ヨーロッパの夏競馬の熱気から遠く離れ、バウルジャン・ムルザバエフは故郷アルマトイにいる。ドイツで4度のリーディングジョッキーに輝いたカザフスタンの名手は、昨年11月にカタールのアルライヤン競馬場で骨折を伴う落馬を経験。そのリハビリのため競馬の喧騒から離れた生活を送り、母国で心身を立て直しながら、家族との時間を力に来年の復帰を見据える。
復帰は2026年2月を見込んでおり、その時点で戦列を離れてからすでに1年以上が経過することになる。
ムルザバエフは今もその落馬を鮮明に覚えている。馬の頭越しに放り出される瞬間、空を飛ぶように宙を舞った感覚、そして骨が砕ける嫌な音。映像も一度だけ見たが、それだけで十分だったという。
「11月30日、第1レースでした。300mほど進んだところで馬が倒れたんです」とムルザバエフはIdol Horseに語る。「スタート直後でスピードも速く、私は2番手あたり。すると馬が急に倒れました」
1700mのサラブレッド未勝利戦の裁決委員報告にはこう記されている。「1300m手前で馬が異変を起こし転倒、騎手が落馬……騎手は救急搬送された」
命を落とした馬の名はアクトインライン。ゴドルフィン所有のドバウィ産駒のセン馬で、カタール2戦目の3歳馬だった。
「一瞬の出来事でした。馬は心臓発作でそのまま亡くなったんです」と彼は続ける。「私の背中で何かが砕ける音を聞き、単なる骨折ではないと直感しました。肋骨も折れたのだと思いました」
「骨折は11ヶ所ほどありました。背骨のT6、T7を折って、肋骨も数本折れました。幸い命は助かり、背中にプレートとピンを入れて固定してもらいました。1年後に除去する予定で、それが今年12月になるはずです」
事故の瞬間から搬送、病院で投薬され眠るまで、すべてを記憶しているという。
「すべてを覚えています。馬の頭が下がった瞬間、自分が落ちていく速さまで鮮明に覚えています。救急車で病院に運ばれ、投薬を受けて眠るまでは、すべて記憶に残っています」
事故前、ムルザバエフは再びドイツに戻り、ペーター・シールゲン厩舎の主戦騎手に復帰していた。その前年の2023年は、2022年にJRA短期免許でG1制覇を飾った後、フランスの名門アンドレ・ファーブル厩舎と契約。

フランスで60勝を挙げ、そのうち12勝は重賞・リステッド競走だったほか、ファーブル厩舎のジュンコでドイツのG1・バイエルン大賞も制している。しかし、フランスでは契約騎手の存在や馬主の動向も影響し、思うように騎乗機会を得られない状況に陥った。
「ファーブル師との関係は良好でしたが、ヴェルテメール家の馬にはマキシム・ギュイヨン騎手、ゴドルフィンの馬にはミカエル・バルザローナ騎手と、それぞれ契約がありました。さらにバリーモアレーシングやディートリッヒ・フォン・ベティッヒャー氏(アマーラント牧場)が活動を縮小し、騎乗馬を大幅に減らしました」と振り返る。
「ファーブル厩舎での騎乗馬は半分ほど失いましたが、そこでの時間は大きな財産でした。もしドイツから良い契約の話がなければフランスに残っていたと思います。ただ、シールゲン師から素晴らしい契約をいただき、私はフランスの厳しい環境ではなく、ドイツでの安定を選びました」
また、日本との縁もドイツ復帰を後押しした。2022年後半にJRAで初騎乗すると、年末には『ドゥラエレーデ』でG1勝利を挙げ、JRAでは通算55勝を積み重ねている。
「ドイツからなら日本へ行きやすいんです。冬場はフランスより開催が少ないので、日本や香港に滞在できます。フランスにいると2〜3ヶ月も抜けるのは難しい。もちろんクリストフ・スミヨン騎手なら別ですが、私の立場では忘れられてしまい騎乗機会を失うリスクが高いので簡単ではありません」
「ノーザンファームとも良い関係を築いていますし、吉田勝己さんからも多くのチャンスをいただきました。『日本にまた来てほしい』と声をかけてくださる方も多いので、私自身もまた戻りたいと思っています。あとは状況次第でしょう」
現在はカザフスタンに戻り、友人や両親、兄、2人の姉妹と日々を過ごしている。10代でヨーロッパに渡って以来、これほど長く家族と共にいるのは初めてだ。
「ドイツやフランスにいれば周囲は競馬関係者ばかりで、常に競馬のことを考えてしまいます。でもアルマトイには競馬に興味を持つ人は多くなく、気持ちを切り替えるには最適です」と語る。
体の回復には、ドイツで受けた手術とリハビリが大きく寄与した。
「カタールの病院では手術をせず、ボスがドイツに呼んでくれて、そこで手術を受けました。2ヶ月入院しました」と振り返る。
「これまではあまり動けませんでしたが、先月からリハビリの内容が増えて、今は体が強くなってきました。少しずつですが、騎乗に必要な体力づくりができるようになっています。手術直後は右足の状態が悪かったのですが、今は良くなってきていて力もついてきました。ゆっくりならジョギングもできるようになり、状況は良くなっています」
「2日に1度は約2時間のリハビリをこなし、さらに追加のトレーニングもしています。背中は難しい部分なので、慎重にケアしなければなりません」
ムルザバエフは今後2〜3週間のうちに検査のためドイツへ戻る予定で、その後、骨の回復を助けている背中のプレートとピンを取り除く手術を12月に受けられるよう、診察を受ける見込みだ。
「その後、本格的にトレーニングを始めるつもりです。さらに2週間ほどで再び馬に乗れると思います。レースではなく、ただ馬にまたがって体力を取り戻すためです」と彼は語る。
その一方で、失った騎乗機会を意識すれば募るはずの競争心を、いまの環境が和らげてくれていることも自覚している。そして何より、これまでなかった家族や親しい人々と過ごす思いがけない時間を心から楽しんでいる。
「落馬は辛い出来事でしたが、そのおかげで得られた大切な時間もありました」∎