レース当日を迎えた、デルマー競馬場。カリフォルニアの秋の日差しは、その名声どおり黄金色の輝きを放っていた。ブリーダーズカップに集まった観衆がパドックへと波のように行き交うなか、吉原寛人騎手は検量室へと続く人波に紛れて歩いていた。
だが、彼は勝負服を身にまとっているわけでも、手に鞭を持っているわけでもなく、ヘルメットを被っているわけでもなかった。彼の装いは“観戦者”そのものだった。
「僕は出走取消になったジョッキーですから」
彼は英語でそう言って笑い、自分を指さして、自虐気味にそのアンバランスさを示してみせた。
失望を抑え込まなければならないとき、ユーモアはいつだって頼りになる。吉原自身も、先送りになった夢と、実りのない1万1000マイルの往復旅行をネタにすることに、抵抗は少ない様子だった。
すべての発端はフェブランシェの米国遠征だった。吉原はこの藤田輝信厩舎の牝馬に騎乗すべく、ブリーダーズカップにやってきた。同馬でG1・BCフィリー&メアスプリントへと挑み、地方競馬所属として、馬・調教師・騎手そろって史上初の“ワールドチャンピオンシップ”の舞台に立つはずだった。
しかし、フェブランシェは獣医師が右前脚の状態に懸念を示し、スキャン検査で骨硬化の兆候が見つかったことで、レースの3日前に出走取消へと追い込まれた。
とはいえ、新たなチャンスが舞い込んできた。前座の別レースで、ピューロマジックへの騎乗依頼が届いたのだ。
だが、運命はそれでもなお、彼に味方することはなかった。G1・ BCターフスプリントでアリゾナブレイズが出走取消となり、補欠リストからピューロマジックが繰り上がったものの、その手綱はオイシン・マーフィー騎手へと渡ってしまった。
42歳の吉原の野心は、ブリーダーズカップのスターティングゲートにすら立てなかった今回の一件を経ても、揺らぐことはない。通訳のフランク・チャン記者を介して、彼はIdol Horseの取材にこう語った。
「ステッキひとつで、世界・地方問わず騎乗依頼があればどこでも乗るというのが夢だったので、今その夢をかなえているところです」
もっとも、それだけが目標ではない。というのも、吉原にはすでに日本国外での豊富な騎乗経験がある。オーストラリア、ドバイ、サウジアラビア、そして韓国の競馬場を渡り歩いてきた。
「海外での重賞制覇を目標にしているので、まずはそこを勝てることを願っています」
次なるチャンスは今週日曜日、韓国・ソウル競馬場で訪れる。
地元ファンの間でも人気が高いユメノホノオに騎乗し、2300mで行われるローカルG1・コリアグランプリ(グランプリ)に挑戦する。ライバルは地元韓国のスターホース、グローバルヒットだ。
吉原は今年4月、ソウルで行われたローカルG3・YTN杯でこの高知の強豪とコンビを組み、グローバルヒットの3着に入っている。5歳馬の同馬にとって、26戦のキャリアの中で、高知以外で走ったのはその1戦のみだった。
吉原はユメノホノオに20戦騎乗して16勝を挙げており、その中には高知競馬場が誇る『高知三冠』レース、黒潮皐月賞、高知優駿(黒潮ダービー)、黒潮菊花賞の完全制覇が含まれている。さらには、年末の大一番である高知県知事賞も2年連続で制している。
ビッグレースで勝ち続け、既成観念を打ち破るような活躍を見せることは、吉原にとって決して珍しいことではない。2001年4月7日、金沢競馬場の第2レースでデビューしてから四半世紀の歳月を経て、地元金沢を代表する存在となり、日本各地の地方自治体が主催する地方競馬のスーパースターとなった。
「彼は日本で一番のジョッキーです」
ブリーダーズカップ前に取材に応じたフェブランシェの藤田調教師は、そう言い切った。少なくとも彼の確かな見立てによれば、地方競馬の世界で起用できる騎手の中では最高の存在、ということになる。

吉原は西日本の地方都市・金沢を拠点としているが、先ほど自ら口にした「ステッキひとつでどこへでも」というスタンスが、彼を日本中の競馬場へと導いてきた。
地方競馬全14競馬場すべてで重賞勝利を挙げた史上初の騎手であり、金沢競馬史上最速で100勝に到達。2011年と2019年にはNARグランプリ殊勲騎手賞を受賞している。ハッピースプリントで制した羽田盃と東京ダービー、そしてバルダッサーレでの東京ダービー制覇など、ビッグレースのタイトルも数多く手にしてきた。
吉原にとって競馬への旅路は、学生時代に始まった。
「体がとても小さくて、その体を生かせる仕事がいいなと思って。そして滋賀県出身なので、栗東トレセンが近かった。親戚のおじさんとかに体が小さくて何かいい仕事あるかと聞いたら、ジョッキーいいぞと言うので、そこから見るようになったら憧れるようになりました」
「サクラの冠が付いている馬とか、エイシンの冠が付いている馬とかで、サクラローレルとかそういうのが好きだった記憶があります。(騎手では)やっぱり武豊さんです」
