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現地時間の午後2時7分、運命の舞台へ向けて、1頭の香港馬が馬運車からロイヤルランドウィック競馬場に降り立った。無数のテレビカメラとスマートフォンが、録画ボタンに指をかけて待ち受けていた。

誰かがカメラを構えていなければ、到着には誰も気付かないだろう。ライト、カメラ、この一瞬すら金が動く。

馬がスロープを下りて地面に降り立つと、地元オーストラリアのメディアと大挙した香港の報道陣が一瞬一瞬を切り取った。だが、わずか30秒後、誰もが誤認に気づいた。

「それ、カーインライジングではありませんよ」

オーストラリアンターフクラブの関係者が、気まずそうにクルーへ耳打ちした。

彼らが撮っていたのは、香港から来たスーパースターの帯同馬、カーインチアだった。シドニー遠征では責任重大な役目だが、知る人ぞ知る存在だ。『主役のレッドカーペット到着』と誤解された、この瞬間を除けば。

ロイヤルランドウィックで発走前に馬が待機する装鞍所では、カーインチアの名は電光掲示板にすら出ていなかった。あったのは『117』の数字だけ。カーインライジングには『118』が割り当てられ、馬房上の電光掲示板にその名が明るく輝いていたが、一般公開エリアの外で待ち受けた何百人ものファンが生で見られた時間は束の間だった。

誤認に気づいたメディアは、カーインライジングがようやく姿を現すや一斉に撮影に動いた。それから数時間、同馬は、総賞金2,000万豪ドル(約20億円)のジ・エベレストを悠然と制すまで、人波から離れた場所で準備を進めることになった。

KA YING RISING / G1 The Everest // Randwick Racecourse /// 2025 //// Photo by Grant Courtney
KA YING RISING / G1 The Everest // Randwick Racecourse /// 2025 //// Photo by Grant Courtney

スポーツの本質は、王者が慣れたホームの環境から外へ出て、アウェイに挑むことにある。

もし、デヴィッド・ヘイズ調教師と香港ジョッキークラブ(HKJC)がカーインライジングを世界最高賞金の芝レースへ遠征させず、別の地元馬がジ・エベレストが制していたとしても、いまのジ・エベレストの姿を思えば、それでも偉大なイベントだっただろう。

連勝記録を13に伸ばし、ヘイズ師が “ブラックキャビアのような逸材” と称えたカーインライジングの評価が下がることもなかったはずだ。

だが、今回は違った。王者ははるかな異国で挑戦を受けていた。人々の話題は彼を中心に築かれ、人々がジ・エベレストに注目したのは彼がいたからこそだ。リスクは大きく、見返りはそれ以上だったのかもしれない。

これは香港の英雄の勝利にとどまらない。陣営が遠征に出る勇気を持てば、世界の競馬はどこまで広がり得るのか、その可能性は確かに垣間見えた。

香港とオーストラリアの馬券文化の衝突は実に興味深かった。アジア競馬の首都・香港では、街角の予想談義はいつも『鉄板』、つまり『贏硬(yeng ngaang)』へと行き着く。

勝つと信じれば、単勝1.2倍の人気馬にも資金を積み上げる。自国の馬に対してはひときわ愛国的だ。

一方のオーストラリアは違う。豪州の馬券ファンは、ロイヤルランドウィックの直線を端から端まで歩き、人気馬が負ける理由を探す。判官びいきが文化に根づき、出る杭は打たれる風土が不健全に作用する。

彼らはカーインライジングに逆らい、最初から地元馬に賭けた。

その結果、オーストラリアで主流の固定式オッズと、世界の馬券市場を再活性化しようとするHKJCのWorld Pool(ワールドプール)との間には、かつてない倍率の開きが生じた。

カーインライジングの単勝オッズは豪州のブックメーカーで2倍だった一方、World Poolは香港からの買いが集中して1.5倍に。World Poolが馬券的な妙味をファンに浸透させるにはなお道半ばだが、ジ・エベレストは8,300万香港ドル(約16億円)超を売り上げ、単一レースの記録を塗り替えた。

香港ジョッキークラブのウインフリート・エンゲルブレヒト=ブレスゲスCEOとレーシングNSWのピーター・ヴランディス氏が共有するビジョンには確かな鼓動があり、遠征馬が作り出す興趣を裏づけていた。

「彼はまさにグローバルなチャンピオンですし、観衆が『グローバルなチャンピオンを見ている』と認めてあのように迎えてくれた、この光景は素晴らしかったです。これこそ私たちが世界の競馬、そしてWorld Poolで実現したい姿です」とエンゲルブレヒト=ブレスゲス氏は語る。

「ワールドレベルのレースを提供できれば、競馬は真のグローバルスポーツになり得ると示した一日でした。そのためには、チャレンジを続ける馬主が必要です。オーナー(梁錫光氏)に心から祝意を表します」

ジ・エベレストの40分前、エンゲルブレヒト=ブレスゲス氏はランドウィック競馬場の広大なパドックで、ほとんど一人、カウントダウンを待って立っていた。彼はまるで “最初にパーティー会場に着いた男” のようであり、誰もその場を台無しにしないよう祈っているかのようだった。

