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歴史的な一日の最終レース発走を前に、競馬場でもっとも働きづめだった男の一人が、ようやくジョッキールームの隅に腰を下ろした。

ジェームズ・マクドナルド騎手。彼が座る席、その背後のベンチには、騎乗道具や着替え、シドニーのタブロイド紙の出馬表、そして想定ペースを記した数枚の紙が置かれている。

結果から見れば、その見立ては見事に当たっていた。ゴーグルもいくつもある。マクドナルドは1開催で6個入りを1パック使い切ることもあるからだ。ほんの小さな傷や汚れでもあれば、すぐに新しいものに替える。

この日が少しだけ特別に見えるとすれば、隅に3つのトロフィーが無造作に置かれていることと、ワゴンの上にお祝いのチョコレートケーキが載っていることくらいだろう。

それも、全騎手がその日の最終計量を終えるまで、まだ手を付けられない。

マクドナルドの身体は、すでに限界近くまで酷使されていた。最後の乗り鞍だったモアテリトリーズには、規定より1キロ重い斤量で乗ることを裁決委員から認められていた。

ローズヒルの直線、人馬は大きく外へ流れ、フェンス際のファンにハイタッチでもしながらのウイニングランかと見まがうほどだった。重賞級の舞台では中堅どころの牝馬、2勝馬のモアテリトリーズはこのレースで11着に終わった。それはさておき、話を戻そう。

そのレース前のわずかな時間に、バレットとして同じく忙しく動き回っていたクリス・バレット氏は、ジェームズ・マクドナルドがなぜこれほど“乗れる”のかを、あらためて目の当たりにした。

「ちょうどディラン・ギボンズ騎手と二人で『ちょっと見てよ。G1を3つ勝ったばかりなのに、もう次のレースのことを考えている』と話したんですよ」と、長年マクドナルドを支えるバレット氏は明かす。

「本当にプロフェッショナルですよ。多くの騎手は、ひとつレースが終わるたびにリプレーを何度も何度も見返します。でも彼は違う。見ても1回くらいです。すぐに競馬新聞へ目を落として、次のレースの検討に入る。とにかく研究なんです」

土曜がマクドナルドの日になることは、深く考えるまでもなかった。ローズヒルの名物である黄金のアーチを潜って戻ってくる彼は、もはや史上最高の一人と呼んで差し支えない存在となった。

この日、豪州競馬史におけるG1最多勝記録、ダミアン・オリヴァー元騎手の129勝を抜くにはあと2勝が必要だった。

マクドナルドはそれを、シドニーを代表するゴールデンスリッパー開催で鮮やかにやってのけた。

まずはアエリアナに騎乗し、単勝オッズ1.6倍の支持に応えてランヴェットステークスを制すと、続いてオータムボーイでローズヒルギニーを制し、単勝オッズ2.45倍の期待に応える教科書通りの騎乗を見せた。

しかも、その後には豪州競馬の新たな女王、オータムグローが控えていた。単勝オッズ1.28倍の圧倒的人気を背負い、ジョージライダーステークスでライバルたちを寄せつけず、デビューから11戦全勝。ウィンクスでも、これ以上の競馬はできなかったかもしれない。これ以上ない賛辞だ。

オリヴァーもまた、ほんの数年前にシドニーでジョージ・ムーア元騎手の記録を抜いて新記録を打ち立てていた。ただ、その瞬間はあまりにもさりげなく、しかもクイーンオブザターフステークスを伏兵のニマリーで制した直後だったため、本当に記録を更新したのか、周囲も半信半疑なほどだった。

豪州競馬の記録管理は長く恥ずべき水準にとどまっており、オリヴァーはその曖昧さの中で記録にたどり着いた。もっとも本人も、ニュージーランド北部の酪農場で育った少年が、いずれ自分を追い抜いていくことは分かっていたのかもしれない。

だが、この日を誰もが待っていた。

「彼(ジェームズ・マクドナルド)より私の方がずっと気を揉んでいて、これ以上あの人に余計な重圧をかけないよう、毎日家を出ていたほどです」と話すのは、自身もG1制覇経験がある元騎手、妻のケイトリン・マクドナルド氏だ。

