、そして自信に満ちた受け答えを返していった。
パスポートを見れば、彼が確かに2003年生まれだと分かる。だが、その落ち着きと自信に満ちた佇まいは、22歳という年齢以上の大人びた雰囲気を感じさせた。
アイルランドのドニゴール州で育ったマクモナグルにとって、馬が人生の一部になるのは必然だった。そして物心ついた頃から、彼は馬上にいた。
「最初からずっと、騎手になりたいと思っていました」とマクモナグルは自身の幼少期を語る。「馬のそばで育って、それが自分にとって当たり前の世界だったんです。若いうちに一度でもその魅力に取りつかれたら、そこから抜け出すのは難しい。一度も抜け出したいと思ったことはありませんよ」
幼い頃はポニー競馬が基礎を学び、そこで218勝を挙げた。2015年、12歳のときにマクモナグルはディングルダービーを制覇した。これはアイルランドのポニー競馬の中でも最高峰レースのひとつだ。その後、伝説的な障害騎手、サー・アンソニー・マッコイ氏から、英国競馬学校で学ぶように招待を受けた。
イギリスの障害競馬で20回のリーディングジョッキーに輝いたマッコイは、マクモナグルのディングルダービー制覇を追った短編ドキュメンタリー作品『Five Stone of Lead』を観ていたという。
マクモナグルはにこやかな笑みを浮かべながら、「ディングルダービーから数か月後、クリスマスに手紙で招待状が届いたんです。素晴らしいプレゼントだったと言っていいですよね」と当時を振り返る。
「向こうへ行って(マッコイに)会いました。百戦錬磨のジョッキーから、貴重な時間を貰って指導を受けられたのは良かったです。自分にとっては大きな憧れの存在なので、そのような貴重な機会をいただけたのは本当に幸運でした」
幼少期、夏はポニー競馬に集中していたマクモナグルだが、もうひとつの愛するものも常に身近にあった。冬のオフシーズンには、ボクシングジムで腕を磨いていたのだ。
「8歳か9歳の頃から、冬はボクシング、夏はポニー競馬の二刀流としてやっていました」
しかし、マクモナグルは遊びでボクシングをやっていたわけではない。16歳までに複数の地域タイトルを獲得し、その後、アイルランド国内のボクシング選手権で全国タイトルも手にした。その成功は、別の道へ誘惑するどころか、騎手一本に絞る決心がつく節目となった。
「16歳でタイトルを獲った時、ボクシングはやめて競馬一本で行く時だと思いました」とマクモナグルは明かす。「今でも少しはやりますが、両立っていうのは本当に難しい。機会があれば、やっぱりすごく楽しいんですけどね」
同年、マクモナグルはオウニングヒル調教場に厩舎を構える、ジョセフ・オブライエン調教師のもとに弟子入りした。
元チャンピオンジョッキーでもあるオブライエン師は、マクモナグルが厩舎の門を叩く前から、その素質を把握していたという。
オブライエン師は「若い頃から、彼が天性の馬乗りだというのは明らかでした。うちの厩舎に来てくれたのは本当に幸運です」と語った。「自信があって、力強い。そして何より、勝つために乗る。それがすべてです」
「彼は非常に野心的で、その仕事ぶりも並外れています。舞台裏や朝の時間に積み重ねるものがあるからこそ、競馬場で報われるチャンスを得られる。そして彼は、与えられたあらゆる機会を最大限に生かします」


オブライエン師の師弟関係で得たチャンスは、2021年と2022年の見習い騎手リーディング獲得につながり、さらに2022年9月、カラ競馬場で行われたナショナルステークスでの初G1制覇(騎乗馬はアルリファー)にも結実した。
2023年に減量特典付きの見習い騎手を卒業して以降、マクモナグルはさらにG1タイトルを5つ積み重ねた。そして2025年末、シーズン95勝を挙げてアイルランドのリーディングジョッキーとなり、長年の夢も叶えた。
マクモナグルは「夢のようです」と喜びを語る。「今年は素晴らしい一年でした。いくつかのG1勝利もありました。やっぱりG1制覇は大事なことですし、最後にはエシカルダイヤモンドでブリーダーズカップも勝てました」
しかし、騎手として飛躍を遂げた一年を送ったのにも関わらず、マクモナグルの言葉や口調からは、「上り詰めた」という空気はまったく感じられない。マクモナグルは「これから先は、とにかく一生懸命やって、舞い上がらず、できるだけ多く勝つことです」と決意を語る。
「毎日少しずつでも良くなれるなら、それが自分にできるすべてです。一歩ずつ進んでいくだけです」
その“一歩”として、すでにバリードイル調教場での仕事も始めている。彼は隔週の日曜日、ジョセフ師の父、エイダン・オブライエン調教師の厩舎で調教を手伝い、さらにオーストラリアでの騎乗経験も積んだ。現地の名伯楽、キアロン・マー調教師から「一流の素質」と高く評価されるほどだ。
その表現は、まさにぴったりだ。マクモナグルは体が強く、精神的にもタフで、新しい環境でも動じないように見える。だが、次に待つのは香港競馬だ。世界の競馬の中でも、最もレベルが高い国のひとつである。
ここがどれほど競争の激しい場所かを、マクモナグルはそれを理解している。なぜなら、香港で騎乗するための短期免許申請が、一度は却下されているからだ。
「去年、香港で乗るために短期免許を申請しましたが、乗ること自体が難しい場所です。今回は3ヶ月間の招待をいただけて、運が良かったです」
厳しさを甘く見てはいない。最低騎乗重量がおよそ122ポンド(約55.3キロ)のマクモナグルは、チャンピオンジョッキーのザック・パートン騎手や、長年第一線で活躍してきたもう一人の豪州のスター、ヒュー・ボウマン騎手と、高ハンデの騎乗馬を巡って直接競うことになる。
そして、初めて香港に来た有名ジョッキーたちが力を発揮できずに終わった例が多いことも、彼は痛いほど分かっている。
マクモナグルは「大変な挑戦になりますが、若くてキャリアのスタート地点にいるなら、まさにこういう環境に身を置きたいんです」と語る。「最高の相手と戦いたいです。彼らと同じくらい競争心を持たないといけないし、同じくらい上手くならないといけないです」
その“予行演習”となった日曜日のシャティン競馬場では、香港ヴァーズのアルリファー、そして香港カップのガレンはいずれも4着だった。
それは、シャティンの観衆がマクモナグルという名前、あるいは広東語表記の『麥文堅』(発音はマク・ムン・キン)という、その名を耳にした最初の機会でもあった。だが、その読み方はやがて広まり、その名は香港の2つの競馬場の場内アナウンスから聞き慣れたものになるだろう。
確かに、マクモナグルの名を正しく言うには少し時間がかかるかもしれない。だが、覚えるのには時間はかからない。