アントニオ・フレス騎手が南カリフォルニアに拠点を移して2年が経とうとしている。この間、イタリア出身の彼は同地域でのトップ騎手としての地位を確立したが、彼の野心はさらに大きい。ブリーダーズカップ制覇への野心、そしてケンタッキーダービー制覇への渇望を抱き続けている。
それでも、サンタアニタやデルマーでの現在の環境に満足していないわけではない。「ここは私にとって “理想の場所” なんです。ずっとここに居たいと思っています」とIdol Horseに語る。
それも無理はない。2024年シーズンには156勝を挙げ、獲得賞金は1,780万米ドル(約26億円)に迫る好成績を収めた。しかし、彼の心にはさらなる大舞台への渇望がある。特にケンタッキーダービーの勝利の味を知りたいという想いは強い。
「ケンタッキーダービーで騎乗したとき、本当に衝撃を受けました。これまでの人生で最高の経験だったと思います。勝つことはできませんでしたけどね」とフレスは、サウジカップの前夜、キングアブドゥルアジーズ競馬場のパドックで振り返る。
「チャーチルダウンズであの日を過ごしたことは、信じられないほどの体験でした。ジョッキーとして、全身に鳥肌が立つような瞬間でした。本当に “ゲームチェンジャー” ですね。あれを経験すると、騎手としての考え方も変わります」
31歳のフレスにとって、ビッグレースでの勝利は決して珍しいことではない。昨年4月のG1・サンタアニタダービーではストロングホールドを勝利に導き、それが彼をケンタッキーダービーへと押し上げた。ケンタッキーダービーではミスティックダンの7着だった。
また、2021年3月にはメイダン競馬場で行われたドバイワールドカップデーのG1・ドバイゴールデンシャヒーンでは、伏兵のゼンデンに騎乗し、大穴を開ける逃げ切り勝ちを収めた。しかし、ケンタッキーダービーは別格だ。

「ドバイワールドカップでは『2回半』騎乗しました。1回はゲートで馬が躓いてしまったので、実質3回乗ったことになります。でも、ケンタッキーダービーはまったく違います。これまでのどのレースとも違う感覚と雰囲気があります。本当にクレイジーな体験で言葉では表現しきれません」とフレスは説明する。
「アメリカで最大のレースですし、あんなに多くの人が競馬場に集まるのを見たことがありませんでした。まるで現実とは思えない光景でした。パドックに向かう途中、周囲の人々がどんどん増えていくのを感じながら自分の馬に跨ります。そして馬場に向かって歩き出すと『マイ・オールド・ケンタッキー・ホーム』が流れ始め、みんながその曲を歌い出します。その歌声と群衆の歓声がトンネルの中で反響しながら、自分は馬場へと歩みを進めます。あの瞬間の感動は忘れられません」
昨年5月のケンタッキーダービーには、公式発表で15万6,703人がチャーチルダウンズに詰めかけた。これは、2024年のサンタアニタダービー当日にサンタアニタ競馬場が記録した3万2,089人を大きく上回る圧倒的な観客数だった。
「ケンタッキーダービーの観客は他とはまったく違います」とフレスは続ける。「馬に乗っていると、自分は観客の一部ではありませんが、最大のレースに向かって歩き出す瞬間、その熱気を肌で感じるんです。アドレナリンが一気に湧き上がります。そのまま馬を向正面でウォーミングアップさせている時もまだ歓声が聞こえてきます」
「最も驚いたのは私の枠が18番だったことです。外側のほうでしたが、その外側にさらに2頭いました。でも、ゲートが馬場いっぱいに広がっているのですぐ横には観客がいました。そして最後の馬がゲートに入ると、突然静寂が訪れます。誰の声も聞こえなくなるのです。そして、ゲートが開いた瞬間、轟音のような大歓声が響き渡ります。その後はもうただ夢中で集中して騎乗しました。あれは本当に凄い、本当に特別な体験でした」