テレビの前で応援するうちに募った“ファン心理”は、そのまま騎手への野心を燃え立たせた。JRAのジョッキーになるため競馬学校の試験を受けたが、不合格となる。その後、地方競馬教養センターの試験に挑み、こちらで合格を勝ち取った。
「その当時は、JRAとNAR、地方と中央の違いがそこまでわからなくて、あまり悔しいというよりは、騎手の学校に受かって騎手になれるんだっていう方が嬉しかった。嬉しい気持ちの方が大きかったです」
ただし吉原は、馬に乗ること自体には最初かなり苦労した。それまでほとんど馬に乗ったことがなかっため、基本的な乗馬スキルにおいては決して“天才肌”ではなかった。
「学校に入るまでほとんど馬に乗ったことがなくて、素人から学校に入ったので、初めの訓練が付いていけなくて。それがとても悔しいのと、しんどい気持ちがありました」
転機が訪れたのは、騎手として習得が求められ、今後磨いていくことになる『モンキー乗り』の騎乗姿勢を教わるようになってからだ。
「競走実習というか、基本乗馬からモンキー乗りになってからが、成績も逆転して成績トップで騎手課程を卒業できるようになりました」
晴れて金沢競馬場でプロデビューすると、吉原の騎手人生は一気に花開く。デビュー開催の5戦目で初勝利を挙げると、同年にはNARグランプリ優秀新人騎手賞と日本プロスポーツ大賞新人賞を受賞した。
目まぐるしい成功の連続だったが、当時の彼はまだ粗削りで、ペース配分や戦略・戦術の機微を完全に理解していたわけではなく、生まれ持った運動神経と強い意志に支えられている面が大きかった。
「デビューして1年目で100勝しても、だけども勝ち方が分からない。無我夢中で乗っているだけだったので、何で勝てているかというのを分からなかった状態でした。年齢を重ねるにつれて、勝ち方が徐々にわかるようになってからは競馬の見方はすごく変わりました」
旋風を巻き起こしつつあった新人時代、吉原に初めてJRAのレースに挑む機会が訪れた。舞台は2001年10月下旬の京都競馬場。18歳の誕生日の翌日で、金沢からの遠征馬である2歳牝馬のトゥインチアズに騎乗し、もみじステークスでJRA所属馬たちに挑んだ。
そして、トゥインチアズは見事に勝利を勝ち取った。
「芝の1200mだったんですけど、もう無我夢中で追ってて、ハナに立って逃げて、そのままゴールしました」
「その馬の勝利のきっかけで、JRAの森先生から目をつけていただいて、オーストラリア競馬での修行に行かせてもらったり、そういう縁ができました。ターニングポイントという意味ではトゥインチアズがそうでした」
そのレースをスタンドから見ていたのが、国際派のパイオニアとして知られる森秀行調教師だった。“我が道を行く”スタイルを貫く男である森師は、この3年前にシーキングザパールをドーヴィル競馬場に送り込み、日本調教馬初の海外G1制覇を実現。続いてアグネスワールドで、フランスとイギリスのG1制覇も成し遂げた。
「(森先生には)オーストラリアでお世話になったりとか、そのままドバイへ連れて行ってもらったりで、とてもすごい経験をさせてもらって、恩義を感じています」
「若い騎手、新人なのにそういうビッグレースにどんどん乗せてくれる軽い感じがすごいなと思っています。JRAの馬に乗るというのもほとんどなかった時代、普通なら絶対呼ばれないような地方の騎手ですから、そういう意味では規格外です」
2006年、森師はナドアルシバ競馬場のドバイワールドカップデーで行われたG1・ドバイゴールデンシャヒーンに、スプリンターのアグネスジェダイを送り込み、その鞍上に吉原を据えた。
「(森先生が才能を見出してくれたのは)ありがたいですね。けど、それが育ったのも森先生のおかげだと思います」

今、彼の視線は再びソウルへと向かっている。自身が熱望してやまない海外重賞制覇に向け、ユメノホノオとともに挑む一戦が待っている。
「(前回の遠征は)勝ちにはいってましたけど、初めての遠征だったので。高知競馬から出たことがなかったんです。他場を飛び越えて海外に行ったので、(ユメノホノオは)よく走ってくれたなというのが感想です。次は勝ちたいです」
前回の遠征時には、ユメノホノオの熱心なファンが現地まで応援に駆けつけた。吉原はその献身への感謝も忘れない。
「応援が力になりますね」
もっとも、それが一番と言うべきかもしれない。彼は携帯電話を取り出すと、幼い娘・りんさんの写真を見せてくれた。
今の彼には、競馬、妻、そして娘という3つの愛すべき存在があることは明らかだ。そのことを指摘されると、彼は「すごく恵まれています」と語り、分かっているといった様子で笑った。
「(娘が)それがモチベーションというかやる気になっています」
「本当にストイックに、本当はもっと遊んだり、人生に彩りをと思うんですが、競馬に乗るのが好きなので、それがすごくうれしくて競馬に集中しています」
彼の視線はぶれることなく、海外重賞制覇への決意も揺るぎない。出走取消がその行く手を阻もうとも。

