2007年6月2日、フランキー・デットーリ騎手のオーソライズドがエプソムの坂を駆け上がり、ダービーを制した日のことだった。かすみがかった夏の夕方、暖かな光に包まれたエプソムダウンズ競馬場を後にする、竹馬の曲芸師として働く若い女性に話を聞いた。
「初めてのダービーデーはどうでしたか?」
「最悪。ここの民度は最低でした」
銀色の衣装とフェイスペイントを施した彼女は、ロンドンのレスター・スクウェアでの大晦日イベントをはじめ、多くの大規模イベントで足長芸を経験してきた。しかし、エプソム競馬場ほど口汚い酔っ払いの男女に出会ったことはなかったという。パドック脇で観客を “楽しませていた” この日の午後、彼女は浴びせられた粗野な言葉や卑猥な誘いにショックを受けた。
「もう競馬場には行きません」
その後、タッテナム・コーナー駅へと向かう途中、その日のストレスから解放された彼女はこうつぶやいた。
「でも、馬たちは美しかったですね」
この曲芸師の体験は多くの競馬ファンの体験とは異なり、しかも遠い昔の話ではある。しかし、ある意味では現代に通じるものがあり、学びを得ることができる。
イギリス競馬全体のマーケティングとプロモーションは、少なくとも四半世紀に渡り、要点を見失って迷走を続けてきた。強固なファン層を築くには、『主役』へのつながりや敬意が不可欠だ。馬を前面に、騎手をクローズアップすることが大切である。帽子を被り、競馬場のバーで酒を飲み交わすだけでは、美しい馬や勇敢な騎手に人々を伝えることはできない。
しかしマーケティング予算を扱う側は、しばしば競馬の周辺要素に惑わされている。
イギリス競馬のマーケティング部門、グレート・ブリティッシュ・レーシング(GBR)が最近公開した宣伝動画には一定の意義があるものの、これが今後のコンセプトだとすれば、迷走は抜け出せないように思える。
『The Going Is Good』と題する広告キャンペーンには、イギリスの競馬賭事賦課公社から360万ポンドが投じられた。GBRの暫定CCO(チーフ・カスタマー・オフィサー)を務めるサイモン・ミカリディス氏は「480万人の既存競馬ファンの体験を紹介し、より多くの新規ファン獲得を目指す、斬新な広告アプローチに期待している」と謳うが、目新しさよりもどこか既視感を覚えるものだった。
GBRが公開した40秒間の動画では、最大のスターである競走馬にはスポットライトが当たっていない。せいぜい、ホリー・ドイル騎手に軽く触れる程度だ。興味深いことに、この動画はYouTubeで57万8千回再生されながら、高評価はわずか3件にとどまっている。
キャンペーン全体については始まったばかりであり、夏を通じてプロモーションが進むうちに、ヒーローたちへ焦点が移る可能性もある。長期的には成功例となることもあり得る。GBRは次の展開を明かしていないが、土曜日に控えたダービーを目前にして、最も売り込みやすいはずのレースが大々的にプロモートされていない点は際立っている。
GBR、エプソム競馬場、そして親組織である英ジョッキークラブからは、過去や現在のダービーヒーローを取り上げるような全国規模の広報活動は見当たらない。かつて英国のスポーツ文化の中心だったこのレースだが、いまや大衆の一般市民を引きつける広報活動としては、ソーシャルメディアの短い投稿がわずかにある程度だ。昔はダービーデーといえば半休になるほどの行事だったというのに。
それでも、今年の英ダービーは例年どおりの面白い構図が待ち受けている。クラシック初戦のG1・英2000ギニーを制したルーリングコートが出走、もしダービーも勝てば13年ぶりの英二冠馬が誕生することになる。
難しいのはダービートライアルの結果である。このレース最多の10勝を誇るエイダン・オブライエン厩舎が席巻しているというのが、今年の特徴だ。有力馬のドラクロワを擁するほか、前売り一番人気を長らく守ってきたザライオンインウィンターも名を連ねる。同馬はヨーク競馬場での前哨戦、G2・ダンテステークスでかかり癖が露呈して大敗し、評価を落としたものの、シティオブトロイのように本番で巻き返すのか注目が集まっている。
