フローレン・ジェルー騎手にとって、今季は奇妙な一年だった。その締めくくりとして、彼は日本での短期免許に前向きな気持ちで臨もうとしている。
だが、このフランス人騎手にとって「奇妙な出来事」は今に始まったことではない。振り返れば、チャーチルダウンズのゴール板を半馬身差の2着で通過してから、ほぼ3年の歳月が経った後、『2021年のケンタッキーダービー勝者』として正式に認められたこともあった。
ケンタッキーダービーでマンダルーンの勝利が正式に確定したのは、メディーナスピリットの失格が決まった2024年2月のことだった。まさに“非現実的”という言葉が似合う出来事であり、ジェルーはその勝利を「奇妙な状況」と表現する。
それでも、今年4月のG1・ドバイワールドカップの勝利には、そうしたゴタゴタは一切なかった。
もちろんドラマはあったが、それはすべてコース上の出来事だった。ジェルーはヒットショーでゴール直前に強襲し、残り200mでは3着が精一杯に見えたところからミクストを捕らえ、手に汗握る結末でメイダンの大一戦を制覇。690万米ドル(約10億円)の優勝賞金の取り分を手にしたのだった。
ただし、その勝利もジェルー自身の言葉を借りれば、“非現実的”だった。
ヒットショーは英国のブックメーカーでは単勝67倍という低評価にとどまり、World Poolの馬券発売でも42.3倍という伏兵だった。一方で、日本国内の馬券市場では、G1・サウジカップの勝ち馬で、後にG1・BCクラシックを制するフォーエバーヤングが2.1倍の断然人気を集めていた。
この勝利は、新興勢力ながら有力馬主として存在感を放つカタールのワスナンレーシング、そしてマンダルーンも管理していた強豪のブラッド・コックス厩舎にさらなるタイトルをもたらした。
一方、鞍上のジェルーと言えば、すでに米国のジョッキー陣の中でも確固たる地位を築いていた存在だ。
ケンタッキーダービーやペガサスワールドカップの勝利に、ブリーダーズカップ制覇やアーリントンミリオンでの勝利もある一流ジョッキーであり、過去5年間は北米賞金ランキングで毎年トップ10入り。さらにその前から含めて、11年連続で年間123勝から217勝の間の数字をマークしている。
年度代表馬のガンランナーやモノモイガール、イディオマティックといったスターたち(いずれもコックス厩舎)の手綱を取ってきた男が、このビッグレース制覇を足がかりに、再び年間100勝超えのシーズンへと一気に駆け上がっていく。そう考えるのが筋だった。
だが、ジェルーに待ち受けていた現実は違った。

ケンタッキーを拠点とするジェルーは現在、G1・チャンピオンズカップで堀宣行厩舎のルクソールカフェに騎乗する来日初週に向けて、日本滞在の準備を進めている。その一方、今季のアメリカ国内での勝利数は75勝に甘んじている。
それでも、総獲得賞金は1,040万米ドルと十分な数字ではあるものの、昨年の北米での数字からは600万米ドルの減少。過去10年間で平均1,510万米ドルを稼いできた水準を考えると、例年を大きく下回っていると言わざるを得ない。
ジェルーはIdol Horseの取材に「正直言って、今回(ドバイWC)のような大きなレースを勝てば、そこから上り調子で成績は良くなっていくと思っていました」と語り、今季の成績を振り返る。
ドバイワールドカップの後、いまいち勢いに乗り切れなかった今シーズンのジェルー。おそらく、その理由はさまざまな要因がぶつかり合った結果だろう。
そもそもどのジョッキーも、競馬特有の“波”と向き合わなければいけない宿命にある。運命の歯車が回り始めても、突然向きを変え、勢いが鈍ったり、失われたりすることがあるのだ。
そして、ケンタッキーを中心とする一部地域を除けば、米国の多くの地域では競馬の先行きが不透明になっている現状もある。ジェルーはそれに関連した別の要因も加わっていると見ている。
「単純に、今のケンタッキーの競馬がものすごくハイレベルになっているという事実はあります」とジェルーは説明する。
「新しいジョッキーがたくさん入ってきています。特にイラッド・オルティスJr.とホセ・オルティスはその代表例ですね。ルイス・サエスのような騎手も、以前はニューヨークを拠点にしていました。それが今は、そのニューヨークのジョッキーたちがケンタッキーに乗りに来ている。そこが一番大きな変化だと思います」
