半世紀以上前、エリザベス女王は幾度となくオーストラリアの地を訪れていた。王室の旅程は、いま私たちが目にするものとは少し趣が違っていたと言えるだろう。
昨年、女王の後を継いだチャールズ国王は、オーストラリアと太平洋地域を電撃訪問された。癌と診断された直後で健康を最優先し、時差ボケが残る中でも、賞金総額2,000万豪ドルのジ・エベレスト当日にシドニーを訪れていたのだ。さらに、この日は国王の名を冠したG1競走・キングチャールズ3世ステークスも組まれていた。
主催者は、莫大な警備体制が伴うにもかかわらず、国王陛下をたとえ短時間でもロイヤルランドウィック競馬場にお招きすべく、ありとあらゆる手を尽くした。
しかし、チャールズ国王が競馬場のスタンド席に姿を見せることはなかった。
“夢”のトレセン
いまでは想像しがたいかもしれないが、1977年、エリザベス女王とフィリップ殿下の旅程には、異色の目的地があった。競走馬の調教施設、『リンジーパーク』である。
女王は、バロッサバレーの豊かなワイン産地、アデレード郊外の起伏に富む丘陵地帯に築かれた調教施設の評判を聞き、競馬愛好家らしく双眼鏡を携えて、コリン・ヘイズなる調教師のもとを訪ねた。噂の真相を確かめようと、自ら足を運ばれたのである。
遡ること数年前、ヘイズはその構想を抱いたこと自体「狂気の沙汰だ」と言われた。市街地や競馬場から離れた地に私設のトレーニングセンターを建て、しかもその財政的重荷を負おうとする者が、当時のオーストラリアにいるはずがない。常識はそう告げていた。
だが、競馬の本場・イギリス訪問に触発されたコリン・ヘイズは、その野望にすべてを賭けた。
大都市の建物や窮屈なコーナーから遠く離れ、自然と鳥に囲まれた環境で、高台の坂路や広々とした馬房を備えた場所の方が、馬をより良く仕上げられる。この計画はオーストラリア競馬の姿を変える、彼はそう信じていた。1965年、そしてその構想は現実になった。
誰もが賛同したわけではない。中でも一部の馬主は馬を厩舎から引き揚げ、より都市に近い場所での管理を求めた。馬券好きは戸惑い、ライバルの調教師たちは嘲笑した。
それでも、女王は強い関心を示した。オーストラリア首相のマルコム・フレーザー、ボブ・ホークも同様だった。国家の意思決定中枢で競馬がより広く受け入れられていた時代、彼らも南オーストラリア州アンガストンのこの施設を公式訪問している。
時は流れ、コリン・ヘイズの息子、デヴィッドは調教タワーの2階に腰を下ろし、シャティン競馬場で調教を見つめている。
中国本土を覆い隠す山並みを背景に朝日がのぞく、香港の美しい朝だ。前日に台風が通過したとは思えない。外ラチから数メートルのダートを、馬の蹄がやさしくたたく。デヴィッド・ヘイズ調教師の視線はコース全体をゆっくりと巡る。
「私は早起きなんです」とヘイズは語る。「ここで調教を見る、この雰囲気が好きなんです。こういうゆったりした朝は、馬がリラックスしているかを見ています。もし落ち着いていなければ、どうやって落ち着かせるかを考えます。動きに乱れがあれば、あれこれ試してみます」
もっとも、微調整をする必要はない。まるでアデレードの風光明媚な丘でのんびり暮らしてきたかのように、ヘイズ軍団は軽やかにコースを駆ける。オーストラリア競馬界の名門一族は、80年近くの歴史を刻み、いまやデヴィッドの4人の子ども全員がリンジーパークの名の下に働いている。
土曜日、ヘイズはおそらく調教師人生の大一番を迎える。香港のスーパースター、カーインライジングがジ・エベレストで一番人気で出走するのだ。ベージュとオフホワイトの中間色の着古したヘイズのスーツは、連勝が始まった日に着て以来、今も替えられていない。負けるその日まで、験担ぎとして着続けるという。連勝は伸びに伸び続け、土曜日には14連勝目に挑む。
