数字だけを見れば、ジョン・サイズ調教師の2016/17年シーズンを凌駕するのは難しい。94勝という史上最多勝記録は、2位のジョン・ムーア調教師に27勝もの大差をつけての圧倒的1位。その翌シーズンには、総獲得賞金が史上最高となる1億7600万香港ドル超に達した。
今季のサイズは66勝を挙げているが、残り2開催での猛烈な追い込みでもなければ、自身のシーズントップ10には入らないだろう。だが、競馬は数字や統計だけのスポーツではない。物語こそが、その人の評価を形づくるのだ。
もし今季、デヴィッド・ヘイズ調教師の追撃を振り切ってタイトルを守りきるようであれば、御年71歳にして、期待外れだった2023/24年シーズンからの華麗なる復活を遂げたと言えるだろう。
それでも、彼の“ベストシーズン”を問うならば、それは2001/02年、香港でのデビュー初年度だ。3年連続チャンピオンとなる最初の年であり、香港競馬の在り方を根本から変えたという意味では、他のどんな調教師よりも重要かつ影響力のあるシーズンだった。
先日引退を表明したベンノ・ユン調教師は、当時のサイズの第一印象をこう語る。
「最初に見たときは “なんだか農夫みたいな人だなぁ” と思ったよ」と笑う。
「でも一度話をして家に帰ったとき、妻と娘に言ったんです。『この人は伝説になるぞ』って」
ユンはその後12年間、助手としてサイズを支えた(うち7回はリーディングを獲得)。だが、そのデビューシーズンのインパクトは圧倒的だった。極端なまでに慎重な調整方針により、開幕当初の出走数はごくわずか。ついていけなかった調教助手の一人は辞めてしまったという。その人物が最後に言い残した言葉は、「うちの妻がね、あの人は調教師としてダメだって言ってるんだ」だった。
しかし、ユンは「だけども、その後のジョンの成功は、彼らの評価を覆す快進撃でした」と振り返る。
転厩馬がぽつりぽつりと集まりはじめ、やがて洪水のように厩舎へと押し寄せた。低迷していた馬たちが、立て続けに勝ち星を挙げるようになったからだ。
中でも象徴的だったのがエレクトロニックユニコーン。前年はリッキー・イウ厩舎で9戦1勝だったが、サイズ厩舎に移籍後はわずか4戦で3勝、G1・スチュワーズカップを含む快進撃を見せた。2001年末の香港マイルでは、エイシンプレストンに次ぐ2着にも健闘している。
エレクトロニックユニコーンは、この年の香港年度代表馬にも選ばれた。だが、香港競馬の潮流を変えたのは、個々の勝利やタイトルではない。サイズが持ち込んだ手法そのものだった。

香港では、調教タイムが公開され、バリアトライアルの映像もワンクリックで確認できる。その中で、サイズの調整法は明らかに異質だった。シンプルに言えば『スローペース』。ゆったりとした調教、日常的なプール運動、そして頻繁なバリアトライアルを日々繰り返す。
それ以前の香港では、オールウェザーコースの直線に設置されたゲートから、まるでクォーターホースのような全力疾走で馬を鍛えるのが主流だった。だが、そのゲートは今や保管庫で眠ったままだ。今では新米調教師ほどサイズ流に倣い、無理なくフィットネスを高めるアプローチを選ぶようになっている。
サイズは、その調整法を『科学』の域にまで高めており、おそらく今後それに匹敵する変革をもたらす存在が現れることはないかもしれない。
来季からは、もうひとりのオーストラリア人、ジェームズ・カミングス調教師が香港での調教師人生をスタートさせる。彼は、レーティングと過去成績の分析を重視する理論家、ドミニク・バーン氏の薫陶を受けたという点で、サイズとも共通項を持つ。そういう意味では、カミングスは “サイズの弟子” として歩む可能性が高く、決して“再発明”を目指す存在ではなさそうだ。
新たな従化トレセンの調教施設や、来季から導入されるトレッドミルの活用が、新たな革新をもたらす可能性はあるだろう。しかし、サイズが示してきた馬への愛情、勤勉さ、細部へのこだわりに肩を並べるのは容易ではない。
そして、もし今季もサイズがチャンピオントレーナーに輝くならば、その勝利は24年前の “最初の戴冠” と同じくらいに、祝福されるべきものだ。