競争の激化は、スポーツをより面白くする要素ではある。ただし、馬というパートナーに依存する競馬の世界では話が複雑だ。「馬がいないと何も始まらない」と言われるとおり、騎乗機会が減ればトップ10に入るようなジョッキーであっても、すぐに立場を失いかねない。
ジェルーは今もコックス師の厚い信頼から恩恵を受けている。ドワイヤーステークスを制したディスコタイムもその一頭で、同馬に騎乗して5戦5勝とパーフェクトな成績を挙げている。それでも、北米ナンバーワンジョッキーであるイラッド・オルティスJr.が、コックス厩舎の主戦騎手であることは明らかだ。
直近のチャーチルダウンズ秋開催は、今年から同地に拠点を移したオルティスJr.が44勝でリーディングジョッキーの座をつかみ、ホセ・オルティスが2位、サエスが3位と続いた。コックス師もリーディングトレーナーとなり、その20勝のうち17勝でオルティスJr.が手綱を取っていた。
難しい状況に置かれるジェルーだが、こうした状況について不満を口にしているわけではない。“ブルーグラスステート”として知られるケンタッキー州で暮らし、働く魅力もよく分かっている。
「ケンタッキーは暮らしやすいですし、とくに家族連れにも住みやすい場所です。競馬の賞金レベルも素晴らしいから」とジェルーは語る。
「ニューヨークに拠点を移したとしても、周りの環境はここほど良くありませんし、今はあちらの賞金水準はケンタッキーと同じか、少し低いくらいです。だから、きちんと計算できる人なら、ケンタッキーの方が稼げると分かるはずです」
「ケンタッキー州が競馬と競馬場にどれだけ資金を投じてきたかは一目瞭然です。キーンランドであれチャーチルダウンズであれ、次々と施設が整備されていく。そうした光景を見ると、『この競馬はまだしばらく続いていくんだな』と思えるんです」
「ですが、他の地域では状況は厳しいものがあります」とジェルーは言う。「競馬場が取り壊されたり、賞金が下がったりしていて、とても競馬の将来が明るいとは思えない場所もありますからね」
一方、JRAの状況はまったく異なる。現在の日本競馬は堅調なファン層を背景に、中央集権的に管理された番組体系、充実したインフラ、高水準の賞金を備えている。
ジェルーにとって、日本競馬で騎乗することは以前からの目標だった。ここ数年、JRAの関係者からも札幌で行われるワールドオールスタージョッキーズへの招待を受けており、あとは予定とスケジュールの折り合いをどう付けるかという問題だった。
「札幌で8月に行われる騎手招待競走はこちらの大きな開催と重なるんです」
「なので、ここ数年はずっと招待を断らざるを得ませんでした。今年も参加を熟考したのですが、やっぱり同じように断ることになってしまって。それで、その後も少し連絡を取り合っていたんです」
するとJRAの担当者から、短期免許の申請をするよう勧められた。ジェルーが自分の資格要件を確認すると、申請すれば受け入れられる可能性が高いとの前向きな回答が返ってきた。
「だから、数週間前に実際に申請してみたんです。そうしたらとんとん拍子に進展しまして、気が付いたらこうして日本に行くことになっていました」
ジェルーは来日初週から、いきなりG1レースの大舞台に飛び込むことになる。日曜日のG1・チャンピオンズカップでは堀宣行厩舎のルクソールカフェに騎乗する予定だ。
日本競馬についても、SNS上にあふれる情報やレース映像のおかげで十分な予習ができていると手応えを話す。ジェルー自身もInstagram(@fgeroux)やX(@flothejock)で積極的な発信を行っている。
「世界中の競馬をできる限り追うようにしています」とジェルーは明かす。
「ルクソールカフェは、今年のケンタッキーダービーに出走して以来ずっと注目し続けてきた馬なんです。自分がその馬に乗ることになったと知ったときは、とてもワクワクしました。前々から追いかけてきた一頭ですからね」
「今の時代、インスタグラムやXで誰かをフォローしているだけで、世界中の競馬を追いかけることができます。ゴール前の短い動画やレース映像のクリップも簡単に見られますから。それだけじゃなく、日本馬が中東で結果を出している様子や、最近ではフォーエバーヤングがBCクラシックを勝ったシーンなんかも、すぐに目に入ってきます」
「日本のレースもできるだけたくさん見てきました。特にここ数年のチャンピオンズカップは全部チェックしています。あのコースはダートですし、対応には自信があります。馬がその馬場をこなしていて、なおかつ強い馬に乗っているなら、あとはやることはシンプルだと思います」