カーインライジングは、デヴィッド・ヘイズがこれまで手掛けた中で最高傑作の馬なのだろうか。
この質問を投げかけたIdol Horseの取材に対し、ヘイズは「疑問の余地もないでしょう」と即答する。
「もう1年これを続ければ、経験豊富な競馬人の中にも、カーインライジングを “これまで見た中での最強馬” だと言い始める人が出てくるはずです」
「ブラックキャビアと比べるのは、3シーズンやってのけてからです。現時点での彼はブラックキャビアと同等のことをやっています。より上だとは言いませんが、同じです。このまま進めば、ブラックキャビアやウィンクスとも比較されるかもしれません」
「カーインライジングはとにかく圧倒的です」
ヘイズとリンジーパーク調教場が、いかにしてオーストラリアと香港を席巻し、ジャパンカップを含む世界中で幾百ものG1を制したか。それは、ひとりの男のビジョンと、勝利と飛行機事故の悲劇、家族、挫折、そして成功への純粋な意思の物語の証しである。

未来を見つめていた男
「未来は、計画を立てる者のためにある」—— コリン・ヘイズ。
現代では目新しくもない表現かもしれない、第二次世界大戦と大恐慌からさほど遠くない時代、人々の多くが “今日この一日” を生きていたその頃、コリン・ヘイズ調教師はすでに、未来をより良くするにはどうすればいいか、自らに問い続けていた。
彼の調教師キャリアの原点は、シュアフットという障害馬に払った9ポンドにまで遡る。1948年までに、ヘイズはこの馬を調教するだけでなく、アマチュア騎手として自らレースに騎乗。グレートイースタンスティープルチェイスでは3着に入った。
シュアフットが若き日のヘイズとその後の競馬人生にどれほど大きな意味を持ったのか。それは、アデレード郊外に設けた厩舎の看板を見れば、誰の目にも明らかだった。
『シュアフット・ロッジ』、彼の名は厩舎の名として歴史に刻まれている。
地道な拡大で管理馬を増やしたコリン・ヘイズは、1956年にはアデレードで初の調教師タイトルを獲得する。それでも、彼はさらに上を目指していた。海外渡航がはるかに不便だった時代に北半球へ飛び、英国で “本場のやり方” を見て学ぶことにした。
帰国後、アデレード盆地の外に広がる美しいアンガストンの地で、800ヘクタールの土地を購入する構想の種がまかれた。1965年には、その地が新たな本拠地となる。リンジーパーク調教場の誕生である。
コリン・ヘイズは競走馬を調教するだけでなく、リンジーパークで自ら馬産も行いたいと考えた。種牡馬を繋養し、英国の著名実業家であるロバート・サングスター氏や、ドバイの副首長を務めたハムダン殿下ら、裕福な海外馬主からも支持を得るようになった。
サングスター氏と手を組んでは、季節に応じて北半球と南半球を往復する “シャトル種牡馬” 事業を開拓し、オーストラリア競馬の新境地を拓いた。
「当時のリンジーパークは、いまのハンターバレーのような存在でした」と、長年の側近として知られているトニー・マカヴォイ氏は語る。
アデレードとメルボルンの両方で勝利を重ねるうち、20世紀後半のオーストラリア競馬は、バート・カミングス、TJ・スミス、そしてコリン・ヘイズという三人の調教師によって彩られていった。
カミングス師は、12度のメルボルンカップ制覇と数々のウィットに富んだ名言を残し、おそらく豪州でもっとも有名なホースマンとして名を馳せた。ある日、衛生検査官が厩舎を訪れて「ハエが多すぎる」と告げたとき、彼はためらいなく「何匹までなら飼っていいんですか」と切り返した話は有名だ。
