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何年もの間、長髪のマレットヘアをなびかせる“大金持ちのマグロ漁師”は、この日が来ることを分かっていた。

馬主のトニー・サンティック氏は普段、感情をあまり表に出すタイプではない。例外は、メルボルンカップくらいだろう。

前人未到の偉業を成し遂げ、そしておそらく二度と起きないであろう瞬間の後、特別な愛馬の勝負服の色でデザインしたフェイスマスクをつけ、フレミントン競馬場のパドックを踊るように歩いていた。

だが、この晩秋のある日、彼は同じ馬を抱えながら、涙をこらえようとしていた。

トラウマや身体的な不調を抱える子供たちが、サンティック氏の愛馬、マカイビーディーヴァを撫でていた。

深刻な交通事故の後、不安障害を抱える子供がいた。乗っていたバスが横転し、腕を失った子どももいた。他にも、子供が抱えるには大きすぎる不安と戦っている子供たちがいた。

子供達は立ち止まり、マカイビーディーヴァを見つめ、撫でる。ほんのひととき、その苦しみはフレミントンの直線の長さほど遠くに感じられた。

「毎回、感情が込み上げてきます。すべてが終わりに向かっていると分かっているからです」とサンティックは昨年、テレビ局・チャンネル7のインタビューに語った。

「少し悲しい。特別な瞬間です、本当に」

一風変わった話に聞こえるかもしれないが、マカイビーディーヴァをKIDS Foundationのアンバサダーにしたことは、サンティック氏の最良の決断のひとつだったのかもしれない。

マカイビーディーヴァがメルボルンカップの女王に君臨していた当時、この子供たちはまだ生まれてもいなかった。そんな子供たちにセラピーを提供する、オーストラリアの文化的現象となっていた。

彼女のトレーナーだったリー・フリードマン調教師は、2005年にメルボルンカップ3連覇を果たした直後、祝福の嵐が吹き荒れる最中で完璧な一言を残した。

「ここにいる一番小さな子供を探してあげてください。なぜなら、その子が、こんな光景をもう一度見られる唯一の人になるかもしれないからです。私たちの誰も、二度と見られないでしょう」

たしかに、フリードマン師の言うとおりだった。

それから20年、メルボルンカップを連覇した馬すら現れていない。まして3連覇など以ての外だ。そして、10万6000人がフレミントンに押し寄せ、彼女が歴史を作るのを見届けた“マカイビーディーヴァの時代”ほどの熱狂を、競馬界は味わえていない。

土曜日、サンティック氏の恐れていたことが現実になった。マカイビーディーヴァが疝痛との闘いの末、命を落としたのだ。27歳だった。

その後、オーストラリア競馬にはブラックキャビアやウィンクスが現れた。だが、彼女たちでさえ、マカイビーディーヴァが成し遂げたこと、すなわち、オーストラリアで最も歴史があり、最も人気のあるレースであるメルボルンカップを通じて、国民的な人気を集めるという偉業はできなかった。

メルボルンカップ3連覇の直後、サンティック氏はその場でマカイビーディーヴァの引退を決断した。

ブラックキャビアやウィンクスと違い、マカイビーディーヴァは勝ったレースより負けたレースの方が多い。オーストラリアでは、調教師が本番の前に適性外の短距離戦を使うことを好むため、ステイヤーというのはそういう宿命を背負いがちだ。

それでも、最大の大舞台では、マカイビーディーヴァは必ず応えた。

Makybe Diva won three Melbourne Cups in a row
MAKYBE DIVA, GLEN BOSS / G1 Melbourne Cup // Flemington /// 2005 //// Photo by Dynamic Syndications

そもそもサンティック氏は、マカイビーディーヴァを自身の勝負服で走らせるつもりではなかった。

トゥゲラという繁殖牝馬の仔であるその牝馬を、イギリスのタタソールズセールで売るつもりだったのだ。最低落札価格は2万ギニー。だが、その額を出す買い手は誰も現れなかった。サンティック氏はトゥゲラの仔をオーストラリアへ空輸し、競走馬として走らせることにした。

サンティックはクロアチア移民の息子で、荒れた海を乗り越えて巨万の富を築いた忠義の男だった。煙草を愛し、そして人を愛した。彼はこの牝馬に、5人の従業員、モーリーン、カイリー、ベリンダ、ダイアン、ヴァネッサの名の最初の2文字ずつを取って名付けた。