ジェルーの前にも、JRAでは数々のフランス出身ジョッキーが自身の腕を試してきた。元騎手のオリビエ・ペリエや、JRAで7回のリーディング獲得という伝説を築き上げた、クリストフ・ルメール騎手もその一人だ。
しかし、米国拠点のジョッキーとして見ると、ジェルーのケースはかなり珍しい。米国の騎手がワールドオールスタージョッキーズやジャパンカップの開催週にスポット参戦することは多いが、数週間の短期免許取得は数少ない。ジェルーは12月28日の有馬記念当日まで、日本に滞在して騎乗を続ける予定だ。
ヨーロッパ出身という背景と、芝・ダート両方のレースでの豊富な経験。他のアメリカ人ジョッキーと比べても、日本競馬に対する適応力には自信があると、ジェルーは抱負を語る。
「アメリカのジョッキーのほとんどは、右回りのコースを乗ったことがありません。私はフランスで2年間ほど乗っていたので、直線コースでも、左回りでも、右回りでも、バリエーション豊富なレースを経験してきました」
「ヨーロッパのジョッキーの多くは、必ずしもそうしたオールラウンドな経験を持っているわけではありません。私は芝だけでなくダートでも何千勝と勝ってきましたし、ダート競馬には本当に精通していると思っています。そういう点でも違いがあります」
「ポジショニング、キックバック、ペース、どれを取っても芝とダートはまったくの別物だと考えていますし、その経験を少しでも日本に活かせれば、自分にとっても良い方向に働くと期待しています」
ジェルー曰く、ルメールは「15、6歳の頃」から知る旧友であり、深いリスペクトを抱く存在でもある。そんなルメールは、通訳兼連絡係としてアダム・ハリガン氏を推薦するなど、具体的なアドバイスも含め、さまざまな手助けをしてくれている。
「クリストフ(ルメール騎手)は良き友人で、とても親切です。いつも助けてくれますし、彼の地元である日本に僕が行くときには、なおさらですね」とジェルーは言う。
「彼はフランス時代からすでに素晴らしいジョッキーでした。ニアルコスファミリーやアガ・カーン殿下といった、欧州の大手オーナーたちと専属契約を結び、ビッグレースをたくさん勝っていました。そうした契約を手にしていたわけですから、常にトップにいたのは当然です」
「ですが、JRAの通年免許を取得するというのは、そんな彼にとっても並大抵のことではありません。ものすごく勉強しなければいけないですし、それを成し遂げたことに対して、フランス国内でも大きな誇りとして受け止められていると思います」
「すべてを捨てて別の国に行くというのは、簡単なことではありません。そうした決断をするには、大きな決意と、自分の能力を信じる気持ちが必要なんです」
ジェルー自身も、キャリアの比較的早い段階で同じような選択をしている。2007年、21歳だった彼は、騎手から調教師に転向した父ドミニク・ジェルーのもとを離れ、当時カリフォルニアを拠点としていたパトリック・ビアンコーヌ調教師に背中を押されて北米競馬に挑戦した。
年末には本格的にアメリカに移り住み、最初はシカゴで騎乗機会を求めて必死に戦う日々を送る。2015年、ケンタッキーへと活動の場を移したことをきっかけに、ジェルーは徐々に北米トップクラスのジョッキーへと駆け上がっていった。
そこで出会ったのが、妻のケイシーさんだ。彼女は故ルイス・スピンドラー元騎手の娘でもある。2人の間にはオリヴィアとセリーヌという2人の娘がおり、ジェルーは2018年にアメリカの市民権を取得した。
家族は、クリスマス休暇で子どもたちの学校が終わったタイミングで、短期間ながら日本滞在に合流する予定だ。
ジェルーは、日本でどんな成績を残せるかは予想できないと話す一方で、短期免許で信頼を勝ち取った外国人ジョッキーが、その後に日本馬で大きなチャンスを掴んできた事例も把握している。
「足掛かりを一つ作ることができれば最高ですね」とジェルーは言う。「この時期はG1シーズンなので、今日本に行くタイミングはとても良いように思います。まずは経験を積みたい。ずっとやりたいと思いながら、これまでなかなか実現する機会がなかったことですから」
2025年の幕が開けた時点で、ジェルーの頭の中には“12月の日本”という選択肢はなかった。それでも、日本で過ごす年の瀬が、この「奇妙な一年」の最終章を飾るエンディングとなるかもしれない。