この日はテレビの競馬中継に解説として出演。番組内で夫の騎乗を分析したあと、Idol Horseの取材に足を止めた。

「でも彼にとっては、いつも通りの一日という感じでした。空気がいつも以上に張りつめているとか、特別な緊張が漂っているとか、そういうことはまったく感じませんでした」

James McDonald broke the Australian G1 wins record when winning the Rosehill Guineas on Autumn Boy
JAMES McDONALD, AUTUMN BOY / G1 Rosehill Guineas // Rosehill /// 2026 //// Jeremy Ng (Getty Images)

マクドナルドはその日、自分への言葉を紙に書きつけて一日を始めた。

見る。感じる。勝ち取っる。

かつてマクドナルドとコンビを組んだネイチャーストリップの共同馬主でもあった、オールブラックスの名将、スティーブ・ハンセン氏はレース当日の朝にこんなメッセージを送ってきた。歴史の扉の前までまっすぐ歩み寄り、両手でつかみ取れ、と。

「自分の中で思ったんです。彼がオールブラックスの15人の選手たちを前に、ニュージーランド最大のスポーツの現場で『その瞬間へ歩いていけ、受け止めろ』と言っている姿を想像したら、とても特別なものに感じました」とマクドナルドは話す。

「少し心を動かされました」

マクドナルドという人間を動かしているものを知るには、かなり遠くまでさかのぼらなければならない。

ジェームズは騎乗中、ケイトリンは仕事中だったため、この日は母のダイアンが大半の時間を子守に費やしていた。腕の中には孫のイーヴィーとミアがいた。

では、こんな日が来ると想像したことはあったのか。

「まったくありませんでした」と母のダイアンは振り返る。「でも、あの子が小さい頃からラグビーの才能があった時点で、もっと気づくべきだったのかもしれません。それでも、ここまで来るとは思っていませんでした」

「私はとしては、見習い特典の減量がなくなっても一人前のジョッキーとしてやっていければ、それで十分だと思っていたんです。それが私の大きな願いでした」

「あの子の何がそんなに特別なのか? 前にも言いましたが、プレッシャーに強いことです。それは明らかに私譲りではないですね。最後に差を生むのは頭の中です。自分ならできると信じてやれる、その自信があるんです」

同じ馬が二頭といないように、同じレースもまたひとつとしてない。その中で、マクドナルドが勝ったそれぞれのレースで見せた手綱さばきは、まるで手術台に立つ外科医のように精緻だった。

この日の最初の一勝が、もっとも見事だったかもしれない。34歳のマクドナルドは、5頭立てのランヴェットステークスで道中4番手からアエリアナをじっくり運び、直線で僚馬のリンダーマンを捕らえきった。

ナッシュ・ローウィラーが騎乗するリンダーマンは先頭でレースを引っ張り、彼の独特のゆったりした話しぶりそのままに、流れも極端に落とした。直線でアエリアナがじわじわと差を詰めると、最後にはほんのひと伸びのギアが入った。それがクビ差の決め手になった。

「見ましたか。残り200メートルでムチを左手に持ち替えているんですよ」と話すのは、先述のバレット氏だ。検量所でマクドナルドの道具を受け取るのを待ちながら、小声でささやいた。

その通りだった。手品師のように、マクドナルドはムチを左手に持ち替え、アエリアナの左側へ軽く入れた。すると、馬は一段速い脚で前との差を詰め始めた。アエリアナを所有するスターサラブレッドのデニス・マーティン氏は、隣にいた関係者にこう漏らした。

「いい騎手が乗ってくれて、本当に助かりました」

James McDonald takes a selfie with the crowd after claiming the G1 George Ryder aboard Autumn Glow at Rosehill
JAMES McDONALD / Rosehill // 2026 /// Photo by Jason McCawley (Getty Images)