ヴィクトリア州の山岳地帯の縁が、オーストラリア競馬史上最大級のシンデレラストーリーの誕生地になるとは思えない。だが、そうなった。

メルボルンの北東にある小さな町、ベナラ。2002年の冬、雨の影響を受けた重い馬場で行われたレースで、ファビアン・アレッシ騎手は、マカイビーディーヴァの54kgの斤量よりも0.5kg重い斤量での騎乗を申し出た。

彼女は直線で鋭く伸び、4着に入った。在厩期間の終わりまでに、マカイビーディーヴァは6連勝を飾り、メルボルンカップ・カーニバル開催のG2・クイーンエリザベスステークスも制覇。翌年の大一番への前触れとなる勝利だった。

それは確かな手がかりでもあった。最初のトレーナー、デヴィッド・ホール調教師は2003年のメルボルンカップに狙いを定め、ターンブルステークスとコーフィールドカップを使っていずれも僅差の4着に入った。

11月の最初の火曜日、メルボルンカップではグレン・ボス騎手が2度目の騎乗を任された。

ボスはショーマンで、昔気質のエンターテイナーだった。胸に秘めたままにするような思考とは無縁の男だ。彼の物語がマカイビーディーヴァと絡み合ったのは奇跡と言っていい。

なぜなら、そのわずか数年前、彼はマカオでの騎乗中に凄惨な落馬事故に遭い、残りの人生を車椅子で過ごすところまで数ミリという瀬戸際にいたからだ。

地面に叩きつけられた瞬間、ボスは自分の首が折れたと分かった。病院へ運ばれ、医師は「骨折はない」と告げたが、その医師はむしろギャングの抗争で血まみれになった患者の流入に気を取られているようだった。

もし立ち上がろうとすれば、ボスは二度と立てなかったかもしれない。彼は一切動かないことを選んだ。

後に、より見識のある診断が、彼の直感どおり首の骨折を確認した。彼を救ったのは直感だけだった。

騎手の直感は概して正しい。そしてマカイビーディーヴァのメルボルンカップ3連覇において、ボスは手綱にほとんど指紋すら残さなかった。柔らかく、外科手術のように精密で、計算され尽くし、冷静で、そのすべてが国の重圧的な期待の中で行われた。

2005年の勝利へ向けては、オーストラリア最大のハンデ戦でマカイビーディーヴァに課された斤量58kgが大きな話題になった。牝馬がこれほど重い斤量を背負って勝った例はなかった。

ホール師が香港へ移籍した後、リー・フリードマン調教師が後の2連覇に向けて彼女を管理した。歴史的偉業への関心と熱狂は凄まじく、2005年のメルボルンカップに向けた調整を追うために、テレビのニュース番組はヘリコプターで記者とカメラを送り込み、調教の様子を撮影させていた。

最後のビーチ調教の日には、マカイビーディーヴァがやってくると見込まれたモーニントン半島の海岸に、取材陣が殺到。フリードマンは、詮索の目から馬を守るため、別の場所へ行って泳がせた。

ボスは、その日、彼女がパドックに入ってきた瞬間に「負けない」と分かった。実況担当のグレッグ・マイルズ氏の有名なフレーズ、「チャンピオンがレジェンドになる」を背に、マカイビーディーヴァはメルボルンカップ3連覇を成し遂げた。勝ち差は最初の連覇とまったく同じ、1馬身と1/4差だった。

その日以降、マカイビーディーヴァはもはやサンティック氏の馬ではなかった。フリードマン師の馬でも、ボスの馬でもない。

彼女はオーストラリアの馬だった。文化的現象であり、彼女の走りを見たことすらない子供たちすらも癒していた。

そしていつか、その子供たちが自分の子供に語ることになるだろう。マカイビーディーヴァとひとときを過ごしたのはどんな感覚だったのかを。史上最高のメルボルンカップ馬、マカイビーディーヴァとともに生きた瞬間を。

アダム・ペンギリー、ジャーナリスト。競馬を始めとする様々なスポーツで10年以上、速報ニュース、特集記事、コラム、分析、論説を執筆した実績を持つ。シドニー・モーニング・ヘラルドやイラワラ・マーキュリーなどの報道機関で勤務したほか、Sky RacingやSky Sports Radioのオンエアプレゼンターとしても活躍している。

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