そのダンテSの勝ち馬、プライドオブアラスはデビュー以来2戦無敗を誇る。クールモアの大物馬主たちが所有し、世界的名手のライアン・ムーア騎手を擁するオブライエン勢とは異なり、こちらは小規模なオーナーブリーダーが育てた持ち馬。勢いを増すラルフ・ベケット厩舎に所属し、絶賛売り出し中のロッサ・ライアン騎手が騎乗する。
父のジョン・ゴスデン調教師と共同で厩舎を運営し、今年は2頭を送り出すセイディ・ゴスデン調教師は先週、「ダービーはシーズンを決定づける一戦、多くの人にとってはキャリアを左右する一戦です」と口にした。
それだけに、英ダービーとその主役たちをピックアップした全国的なプロモーションに力を入れていないのは残念であり、まさに不条理だ。
一方、日本競馬は事情が異なる。日本中央競馬会(JRA)が展開するダービーキャンペーンでは、国内の交通網に目を引くポスターや広告板が掲出され、東京都心の大型ビジョンでも『Hello, Special Times.』がキャッチコピーのプロモーション動画が放映されている。センスの良い映像演出で特別な舞台を演出し、馬を前面に押し出している。
動画には過去の勝ち馬がモンタージュで映し出され、中にはオーソライズドの6日前に日本ダービーを制したウオッカの姿もある。10万人近いファンが満員の東京競馬場スタンドでダービーのゴールを熱狂的に迎えるシーンは鳥肌ものだ。
伝統の英ダービーが1780年まで遡る歴史を理由に「元祖こそ至高」と謳うのを横目に、日本ダービーは21世紀を代表するレースへの道を着々と歩み続けているのだ。
日本ダービーの賞金総額は6億5100万円(450万米ドル)で、これは世界のダービーで最高賞金額。一方、資金難に苦しむ英ダービーは125万ポンド(160万米ドル)にとどまる。加えて、日本ダービー馬は通常古馬になっても現役を続けるのに対し、英ダービー馬はその後たった数戦で引退してしまうのが通例だ。世界の競馬界においては、日本ダービーの方がすでに重要度が高いとも言える。
JRAが優れている点の一つは、馬や騎手を感情的に演出することに長けていることだ。近年の『Hero Is Coming』キャンペーンはその成功例である。
JRAのマーケティング、とりわけグッズ展開は、欧州や北米を霞ませている。4歳馬限定の香港ダービーを持つ香港競馬でも、「一生に一度の」というキャッチフレーズを用いて同様の手法が取り入れられている。
近年、香港ジョッキークラブ(HKJC)のマーケティングチームは、日本と同様に “ヒーロー要素” を前面に押し出している。ハッピーバレー競馬場の前を通れば、香港が誇る4頭の名馬の巨大ポスターやトップジョッキー8人が載ったポスターが目に入る。ロマンチックウォリアーやゴールデンシックスティといったスターは街中のビルボードでおなじみとなり、日本で成功した名馬のぬいぐるみ化も取り入れてファンの人気を集めている。
先週の日本ダービーでは、クロワデュノールが観衆を大いに沸かせた。この熱狂が続くようなら、年内にもJRAのターフィーショップにクロワデュノールのグッズが並ぶだろう。
日本と香港は英国とは文化的に異なるが、香港もまた日本とは違う。英国の皮肉屋はシティオブトロイのぬいぐるみに眉をひそめるかもしれないが、コアなファンが馬券に執着して競馬界を内向きに捉えていたころの香港でも、同じことが言われていた。そして、それはそれほど昔の話ではない。
JRAとNAR(地方競馬)、そして香港の体制は、それぞれが興行を一手に管理し、高い売上を背景に有意義なキャンペーンへ十分なマーケティング費用を投じられる。しかし、それは他国の競馬界がマーケティングの差を弁明する言い訳にはならない。
スターとファンを結び付ける優れたプロモーションは、人々の意識を変え、本物のファン精神を育む。彼らは賭けや飲食、見栄のためだけでなく、ヒーローを見に行き、近くで感じ、勝利と敗北を共有するために競馬場へ足を運ぶ。それがスポーツであり、競馬があるべき姿だ。アスリートとのつながりこそがエンゲージメントを強化する。
馬の個性と物語を称え、その物語に纏わる人々を紹介すれば、その後に続くおしゃれや飲食、レース後の音楽、そして馬券といった楽しみは自然に付いてくる。しかし、ヒーローをプロモーションの脇役に留めるなら、年に一度のダービーデーに酔っ払いが騒ぐ状況が変わることはないだろう。