WINFRIED ENGELBRECHT-BRESGES (R) / G1 The Everest // Randwick Racecourse /// 2025 //// Photo by Idol Horse
WINFRIED ENGELBRECHT-BRESGES / G1 The Everest // Randwick Racecourse /// 2025 //// Photo by Grant Courtney

エンゲルブレヒト=ブレスゲス氏のシドニー滞在は計16時間。一方、ヘイズとザック・パートン騎手にとって、この16日間は永遠にも感じられた。特に、カーインライジングのバリアトライアルが、シャティンという聖域の外での初陣を勝てるのかどうか、賛否両論を呼んだときは。

実際はどうだったのか。彼は試走の朝、すでにジ・エベレストを手中にしていた。引き手に反発し、パドック周回では汗だく。柔らかい馬場で足元をとられかけたが、そうしたことはレース当日は二度と起きないとヘイズは分かっていた。

カーインライジングの待遇はウィンクス級、これは最大級のおもてなしだ。ロイヤルランドウィックには、群衆から隔てる必要がある馬のために、一般馬房の奥に非公開の専用馬房が用意されている。ヘイズはその配慮を最大限に使った。

「トライアルでの試走から、何をしてはいけないのかを学ぶことができました」とヘイズはIdol Horseに語った。「観客を見せようとしたら、かえって火がついてしまった。今日は落ち着かせることができ、非常に良い状態でした」

「事前に『興奮したら専用馬房へ戻す。落ち着いたら外へ出す』というルールを決め、計6回ほど出し入れしました。その後は静かな一角で待機させました」

では、ヘイズは本当にあの試走を心配していたのか。

「いいえ、心配はしていませんでした。ただ、ザックは少し心配していました。私はずっと、彼がジョリースターに6馬身、もう1頭(エンジェルキャピタル)に9馬身差をつけたのを見ていました。馬はやや興奮気味だったにもかかわらずです。ですから落ち着かせられれば、と」

実際、落ち着かせることに成功した。そもそも、あの試走は悪くなかったのかもしれない。1位入線のラインバッカーはジ・エベレスト直後のG3・シルバーイーグルを圧勝し、ライバル視されたオーバーパスもジ・エベレストで4着に踏ん張った。

今年のジ・エベレストは稀に見る激戦としても記憶されるだろう。1着馬のカーインライジングから最下位のマジックタイムまで、着差は4馬身に満たなかったからだ。

KA YING RISING FAN / G1 The Everest // Randwick Racecourse /// 2025 //// Photo by Jeremy Ng (Getty)
NICOLE PURTON, PRUE HAYES, DAVID HAYES (obscured), ZAC PURTON / G1 The Everest // Randwick Racecourse /// 2025 //// Photo by Grant Courtney

だが、これは同時に『パートンのエベレスト』として刻まれる。

検量に戻るパートンを、妻のニコールさんは涙で出迎えた。それほど家族にとって大きな意味があった。香港で競馬十年以上にわたり超人的な成績を積み上げてきたにもかかわらず、豪州のファンにとって彼は、この一戦をカーインライジングで勝ったか負けたかで記憶されかねない。

不公平だが、おそらく真実だ。

この勝利が輝かしいキャリアでどの位置づけかと問われ、パートンはこう答えた。

「一つの瞬間としては、いちばん大きな出来事だと思います。今このレースが持つ地位、そしてそこに至るまでのすべてを考えれば。海外から来た馬の勝利ですから。プレッシャーは大きかったです。理解しています」

「今日はこの馬に、国全体の期待という重みがのしかかっていました」

表彰式後、彼はヘイズ夫妻に、帰りの深夜便がキャンセルになったと冗談を飛ばした。そうであれば、という願望も交えて。

ヘイズ師の妻、プルーさんは「プレッシャーは名誉です。でも、私たちがここで戦えているという事実を、決して見失いませんでした」と語る。

「夫の馬でこの場に来られて、ヘイズ家の息子たちも出走馬を送り出せたというのは、頬をつねって確かめたくなるような瞬間でした。ヘイズ親子がこのレースに馬を送り込めたのですから」

カーインライジングの陣営が勝利馬主の部屋からあふれ出て、50,167人の観衆の中へ溶け込む頃、2頭の馬もまた一年がかりのミッションを終え、馬運車へと戻っていった。カーインライジングと『117』のカーインチアは見事に勝利を収め、役目を勤め上げた。

香港に戻るときは、きっと誰も撮り違えないだろう。カーインチアは豪州に留まり、カーインライジングは英雄として凱旋する予定だ。

アダム・ペンギリー、ジャーナリスト。競馬を始めとする様々なスポーツで10年以上、速報ニュース、特集記事、コラム、分析、論説を執筆した実績を持つ。シドニー・モーニング・ヘラルドやイラワラ・マーキュリーなどの報道機関で勤務したほか、Sky RacingやSky Sports Radioのオンエアプレゼンターとしても活躍している。

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