この日、中京競馬場に詰めかけた観衆は、日本競馬の新たな『ダート女王』の戴冠式を目撃することとなった。
2015年のサンビスタ以来、実に10年ぶりとなる牝馬のG1・チャンピオンズカップ制覇を達成した、ダブルハートボンド。かつてのジャパンカップダートとして知られるこのレースで、坂井瑠星騎手はレモンポップでの連覇に続き、3年連続の栄冠を手にした。
ダブルハートボンドは昨年8月のデビュー以来、目覚ましい快進撃を残してきた。坂井騎手が8戦全てに騎乗して7勝。敗れたのはたった一回、それも2着という成績だ。
前走、JRAの重賞初挑戦となったG3・みやこステークスでは、コースレコードを更新して重賞初制覇。 しかし、鮮烈なレコード勝ちとなれば、当然気になるのはその反動。牡馬相手のレコード勝ちから中3週という間隔について、陣営内では心配する声も見られた。
はたして4歳の彼女は、この厳しい連戦に耐えられるのだろうか? 大久保龍志調教師は「今回は正直、(前走から)上昇している感じは受けませんでした」と明かす。
レース後の回復が遅れがちだったダブルハートボンドだが、坂井はトレーナーに対して「これからG1にあたって、もう一つギアを上げてほしい」とリクエストし、調教でさらなる負荷をかけようと試みた。
しかし、追い切りでは馬自身がセーブしているような気配を見せていたという。
チャンピオンズカップが刻一刻と迫るレース直前、その見通しは一変する。 「当週の追い切りが終わった翌々日、動きがガラッと変わっていたので『これはいける』と思っていました」と大久保師は振り返る。
彼女をよく知る鞍上もまた、ダブルハートボンドの個性を信じていた。
「そこも馬が『レースで本気で走ればいい』と思って(セーブしていた)部分があったのではないかなという感じで」
陣営はダブルハートボンドが持つ、自身のコンディションに対する天性の『センス』を信じたのだった。
チャンピオンズカップのゲートが開くと、ヘリオスとテンカジョウが出遅れる一方、ウィリアムバローズとシックスペンスが積極的にハナを主張。1000m通過のタイムは60秒3、淀みないスムーズな流れを作り出した。
先行争いをする2頭を前に、坂井は冷静に展開を見定めていた。「そんなに決めつけてはなかったですけど」と語る鞍上は、内外の動きを見極め、シックスペンスを行かせて一歩引く決断を下した。
ダブルハートボンドは単独3番手という絶好の“指定席”を確保し、良いリズムで流しつつ、根気強くスタミナを温存した。
勝負の分かれ目は、第4コーナーから最後の直線への入り口で訪れた。 「手応えも良かったですし……しっかりと自分ができる分は走ってくれるのではないか」と坂井は回想する。
ダブルハートボンドはここで力強く加速し、先頭へ躍り出る。だが、G1の舞台はそう簡単ではない。 馬群を縫うようにして、過去2年連続で2着の実績を誇るコンビが上がってきた。ウィルソンテソーロと川田将雅騎手が、内から猛然と突っ込んできたのだ。
坂井は「なんか来たと思ったらやっぱりあの馬だったので、一番怖い馬だったので、やっぱり来たなっていうところもありました」と勝負の一瞬を振り返る。
残り200m、ダブルハートボンドとウィルソンテソーロは並走状態となり、激しい叩き合いが繰り広げられた。 ウィルソンテソーロの鬼気迫る猛追は凄まじく、大久保師さえも「勢いでは『最後負けてしまうのかな』という不安」を抱くほどだった。
しかし、そこからダブルハートボンドが見せたのは、天性のスピードだけではなかった。泥臭く、粘り強く伸びる勝負根性だった。
「抜け出してからの直線に入った感じはセンスの賜物かと思います。並ばれてからもう一伸びしようとしてくれているのが分かりました」
ゴール板を駆け抜けた瞬間、坂井の脳裏には二つのシナリオが浮かんでいた。
「勝ってたような気もするし、負けたような気もしたし、全然分からなかったです」
大久保もまた、「ゴールした時は『2着か』とがっかりしていました」と心境を明かす。
1分50秒2というタイムでの激闘は、写真判定の結果、ハナ差でダブルハートボンドの勝利と確定した。 ウィルソンテソーロが2着、3着にはラムジェットが入った。引退レースとして挑んだ古豪のメイショウハリオは4着と健闘し、その一方で、1番人気のナルカミは13着に沈んだ。


坂井はチャンピオンズカップの勝利インタビューで、「素晴らしいの一言ですね。ここでG1まで辿り着くだけでも凄いことですけど、こうして勝つことができて本当に嬉しく思います」と愛馬を褒め称えた。
そして、この勝利には特別な思いも込められている。大久保厩舎でダブルハートボンドに長らく関わり、「すごくいい馬だ」と信じ続けてきた谷口辰夫助手が、現在ガンで闘病中なのだ。
谷口助手は、かつて人気を博したディープボンドを担当し、ファンからも名コンビとして愛された腕利きのホースマンだ。
「谷口が休んでいる間に自分も、弱いところがある馬なのでそこをケアするために、『あいつどんなことしてたのかな』と感じながら乗っていました。これを見て頑張ってくれないかなと思っています」と調教師は語る。
今後の動向について、指揮官は慎重な姿勢を見せる。年末のG1・東京大賞典には向かわず、1800メートルを主戦場として、来年に向けて英気を養う予定だ。
特に海外遠征の可能性に関しては、“検査”を念頭に懸念を口にした。
「(獣医による)歩容検査がある競馬場、アメリカやドバイなどは(事前のチェックに)引っかかる気がします。きれいな歩様ではないのは確かなので」
調教師の脳裏には、厳しい獣医検査によって昨年のBCディスタフで出走取消に追い込まれたオーサムリザルトの無念がよぎっていた。
ダブルハートボンドは決して故障を抱えているわけではないが、その独特な歩様が、海外の厳密な獣医検査においては「リスクがある」と判断される不安はある。そのため、来年も国内ダート戦線が主戦場となりそうだ。
坂井にとっては、レモンポップでの連覇に続く、チャンピオンズカップ3連覇となった。今年、彼はフォーエバーヤングとのコンビでG1・サウジカップとG1・BCクラシックを制している。力をつけたエースジョッキーは、母国でもその実力を遺憾なく発揮した。
「もう勝てるならもう何回も勝ちたいですし、4連覇、5連覇、ずっとできれば嬉しいなと思います」
喜びの笑顔を見せながらも、その裏には謙虚さも秘められている。この偉業の一勝について問われた坂井は、「関係者、牧場、厩舎の皆さんのおかげ」と感謝の言葉を忘れなかった。