フレスのレースへの情熱、そして馬への愛情は、幼少期に遡る。彼はイタリアのサルデーニャ島で生まれ。父ステファノは騎手、その祖父アントニオも騎手、さらに曾祖父ステファノも騎手という競馬一家の血を引く。
フレスは三代にわたる騎手一家の後継者として(叔父も含めて)育ち、幼少期のほとんどを馬とともに過ごしていた。しかし、父親の意向次第では、必ずしも同じ道を歩む運命ではなかった。
「父は私に騎手になってほしくなかったんです」とフレスは明かす。「私が初めてレースに乗ったのは、もう20歳近くになってからでした。父は違う人生を歩んでほしいと思っていました。祖父や叔父は気にしていなかったですが父は『ダメだ』と言っていました。『勉強を続けて、馬に関わるなら獣医になれ。騎手の人生は楽じゃない』と」
「父はこの世界の厳しさを知っていました。危険もあるし、減量に苦しんでいました。彼は私より体格ががっしりしていたから『お前も体重で苦労する。ずっと減量との戦いになるぞ。だからやめておけ』と言っていました」
「だから、父は決して私を馬に乗せようとはしませんでした。でも私は馬が大好きでしたから、いつも厩舎にいました。11歳か12歳の頃から馬房掃除を手伝っていましたよ。たまに馬に乗せてもらって歩いたり、軽くトロットをしたりはしましたが、キャンターをしたことはありませんでした」
しかし、フレスの夢は簡単に諦められるものではなかった。18歳のとき、彼はピサの競馬学校に入学し、本格的に騎手の道を歩み始める。やがて父も彼の決意を受け入れるようになった。
「自分の道を進み、騎乗を学び、ライセンスを取ったとき、父は変わりました」とフレスは語る。「それが自分のやりたいことだと理解してくれて、そこからは応援してくれるようになったんです。そして、ついには父自身が私の指導を始めました」
フレスが見習い騎手として師事したのは、元騎手であり、何度もリーディングを獲得した『ビッグボス』として知られる名伯楽、アルドゥイーノ・ボッティ調教師。名門ボッティ一族の一員である同調教師のもとで、フレスは騎手としての基礎を徹底的に叩き込まれた。
「彼は厳しい…本当に厳しいお方ですよ」とフレスは少し苦笑しながら振り返る。
「決して満足しないタイプの人でした。昔気質の指導方法でしたが、それがまた良かったんです。彼は私を目覚めさせてくれました。この仕事をする上で、いかに真剣でなければならないかを学びました」
「私が騎手になったのは20歳近くになってからでしたが、彼は『30歳のつもりで考えろ。成熟した心構えが必要だ』と言いました。彼は何事にも集中することを教えてくれました」
「10馬身差で勝っても『ハンデ戦でそんなに離したらダメだ』と怒られます。ハナ差で勝っても、『危うく負けるところだった』と叱られます。『よくやった』なんて言葉は一度も聞いたことがありません。ただひたすら『もっと頑張れ、もっと努力しろ』としか言われませんでした。でも、それは素晴らしい教育でした」
「彼は、本当に優秀だと思った人には厳しく接するタイプでした。逆に、この仕事に向いていない、あるいは真剣ではないと判断した人には、一切関心を示しません。時間を無駄にしたくないんです。だからこそ、私にとっては最高の環境でしたし、一生の財産になりました」
この厳しい下積み時代が、フレスにとって今もなお発展を続けるキャリアの基盤となった。イタリアで腕を磨いた後、彼はイギリスに挑戦。その後、中東の冬開催で経験を積み、UAEでは2年連続でリーディングジョッキーのタイトル争いを演じたが、最終的にはタイグ・オシェア騎手に次ぐ2位に甘んじた。そして、さらなる飛躍を求めてアメリカ・カリフォルニアへと活躍の場を移した。
そんな彼を西海岸へと導いたのがダグ・オニール調教師だった。移籍後はマーク・グラット、フィル・ダマートといった名伯楽の支えもあり、フレスはアメリカでの最初の2年間で260勝を挙げ、20のグレード競走を制覇。その勢いは留まるところを知らない。2024年の獲得賞金ランキングでは全米18位、勝利数ランキングでも22位に食い込んだ。

2024年は大成功のシーズンだった。しかし、彼の野心にさらに火をつけたのはチャーチルダウンズでのケンタッキーダービーの経験、そしてあと一歩のところで逃したブリーダーズカップの2戦だった。
「騎手として毎年異なる目標を設定します。でも、カリフォルニアに来てからは、一歩ずつ達成していくことで、自然と目標も変わってきました。もっと上を目指したいと思うようになったんです」とフレスは語る。
「今は夏のデルマー開催がとても楽しみです。年間で最も盛り上がる時期の一つですし、今年のブリーダーズカップもまたデルマーで行われます。昨年はブリーダーズカップであと一歩のところまで迫りました。ジュべナイルターフではアイアンマンカルでクビ差の2着、ターフスプリントではモトーリアスでアタマ差の2着。今年はその一歩先へ進むことを目標にしています」
とはいえ、まずは彼が望むケンタッキーダービーの騎乗馬を確保することが先決だ。
「今年のケンタッキーダービーでは、まだ乗る馬が決まっていません。前哨戦にもまだ乗っていないんです」とフレスは語る。「サンタアニタダービーで何かチャンスを見つけたいと思っていますが、簡単なことではありません。レースが近づいてきたら状況を見極める必要がありますね」
さらに彼を悩ませるのは、今年のドバイワールドカップデーとサンタアニタダービーが同じ日(4月5日)に行われることだ。どちらに向かうか、厳しい選択を迫られることになるが、どちらが良い選択だろうか。
「どちらに行くか決めるのは難しいですが、自分にとって最も勝つ可能性が高い場所を選ぶことになるでしょう」とフレスは語る。
「私が求めているのはただ一つ、勝つことです」