レース序盤は控えめに運び、強烈な末脚を発揮させるため、あるいは “仕上げの大目標” に向けて温存するのがカミングス流だったのに対し、スミス師(のちに娘のゲイ・ウォーターハウス調教師も)は果敢に先手を奪い、勢いに任せた競馬を好むことで知られていた。
スミス師はシドニーで33年連続の調教師リーディング首位という驚異的な記録を打ち立て、甲高い声と屈託のない個性で馬主やメディアを翻弄する名人だった。
この三者は、何十年にも渡り、オーストラリア競馬の “三大巨頭” として君臨し続けていた。
「昔は、ヘイズ派か、カミングス派か、TJ派か、そのどれかでした」とデヴィッド・ヘイズは言う。
「父はバートとよくぶつかりました。どちらもアデレード出身で、小さな池の大魚が二匹、というわけです」
「そして、TJは父の友人でした。アデレードに来ると父の家に泊まっていました。レースでの負けず嫌いさは誰にも負けない人でした」
殿堂入り調教師のジョン・ホークスは、「バート・カミングス、トミー・スミス、コリン・ヘイズ、あの三人のような調教師は、二度と現れないでしょう。皆が時代の先を行き、それぞれが真のチャンピオントレーナーでした」と語っている。


誰の人生にも転機が訪れる。デヴィッド・ヘイズにとってそれは、オージールールズ(AFL)やクリケットの国際試合が行われるアデレード・オーバルの中央、冷たい雨の土曜午後に訪れた。
デヴィッドは屈強なキーフォワードとして、二部の試合でポートアデレードと対戦していた。彼の言葉によれば、その悲惨な日に父コリンが見に来たのは、おそらく競馬が中止になったからだったのだろう。
当時、プロ化の手前まで来ていたAFLへの道を描いていた20歳のヘイズは、試合で何もできず、チームが一方的に打ちのめされる光景を見た。ちなみに、息子のウィルは選手としてAFLに昇格し、ウェスタン・ブルドッグスとカールトンで13試合に出場している。
彼自身はボールに触る機会がほとんどなかった。
帰り道、父のコリンとこんなやり取りがあった。
「メルボルンで走れる馬を持つ馬主には、何と言う?」
「“とても良いです。このままいけば重賞を勝てるかもしれません”」
「アデレードでやっていけるクラスの馬なら?」
「“アデレードで勝って、メルボルンに駒を進めたいですね” かな」
「じゃあ、カントリー開催ならギリギリって程度の馬は?」
「“たぶん力不足です。見切った方がいいでしょう” ってところかな」
「——お前は、自分が引退すべきだと思うか?」
ヘイズは呆然とした。
「最悪な一日でした」と彼は言う。「父は私を20歳で引退させました。社会人リーグの中では、まだかなり若い方だったんですけどね」
「本当はあと数年やりたかったのですが、父は体調が悪かった。それにピーターと父は性格が合いませんでした。父はリンジーパークの次の調教師として、若いうちから指名してくれたんです」
もう一人の息子、ピーターも有能なホースマンだったが、馬が第一、第二、第三だと考える生活に囚われた父とは違い、人生にもっと多くを求めていた。結局、彼は父の束縛を離れ、独立して調教師生活を新たに始めることとなった。
1990年にはコリンの健康が悪化し、調教師の仕事を引退。このとき、デヴィッドは28歳。リンジーパーク調教場の若きリーダーとして名門の舵を握る、新たな時代が始まった。
名門の跡継ぎ
調教師としての船出を迎えた最初の一年は、まるで夢のようだった。
父がカミングス厩舎から引き継いだ小柄な騸馬、ベタールースンアップが開業直後に早速、豪州の定量戦線で頭角を現し始めた。後方一気でコックスプレートを制すと、続く日本遠征ではジャパンカップを制覇。40年を超える歴史の中で、今もなお “ジャパンカップを制した唯一の豪州馬” となっている。
