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まもなく90歳を迎えるアメリカ競馬界のレジェンド、ウェイン・ルーカス調教師の電撃引退というニュースは、世界中の競馬ファンに衝撃を与えた。ルーカス師の足跡に対する惜別と敬意が、アメリカ国内はもとより、世界中から寄せられている。

ルーカスは現在、ケンタッキー州ルイビルのホスピスで療養中。重度のブドウ球菌感染症を患い、既往症が悪化したことが理由だった。積極的治療は受けず、残された時間を家族とともに穏やかに過ごす決断を下したという。

これにより、ひとつの時代が静かに幕を閉じた。ルーカスは、単なる「アメリカン・ホースマン」の枠を超え、アメリカ競馬そのものを体現する存在だった。

本名はダレル・ウェイン・ルーカス。しかし多くの人々は名前のダレルとは呼ばず、愛称の『コーチ』で親しまれている。ウィスコンシン州で高校のバスケットボールコーチを務めていた経歴を持ち、その指導法は馬の調教にも色濃く反映された。それが愛称の由来だ。

そして、彼のもとからは、トッド・プレッチャー、キアラン・マクラフリン、ダラス・スチュワート、マイク・メーカー、ジョージ・ウィーバーといった名調教師たちが巣立った。

また、ルーカスは、世界でわずか6人しか達成していないG1・200勝の金字塔を打ち立てた一人でもある。通算222勝は歴代5位は、エイダン・オブライエン(425勝)、ボブ・バファート(272勝)、バート・カミングス(246勝)、T・J・スミス(246勝)に次ぐ数字だ。プレッチャー(202勝)やアンドレ・ファーブル(198勝)らとともに、その名を連ねている。

ブリーダーズカップでは、オブライエン調教師と並ぶ歴代最多タイの20勝を挙げている。1995年には、ケンタッキーダービーとベルモントステークスをサンダーガルチで、プリークネスステークスをティンバーカントリーで制し、異なる2頭で同一年のアメリカ三冠レースをすべて制覇するという快挙を成し遂げた。

調教師としての初G1勝利は1980年のコーデックスで制したサンタアニタダービー。そして、昨年9月のシーズザグレイでのペンシルベニアダービーが最後のG1勝利となった。

さらに、1986年のレディーズシークレット、1990年のクリミナルタイプ、1999年のカリズマティックと、3頭のアメリカ年度代表馬を育て上げた。また、サラブレッド部門とクォーターホース部門の両方で全米殿堂入りを果たした史上初の人物でもある。

しかし、数字以上にルーカスが残したものは、その“背中”にある。ケンタッキーダービーやブリーダーズカップの週、馬上から調教を見守るルーカスの姿は、変わりゆく競馬界における不変の象徴であり続けた。

ルーカスの代名詞ともいえるカウボーイハット姿は、アメリカ西部開拓時代を彷彿とさせる。まさに『競馬界のジョン・ウェイン』だ。その存在感は、オーストラリア競馬のバート・カミングス、イギリス競馬のサー・ヘンリー・セシルが果たした役割と肩を並べる。文字通り、米国競馬界を象徴する存在だった。

D Wayne Lukas and Charismatic at Pimlico
D WAYNE LUKAS, CHARISMATIC / Pimlico // 1999 /// Photo by Doug Pensinger/ALLSPORT
Horse trainer D Wayne Lukas
D WAYNE LUKAS / Saratoga // 2024 /// Photo by Al Bello

電撃引退の決断を受け、チャーチルダウンズの厩舎にいるルーカスの管理馬は、“バス” ことセバスチャン ・ニコル調教師の下に引き継がれた。ニコル師はルーカス厩舎のアシスタントトレーナーを長年務めた人物だ。

一見すると、中西部なまりが特徴のルーカスと、元英国陸軍大尉で湾岸戦争の『砂漠の嵐作戦』では戦車部隊の指揮官を務めたニコルとでは、全く異なるタイプに映るかもしれない。だが、ルーカスの門下生たちはかつて、彼の厩舎運営を「軍隊式のブートキャンプ」と表現していた。ならば、軍歴を誇るニコルこそ、ルーカスの伝統を受け継ぐにふさわしい人物なのかもしれない。

「ウェインが築いた遺産は、誰にも真似できません」とニコルは語る。

「私の全ての判断、装鞍する全ての馬、その瞬間ごとに、必ず彼の声が脳裏に響くでしょう。これは私が彼の代わりになる話ではありません。そんなことは誰にもできません。私は、彼が築いてきたすべてを敬意をもって受け継いでいくつもりです」

ルーカスが遺したものは、数字では語れない “誇り” と “哲学” だ。アメリカ競馬界はもちろん、世界の競馬ファンがこの先、その遺産に敬意を表していくことになるだろう。

Idol Horse reporter Andrew Hawkins

Hawk Eye View、Idol Horseの国際担当記者、アンドリュー・ホーキンスが世界の競馬を紹介する週刊コラム。Hawk Eye Viewは毎週金曜日、香港のザ・スタンダード紙で連載中。

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