田中博康師が調教師として過ごした9シーズンの内容は、JRAのジョッキーとして騎乗していた12シーズンをすでに上回っている。
だからといって、騎手時代に成し遂げたものが少ないわけでは無い。輝かしい実績には、G1・エリザベス女王杯の勝利があり、それは多くの騎手にとって簡単には手の届かない勲章だ。一方で、将来を嘱望されながら、最後まで大きく花開き切れなかった騎手でもあった。
32歳で、田中博康は“騎手”としての進路を切り替えた。乗馬ブーツも、ボディプロテクターも、調整ルームでの日々も、騎乗依頼を求めて動き回るプレッシャーも手放した。
代わりに手に入れたのは、調教師としての段取りと、遠征や日々の運営を回す力、人を束ねる力、馬を管理する力だ。馬主を見つけ、期待に応え、馬を健康に保ち、結果につなげる。別の重圧が日常になった。
田中師は騎手として決して悪くはなかった。だが調教師としては、さらに確かな手腕を示している。美浦トレーニングセンターで割り当てられた22馬房を回しながら、在厩・放牧を含めておよそ100頭規模を動かしている。
騎手としての勝利数は129勝、最多は2年目の44勝。調教師としては232勝で、最多は2年前の46勝。ジョッキー時代には手が届かなかった安定感と質を伴っている。
騎手としての経験を土台に、田中は調教師として国内外へと活躍の場を広げている。2026年が動き出すなか、田中厩舎には、その歩みをさらに押し上げるかもしれない2頭がいる。国内外でG1を狙える存在へ、その道筋を現実にし得る存在だ。
アロヒアリイが2度目の海外遠征に臨む。昨年8月、フランス・ドーヴィル競馬場のG2・ギヨームドルナノ賞を勝利。その後、“10月最初の日曜日”には凱旋門賞での力強い走りが期待されたが、それは叶わなかった。
サトノボヤージュは3連勝中。サウジダービーを勝てば、フォーエバーヤングにならい、大成への道を切り開く一戦になる。
2月中旬、2頭はサウジアラビア・リヤドのキングアブドゥルアジーズ競馬場にいる。10月、11月にこの2頭がどこにいるかは、まだ誰にも分からない。だが田中師には、行きたい場所のイメージがある。
「凱旋門賞を勝つのが、私たちの夢です」
田中博康調教師は、リヤドの計量室とメディアセンターの外、午前中から照りつける強い日差しの中で、Idol Horseの取材に力強く語った。

リヤドは重要な歴史を持つ都市でありながら、いままさに拡大と、21世紀的な「台頭」の真っ只中にある。高層ビル群が増え、巨大広告が、桁違いの規模をうたう開発計画を並べ立てる。
かつて、ドバイが『世界最大』『世界最高』を掲げて拡大していた頃に似ている。膨れ上がるプロジェクトの中には、見事に結実するものもあれば、規模縮小に向かうものもあるだろう。経済の風向きが大きく変われば、そもそも実現しない計画も出てくるはずだ。
そんなリヤドは、田中師にとってもふさわしい舞台に見える。いまの彼は、キャリアの次の段階へ踏み出そうとしている。40歳にして、調教師としてすでに多くを証明してきた。
ゴドルフィンのレモンポップでG1・フェブラリーステークスとG1・チャンピオンズカップを制覇。ローシャムパークとレーベンスティールはG2勝利の勲章を手にし、気性に難しさを抱えるナルカミも昨年10月、Jpn1・ジャパンダートクラシック制覇に導いた。
さらにもう一頭の新星、ミッキーファイトは地方交流重賞で主役級の勝利を重ね、とりわけJBCクラシックで最高の栄誉を掴んだ。次はG1・ドバイワールドカップも視野に入ってくる。
だが、4歳馬のアロヒアリイ(6戦)と、3歳馬のサトノボヤージュ(4戦)には、未完成だからこその伸びしろがある。そこに、今後への期待が集まる。
アロヒアリイはG1・ネオムターフカップに出走し、同じ日本馬で昨年の勝ち馬シンエンペラーらと対戦する。水曜朝、同馬はダートで滑らかにキャンターをこなし、その後、芝の直線で軽くスピードを上げた。耳を前後に動かし、余裕を残したまま減速していく。そのストライドには自信がにじんでいた。
「とても自我が強い馬です」と田中師は言う。「誰の言うことも聞かない、というほどではありませんが、自分を強く持っているというのが彼のキャラクターだと思います」
昨年よりも今年は、さらに整ってきた。才能に加え、実戦に向かう姿勢も問われる一戦になる。昨秋の凱旋門賞は道悪で16着。先着は1頭のみ。噛み合わないまま終わり、まだ完成形には届いていなかった。
「この馬は、オーナーさんとの夢を背負ってきました」と田中師は振り返る。「ただ、フランスへの輸送がうまくいかなかった。そこから学び、今回はここまでの移動がとてもスムーズでした。前回のフランス遠征というのは、この馬にとっても良い教育になったと思います」
「3歳で入ったフランスでの経験から数か月が経って、昨年より良くなっていると感じています」

凱旋門賞がアロヒアリイの長期目標だとすれば、田中師はサトノボヤージュの行き先については、慎重な姿勢を崩さなかった。才能がある馬が、最後までその可能性を実らせられない例を、彼はよく知っている。
しかし、いまや基準となった存在がいる。これから先、日本の有望な若手ダート馬なら誰もが比較対象にされていくだろう存在、フォーエバーヤングだ。サウジダービーを勝ったあと、G2・UAEダービーも制し、そしてG1・ケンタッキーダービーで悔しさの残る3着に辿り着いた。
田中師は、この朝のサトノボヤージュについて「息遣いが良かった」と話し、このイントゥミスチーフ産駒の動きにも「満足している」と述べた。
「元々のプランは、日本に戻ることです」と田中師は、ドバイではなく国内路線を基本線に挙げる。
「まだ成長途上で、UAEダービーは距離も長くなります。レースごとに距離を少しずつ延ばし、教育しながら進めてきました。海外遠征についても、無理をさせたくありません。慎重に判断しないといけません」
一方で、ケンタッキーダービーという選択肢については、可能性を断言も否定もしなかった。
「精神面では、扱いが簡単なタイプではありません。でも、想像以上にこなしてくれているので、今後の選択肢は広がります」
「現時点でケンタッキーダービーについては確信を持てません。精神的にも肉体的にも、まだ完成していません。今回の遠征自体が難しくなる可能性もありました。でも、今のところは大丈夫です。とはいえ、ここからケンタッキーダービーへ行くとなると、馬に求めるものが大きすぎるかもしれません」
「ただ、今朝見た限り、環境への対応も含めてこなせている。国際舞台の別のレースへ向かう、そういう選択肢も見えてきます」
今回のサウジ遠征は、今後の判断材料になる。新たに台頭してきた厩舎の主役たちが、どの方向へ進むのかを左右し、田中博康厩舎の今季の流れにも影響する。
「もしも」は多くの場合、空虚に響く言葉だ。だが無数の「もしも」がある競馬の中でも、いくつかは必ず現実になる。もし、アロヒアリイとサトノボヤージュがG1の主役へと育つのなら、田中博康調教師もまた次の段階へ一歩進む。世界のG1を視野に入れる調教師として、その歩みはさらに加速していく。