ベタールースンアップが勝たない週は、代わりにザビールが勝つ。そんな快進撃にすら見えた。
豪州随一の開催日、フレミントン競馬場のダービーデーでは、なんと6勝の固め打ち。どんなことがあっても笑いが止まらない、そんな勢いだった。
「若い調教師にとって、あれは夢のような一年でした。これ以上の船出はありません」とデヴィッドは当時を振り返る。
ほどなくして、豪州のすべての調教師が憧れるレースも、手中に収めることになる。1994年、ハムダン殿下のジューンで制したメルボルンカップ勝利が、彼に世界への扉を開いた。その後、香港を訪れ、すっかりその魅力に引き込まれた。
「私はここ(香港)で任命された史上最年少の調教師でした」とデヴィッド。「メルボルンカップを勝って、豪州のリーディングでもあった私が去ったので、驚いた人もいました」
「でも、香港国際競走でここに来たとき、『これは自分の故郷のやり方とはちょっと違うな』と感じたんです。いちばん難しかったのは、父を説得して承諾を得ること。そしてピーターに戻ってきてもらい、調教を任せることでした」
「父を口説き、ピーターが戻れば、あとは順調でした。自分の厩舎を畳んで、リンジーパークの調教を引き継いでもらうことになりました」
多くの父子がそうであるように、コリンとピーターは仲が良い親子だった。だが、仕事となれば話が違う。共に働く中では、水と油の関係でもあった。
やがて、デヴィッドが香港競馬に惹かれ、次の展開を思い描くようになると、リンジーパークの実権はピーターが握るだろうとの見方が広がっていった。
コリンはやがて晩年に入り、1999年に75歳で逝去。最期の地は、30年以上前に構想し建てたリンジーパークの敷地だった。残された厩舎はピーターが手綱を取り、その後の5年でメルボルンとアデレード双方で調教師タイトルを3度獲得することとなった。
「ピーターはワークライフバランスを整えましたが、当時それは眉をひそめられました」と、二人をよく知るマカヴォイは説明する。
「すべてを捧げるか、去るか、どちらかの時代です。コリンは仕事にすべてを捧げ、デヴィッドもそうだった。でも、ピートは偉大な調教師でありながら、他のこともできる仕組みを整えていた。それが眉をひそめられただけで、彼が人として、調教師として劣っていたわけではない。彼は “違った” のです」
ピーターの趣味の一つは飛行機操縦だった。
2001年3月のある日、彼は購入を検討する軽飛行機のテスト飛行で、パイロットの隣に同乗した。しかし、目的地に着くことはなかった。67歳のパイロットと52歳のピーター・ヘイズ師は、墜落事故で命を落とした。
「私は厩舎で彼を待っていました。午後3時に馬を曳いて歩様を確認する予定でしたが……でも、彼が帰ってくることはなかった」とマカヴォイ。
「彼らしくない。電話をしても出ない。信じがたいほど悲しい日でした」
デヴィッドはマカオのゴルフコースにいた。父を失ってからわずか2年、兄弟のピーターが飛行機事故で亡くなったという衝撃の連絡を受け取った。直ちにヘリで香港へ戻り、その足でオーストラリアへ飛んだ。ニュースは世界を駆け巡った。
「空港に着いたとき、メディアが殺到していたのを覚えています」とデヴィッド。「本当に打ちのめされました。ピーターの家族にとっても、関係者全員にとっても、恐ろしい時間でした」
「ピーターの姿勢は『人生は調教だけではない』というものでした。父の『調教こそ人生』という考えです。私は父寄りです。ピーターには追いかけたい趣味が色々とあり、その一つが彼の命を奪うことになりました」
指揮官を失ったリンジーパークだが、マカヴォイがその“手綱”を引き継いだ。
