クリストフ・ルメール騎手は40代半ばに差し掛かり、今となってはアスリートとしての残された時間を意識する時期にある。
日本で7度のリーディングジョッキーに輝き、今もなお全盛期を誇るルメール。まだ残された未達の目標、未知の頂に登り詰めたいという意欲が、今の彼を突き動かす原動力となっている。
「まだ引退するなんて話はありませんって」とルメールは引退説を笑い飛ばす。
近年、同世代の一流騎手たちは引退説の憶測が飛び交う時期にあるが、それを明確に否定したという点は大きい。この先待っている騎手生活の中で、さらにG1タイトルやリーディングを積み重ねることは想像に難くない。
「もちろん、引退する日はいつか来るでしょうけど、まだ日本でやりたいことはあります。騎手の仕事を楽しめていますし、大手の馬主やブリーダーからのサポートも得られています。馬上にいることが自分にとっての幸せです。今は一歩一歩、シーズンごとにやっています」
とはいえ、年齢はすでに45歳だ。2023年4月4日で、JRAの騎手免許を取得してから10年が経過する。ミルコ・デムーロ騎手とともに、今もなお通年免許を取得した唯一の外国人騎手であるルメールは、そのキャリアの中でまだ手にしていない『やり残したこと』を追いかけている。
今週、彼はドバイへと飛び、ドバイワールドカップデーの4鞍に騎乗する。これまで、21世紀を代表する名馬のイクイノックスやアーモンドアイで勝利を収めてきた開催だが、新たな勝利を追い求めている。
そして、ドバイが終われば、次の新たな挑戦が待ち受けている。それがシドニーだ。ルメールは人生で初めてオーストラリアのシドニーに向かい、ランドウィック競馬場のG1・クイーンエリザベスステークス(2000m)でローシャムパークに騎乗する。
このため、日本を不在とする期間は2週間に及ぶ。JRAでは大阪杯と桜花賞という2大G1レースが控えており、クラシック常連騎手のルメールが桜花賞に騎乗しないのは異例の事態だ。
「桜花賞の時期は桜が満開で、とても美しいレースなんですよ」と彼は語る。日本競馬の1000ギニー的立ち位置である桜花賞の週末には、阪神競馬場は満開の桜で包まれる。
「3歳牝馬路線の重要なレースであるのは確かですが、シドニーで騎乗できる機会は自分にとって特別です。二度と乗る機会は無いかもしれない、逃したくないチャンスなわけです。オーストラリア行きはノーザンファームのマネージャーと相談した上で決めました。シドニーに送り出してくれて嬉しかったです」
「日本では何度もリーディングジョッキーになる機会に恵まれ、調教師や馬主の方々からのサポートにも恵まれています。ですが、私の騎手としてのキャリアが永遠ではないことも覚悟しています」
「できる限り、この仕事と情熱を味わい続けたいですし、馬と一緒に世界を旅することは長年の夢でもありました。今までやってきたこともそうです」

シドニー遠征を決めた背景には、アメリカの大レースやサウジアラビアへの遠征、そして毎年恒例となっている日本のドバイ遠征といった、近年目立っている各国へのスポット参戦がある。
「シドニーのような新しい場所へ行く機会があるなら、ぜひ行ってみたいとなるのが自分の考えです。ここ数年、ケンタッキーダービーやBCクラシックに騎乗できる機会がありましたが、素晴らしい体験でした」
「そういう大レースは騎手人生の集大成でもありますし、世界最高峰の場所であるシドニーで騎乗できるのであれば本当に貴重なチャンスです。私自身にとって重要な機会ですし、とてもワクワクしています」
ルメールにとってオーストラリアは初めてではない。自身の騎手キャリアを振り返る中で、思い出のレースの一つに挙がるのは、ドゥーナデンで大接戦を制した2011年のメルボルンカップだ。
「あのメルボルンカップは騎手人生に残るレースでしたね。オーストラリアは競馬大国ですし、スポーツ熱も高い国です。そんな国を代表するレースを勝てるなんて、外国人である自分にとって本当に特別な瞬間でした」
「シドニーは今回が初めてなので、競馬場の雰囲気を味わえるのを楽しみにしています。オーストラリアの大レース当日の盛り上がりは騎手として気持ちが高まるものがあります。この年齢で新しい経験ができるのは楽しみですね」