オーストラリアターフクラブの場内MCが、マクドナルドの記録タイ達成を受けて観衆を盛り上げるなか、戻ってきた当の本人はどこか不思議そうな視線をそのMCに向けた。主催者側は事前に、祝福の演出をしてよいかどうかをマクドナルドのマネージャーに打診していた。

「できれば控えめにとのことでした」それが返ってきた答えだった。

だが35分後、オータムボーイで国内新記録を打ち立てた頃には、そのマクドナルドも同じMCに向かって親指を立てていた。1番人気のオブザーバーを差し切ったその騎乗は、待機策から鋭く抜け出す見事な内容だった。

さらにオータムグローのレースへ向けて再びパドックに姿を見せたとき、馬主のジョン・メッサーラ氏が「どう乗るつもりか」と尋ねた。だが、マクドナルドは肩をすくめるだけだった。これほどいい牝馬なら、走りながら判断すればいい。そんな考えだった。

もっともな話だ。今のオータムグローなら、鞍上が誰であっても勝てたかもしれない。それほどまでに抜けた存在になっていた。クリス・ウォーラー調教師もついに『チャンピオン』と評すほどだ。

マクドナルド自身も「ロマンチックウォリアーは僕の息子のような存在で、オータムグローは僕の娘のような存在です」と嬉しそうに話す。

そして、オータムグローがどれほど強かったとしても、この日の主役がマクドナルドであったことに揺るぎはない。ウォーラー師が言うところの『現代競馬における完成形の騎手』。どんな場面にも対応できる頭脳を備えた存在だ。

マクドナルドのマネージャー、マーク・ゲスト氏は「彼の天賦の才は言うまでもないです」と切り出し、「でも、本当にすごいのは、みんなが見ていない部分なんです」と説明する。

「彼は休みなくレースを見ています。1歳馬セールまで見ます。調教やトライアルの映像を一緒に見ていて、私がある馬の名前を出すと、彼はその馬の父が誰かまで、すぐ口にする。あれはもう規格外です。競馬が彼の人生のすべてを占めているんです」

「断言はできませんが、彼自身、そうやってあらゆることをやり、毎日休みなくレースを見続けることが、今の自分をつくっていると感じているはずです。離れて休みたいと思う騎手もいますが、彼がそうしたいと思うことはまずありません」

妻のケイトリンはこう語る。「あの人は本当に休みません。まったくです。休暇中でさえ、豪州でも香港でも、次の大物を探すことばかり考えています。頭が下がります。どうしておかしくならないのか不思議なくらいです」

ウォーラー師は少し前、1歳馬を視察するために馬産地のハンターバレーへ向かった際にも、騎乗停止中のマクドナルドを同行させていた。手持ち無沙汰にさせないためだった。

当時を振り返ったウォーラー師は「1歳馬に関しては、むしろ我々より詳しかったですよ」とは冗談めかして笑う。

「牝系の実績も、種牡馬の実績もきちんと把握している。しかも、あれだけのアスリートです。もしラグビーリーグの選手になっていたら、アルフィー・ランガーのような偉大な選手になっていたでしょう。まさに一流のスポーツマンです」

一流のスポーツマンは、いつだって次の山を探している。オーストラリアで頂点に立った今も、マクドナルドはさらに先を見ている。ライアン・ムーア騎手のG1勝利数はすでに200勝を超えている。マクドナルドはそこへ届くのか。

「今日は素晴らしい日ですが、彼はもっと大きなものを見ていますし、たぶんライアン・ムーアを追うことになるでしょう。まだ先は長いです」とケイトリンは言う。

「それが彼なんです。いつも気持ちを張りつめていて、どんなレースでも勝ちたいと思っています。G1か平場かなんて関係ありません。負けず嫌いで、強い意志で前へ進む人なんです」

アダム・ペンギリー、ジャーナリスト。競馬を始めとする様々なスポーツで10年以上、速報ニュース、特集記事、コラム、分析、論説を執筆した実績を持つ。シドニー・モーニング・ヘラルドやイラワラ・マーキュリーなどの報道機関で勤務したほか、Sky RacingやSky Sports Radioのオンエアプレゼンターとしても活躍している。

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