マカヴォイは見習い騎手時代の若い頃、1976年にリンジーパークに入った。コリンが地元紙の競馬担当に電話をかけ、州内の有望な若手騎手を尋ねたことがきっかけだった。コリンは「きちんとした家庭の出身でなければ取らない」と条件を付け、マカヴォイはその条件を満たしていた。
「やり方は “彼の流儀” か、さもなくば “去る” かでした」とマカヴォイ。「彼には確立されたシステムがあり、そのやり方は最高でした」
「部下は全員、ボスを尊敬していました。あの上質な職場で働けたのは幸運でした。コリンは素晴らしいボスでした。ただ一生懸命働けば良い、そんな環境でした」
ほどなくして、デヴィッドは香港での10年目を終えた。2度の調教師タイトルを獲得し、妻のプルーさんと子どもたち(ベン、ソフィー、双子のウィルとJD)を香港で育てた。5歳以下の子供を4人同時に育児中という時期もあったが、子供たちが高校に上がる年齢になると帰国を決断。40歳という史上最年少で、香港競馬の調教師から “引退” を果たした。
香港を去るとき、香港ジョッキークラブ(HKJC)のCEO、ウインフリート・エンゲルブレヒト=ブレスゲス氏と握手を交わし、別れ際にこんな一言を送ったという。
「お子さんが大きくなったら、ぜひ香港に戻ってきてください」

移転、再生、次世代
ピーターの死の直前、ヘイズ家は最後の大きなビジネスに打って出た。1999年、ヴィクトリア州のユーロアで新たな土地を取得した。
メルボルンとシドニーの間に位置し、アデレードの地元競馬界が勢いを失い始める中で、デヴィッドは拠点をバロッサバレーからユーロアの穏やかな田園へ移すべきだと考えた。元は入厩前調整を行うプレトレーニングの拠点だったが、彼はもっと多くの用途に使えると見ていた。
帰国後の使命は、父が約半世紀前に描いたビジョンをなぞる “全面移転” だった。感情的にも財政的にも、途方もない苦難が伴った。アンガストンの旧拠点敷地を分割売却しながら、新施設に2,100万豪ドルを投じ、つなぎ融資も受けた。
マカヴォイも新拠点に移る計画だったが、10代の娘が拒んだ。彼も勝てない戦いだと悟っていた。マカヴォイはやがて独立してG1トレーナーとなり、息子のカルヴァンと新たな調教師人生の第一歩を進み始めた。
ユーロアが本格稼働する頃、リンジーパークの馬は100頭まで絞られていた。人馬とも新システムに苦労し、勝利は遠かった。
「デヴィッドほど成功を愛する人はいません。勝てなかった時期は本当に辛かった」とマカヴォイ。「それでも彼らはやるべきことに集中し、乗り越えたのです」
「あの頃は『なんで昔のリンジーパークを売って、自前でやるのか? うまくいくはずがない』とか、散々言われました」とデヴィッドは言う。
「でも、勝手な判断や意見を言っているだけで、プロセスも物事の進み方も全く理解していませんでした。確かに時間はかかりましたが、うまくいったときはもっと大きな成果でした」
「私はあの施設の価値を信じ、資金を注ぎ続けました。ヴィクトリアとニューサウスウェールズの間に位置する、望ましいロケーションにある豪州最大の私設トレーニングセンターだからです」
ヘイズのオーストラリアでの2回目の挑戦は成功に彩られたが、視線は常に先にあった。
——未来は、計画を立てる者のためにある。
リンジーパークの厩舎には甥のトム・デイバーニッグが共同調教師に加わり、やがて長男のベンも合流。だが、子供たちが皆成人した頃、二度と来ないと思っていたブレスゲスからの突然の電話が鳴る。HKJCは、彼に香港へ戻ってほしかったのだ。
血と汗と涙を費やし、リンジーパークを再びトップへ押し上げたのに、なぜ2020/21シーズンに香港へと戻ったのか?