クイーンエリザベスSで騎乗する6歳馬のローシャムパークには大きな期待を寄せている。昨年、ルメールがドバイからの帰国途中で不在だった大阪杯では、戸崎圭太騎手が騎乗して2着に入っている。
11月にデルマーで開催されたG1・BCターフではルメールが騎乗して大健闘の2着。その後、トム・マーカンド騎手が騎乗したG1・有馬記念(2500m)では7着に終わった。
「今回は距離短縮の一戦になりますが、ローシャムパークにとってはピッタリの距離だと思います。前走の有馬記念はスローペースが災いして、引っ掛かる場面が目立ちました。悪い走りではなかったのですが、それが響きましたね」
「トリッキーなコースのデルマーには対応できたので、もっと広いコースに変われば走りやすいはずですし、ベストパフォーマンスが期待できるはずです。才能が開花するまで時間は要しましたが、海外経験を積んだ今、オーストラリアに適応できない理由はないはずです」
「本当に能力はありますし、強烈な末脚を何度も披露してきた馬です。タフな馬でもありますし、かなり自信を持っている一頭なんですよ」
ローシャムパークへの自信をのぞかせるルメールだが、その前に待っているのはドバイだ。現時点では4レースへの騎乗を予定しており、イクイノックスのような超大物はいないものの、傑物揃いのラインナップであることには間違いない。
G1・ドバイシーマクラシックでは、オークスを制した二冠牝馬のチェルヴィニアに騎乗予定。G1・ドバイターフではエリザベル女王杯勝ち馬のブレイディヴェーグ、G2・UAEダービーではアドマイヤデイトナとコンビを組む。
そして、G2・ゴドルフィンマイルではアメリカの強豪馬、スティールサンシャインに騎乗する。
チェルヴィニアは2024年の牝馬三冠のうち、オークスと秋華賞を制覇。G1・ジャパンカップでは4着に入る健闘を見せたが、2月中旬のG2・京都記念では9着と不本意な結果に終わっている。
「チェルヴィニアは大好きな馬なんです」とルメールは話す。
「前回の結果は残念でしたが、馬場が悪かったですし、ペースも遅かった。本調子の走りではありませんでした。昨年も桜花賞では余裕残しの仕上げで出てきて、一度叩いたオークスでは勝ちました。シーマクラシックでは復調に期待していますよ」
「秋華賞では素晴らしい走りでしたし、能力も高い馬です。ドバイにも対応できるでしょう。今回も良い走りを期待しています。なんと言っても、G1馬ですからね」

サンデーレーシングの牝馬はもう一頭いる。ドバイターフのブレイディヴェーグだ。2023年のエリザベル女王杯以降、1年近くの戦線離脱を経験。それ以来わずか3回しかレースを使えていないが、2月9日のG3・東京新聞杯では4着に入っている。
「長い距離と比べて自慢の末脚が発揮できないので、マイル戦は少し短すぎる馬です。なので、ドバイターフの1800mという距離はピッタリですね。ペースが流れてくれれば、良い脚を見せてくれると思います」
そして、ルメールは「ブレイディヴェーグ自身は素質充分の牝馬ですが、相手は強いですからね」と付け加えた。それもそのはず、ドバイターフは競馬ファン待望の豪華メンバーが揃っている。ロマンチックウォリアーとリバティアイランドの両雄はルメールも警戒する存在だ。
ルメールは世界最高峰の騎手の一人だが、彼自身もまた競馬ファンでもある。子供の頃からの夢だった騎手という仕事が、彼に世界的な成功、財産、名誉、そして金メダル級の業績をもたらしてきた。しかし、まだまだその夢を終わらせるつもりはない。
しかし、時間は常に刻一刻と過ぎていき、いずれ終わりの瞬間が来る。その日が来る前に、たとえ勝つにせよ負けるにせよ、与えられたチャンスはすべて生かしておきたい。それがルメールの本心なのだ。