「何千人もが応募する仕事の機会をいただいたのです」とデヴィッドは肩をすくめる。「私はここが大好きでした。一番いい時期に去りましたし、週2日開催のレース体系も好きでした。HKJCのプロ意識、すべてが整っているやり方が好きなんです」
「そして、ここでキャリアを締めくくる良い区切りにもなるし、息子たちに時間を与えられるとも思いました」
「息子のベンは私と組んでG1レースを17勝しましたが、ミスターブライトサイドで勝ったとき『彼にとって初のG1制覇』と言われました。私は『いや、18勝目だよ』と言いました」
「いま彼らが勝てば、評価は彼らのものです。そこに “デヴィッド・ヘイズ” も “コリン・ヘイズ” もいません。父が引退した後、『どうせ親の七光りだろう』という囁きが消えたように、息子たちも同じなのです」
三人の息子、ベン、ウィル、JDは、今はリンジーパークの指揮官として厩舎を共同運営している。ソフィーはリンジーパークのビジネスマネージャーに就任、妻のプルーも香港から面倒を見ている。
現場とは距離を置き、出走計画や装具の変更で三人の意見が割れた時に呼ばれる “調停役” に徹しているのが自分だと、デヴィッドは冗談を言う。「私の仕事は “ジャッジ・ジュディ(米国で人気の裁判番組)” みたいなものです」と笑う。
世間では、三人の息子は調教師として “やっていける” と好意的に見られている。そして、リンジーパークの遺産を次世代へ繋いでいく存在だと有望視されている。
怪物との出会い
話はカーインライジングが香港に売却される前に遡る。まだオーストラリアに滞在していたデビュー前の時代、リンジーパークは同馬の調教拠点だった。豪州時代はフレミントン競馬場と、モー競馬場という地方の小さな競馬場でのトライアルを経験している。
当時、別馬でカーインライジングと併走し、すぐさま香港のデヴィッドに電話をかけた騎手がいた。ブレイク・シン騎手だった
「あの馬は何なんだ? 息子さんたちに話して、あの馬に乗せてもらえるよう頼めないか?」
その時にはもう、香港行きが決まっていたと、ヘイズは伝えざるを得なかった。そこでカーインライジングは “世界最強” へと変貌し、香港競馬の国民的英雄となり、そして心の奥で辞める決心の一歩手前だった彼を、この街での苦しい再挑戦から救ってくれたのだ。
「コロナ禍の真っ只中では、長くは持たないと思っていました」とデヴィッドは明かす。
「とにかく楽しめていなかった。HKJCは競馬を止めないために素晴らしい働きをしてくれましたが、我々は厳しい制限下にありました。毎日、鼻の奥の検査を受け、職務としてのレース以外は何も許されませんでした」
「馬主も厩舎に来ませんから、知ってもらう手段がありません。私を知らないがゆえに、多くの馬が去っていきました。香港の “大馬主” 3人が厩舎を離れ、その状況を歯痒い思いで見ていました」
「妻のプルーには『今年中に状況が変わらなければ、辞表を出す』と伝えました。でも、我々は一生懸命取り組み、街の動きも再開し、コロナ禍が終息し、馬主との繋がりも取り戻し、そして再び勝利を重ねられるようになったんです」


あの狂騒の街で、競馬場の巨大なオッズボードに『1.0倍』が点灯する馬を出走させる重圧は、誰にも分からないだろう。HKJCはカーインライジングが勝つたび、わずかでも配当が出るようプレミア価格の資金を投じている。
それでもヘイズは、カーインライジングの出走前に緊張することは滅多にないと言う。だがロイヤルランドウィックで行われる “世界最高賞金の芝レース” では、豪州の最強馬たちを、その本拠で打ち負かさなければならない。
忘れている人も多いが、ヘイズは2017年のジ・エベレストの創設初年度に、ベガマジックを一番人気として送り出している。大外を回って猛然と追い込んだが、結果は2着。彼は歯を食いしばり「あれは(クレイグ・ウィリアムズ騎手の)ベストな騎乗ではありませんでした」と悔しさを滲ませる。
カーインライジングは、ついに “ジ・エベレストの宿題” を終わらせるかもしれない。
「彼には証明することは何もありません」
「でも遠征して勝てば、それは大きな成果となり、多くの人に噂どおりの実力があると納得してもらえるでしょう。香港以外では未知だ、という懐疑もあります。もっともな懸念かもしれませんが、私は心配していません」
勝っても負けても、ヘイズはレース直後に香港行きの航空便に乗る。名門リンジーパークの伝統に、次の一章を刻むために。
第二の香港時代で調教師タイトルの獲得すること、それも望みの一つだ。だが、豪州も呼んでいる。子や孫をいつまでも待たせるわけにはいかない。
「70歳まで調教はしたくありません」と彼は言う。「家に帰り、調教師ではなく、リンジーパークの “会長” として、孫や子どもたちとの生活を楽しみたい。あと3~4年は香港で過ごせると思います」
常に “次” を見つめ、視線の先は水平線の向こう。いかにもヘイズらしい言葉だ。空の上で、コリンも頷いているはずだ。
——未来は、計画を立てる者のためにある。