吉村智洋の騎手としての歩みには、活躍という言葉が付き添っていた。22年間のジョッキー人生の中で、兵庫県の地方競馬において数々の勝利を収めてきた。しかし、彼が最も誇りに思う成功は、息子である吉村誠之助騎手に与えた影響かもしれない。
18歳の誠之助は、現在JRAジョッキーとしての初めてのシーズンを迎え、栗東の清水久詞調教師の下で腕を磨いている。清水調教師は二度の年度代表馬に輝いたキタサンブラックや、G1・コーフィールドカップを制したメールドグラースを手掛けたことで知られている。
「彼を見ていてください」と吉村はIdol Horseの通訳を通じて語り、父親としての自信に満ちた表情を浮かべる。そして、まるで貴重な知識を共有するように身を乗り出して、「10年後、彼がどこまで行くか楽しみにしていてください」と言う。
彼の表情からは、誇らしげな親であると同時に、何が優れたジョッキーを作るのかを熟知した専門家としての確信が伝わってくる。彼は、誠之助がトップジョッキーになるための資質を備えていると信じているのだ。
「幼い頃からジョッキーになりたがっていたので、私の知っていることをすべて教えました。馬の乗り方や馬の心理、私が培ってきたすべてのスキルを彼に教えました。彼の成長と今の姿をとても誇りに思っています。」
吉村の息子はすでにその頭角を現している。2024年3月、阪神競馬場のリステッドレース・六甲ステークスでボルザコフスキーに騎乗し初勝利を挙げた。JRAで20勝、また異例なことにNARでも18勝を挙げている。彼は父を追うように、時々園田競馬場に戻る。地方競馬でのJRA騎手一日最多勝、武豊騎手が持つ4勝の記録に並び、その後6月20日に5勝を挙げて記録を更新した。わずか4カ月足らずのキャリアだった。
しかし、大阪の中心部から北西約9マイルの猪名川沿いにある、園田競馬場は吉村智洋の地元だ。
2002年4月17日、彼はここで騎手としてのキャリアをスタートさせ、以来、胴黒袖赤の勝負服は園田の象徴的な存在となっている。彼はNARの全国リーディングを3度(2018年、2022年、2023年)獲得し、これまでに3,300勝以上を挙げている。2023年1月11日には、園田競馬場で一日に7勝を挙げる偉業も達成した。
「絶対に負けたくありません。常に勝利を目指して戦っています。騎手として人生で最も素晴らしい瞬間はレースに勝つことです。応援してくれる関係者全員に報いることができ、彼らの笑顔を見ることができるからです。彼らが喜んでくれれば自分も幸せです。」
しかし、彼が今の地位にたどり着くまでの道のりは決して平坦ではなく、いつも笑顔だったわけではない。聡明だが厳しい師匠である橋本忠男調教師の下でキャリアをスタートさせた。
「最初は、師匠はとても厳しいと思いました。毎日厳しくて、最初は楽しい日よりも辛い日が多かったです」
「ですが、しばらくして師匠が私のことや私のキャリアを本当に気にかけてくれているのが分かるようになりました。師匠の指示に従えばジョッキーとして成功できるかもしれないと感じ、実際に競馬での成績が良くなっていきましたので、正しい方向に進んでいると確信しました。師匠が助けてくれているのが分かり、こんな師匠に巡り会えたことにとても感謝しています」
橋本調教師への深い尊敬と愛情が、彼が最も誇りに思っている瞬間について語るときに一層明確になる。
「橋本先生が引退する2日前に、私は園田でエイシンニシパに乗って先生にとって最後の勝利を挙げたんです。そのレースでは、他馬に約2センチの僅差で勝ちました。これが私のキャリアで一番誇らしい瞬間でした」
2002年5月に園田でヤマノファイナルに乗って初勝利を挙げて以来、吉村のキャリアは素晴らしいものとなった。彼はNARの主要レースで数多くの勝利を収め、兵庫県での年間最多勝利数や、2023年1月11日に園田で7勝を挙げた1日の最多勝利数といった記録を樹立してきた。彼は全国タイトルを3度獲得しており、その勝利数はそれぞれ296勝、349勝、335勝に達している。現在39歳の彼には、さらなる記録を積み重ねる時間がまだ残っている。
吉村のキャリアは、父のカズミさんが『大の競馬ファン』だったことが大きなきっかけとなっている。父親は幼い頃から彼を競馬場に連れて行ったが、家族がその他に競馬に関わるつながりはなかった。
父は学校の教師だったが、息子は勉強にあまり興味を持たなかった。学校が好きで、父のように教育の道を歩むことを考えたかと聞かれ「いやいや、全然そんなことはありませんでした」と彼は笑いながら答えた。
「私は小柄だったので、父はジョッキーを目指してみたらどうかと勧めてくれました。しかしJRAの競馬学校には入れず、代わりに地方の騎手学校に行きました。中学校を卒業したばかりの頃で、あの年齢では体はたくさん食べたいと思うのですが、食事制限があって学校が提供するものしか食べられませんでした。お菓子やいろいろなものを食べたかったけれどそれはできませんでした。当時はそんな気持ちでした」
彼の育ちが騎手学校での生活に適応するのに役立ち、早朝からの長い一日にも耐えられるようになった。そこで彼は、馬術の基礎とキャリアの基盤となるスキルを学び始めた。
「父が教師だったので、門限が決まっているなど家でも厳しく育てられました。だから、騎手学校に行く前から礼儀正しさや秩序、規律を守ることを家で教えられていたので、学校生活はそんなに大変ではありませんでした」
「園田での騎手の『調整ルーム』も気になりませんでした。園田では週に3日ありましたが、それも仕事の一部だったので問題ありませんでした。」
JRAの競馬学校に入れずNARでキャリアを積むことになった彼だが、それでも時折JRAのレースで騎乗する機会はあった。しかしJRAでやっと初勝利を挙げたのは、2023年7月16日の福島競馬場でのことだった。
「JRAで勝てない期間が本当に長く続いて、レースに勝つことに拘ってきましたが、いつもうまくいきませんでした。その日は最初のレースで勝って、さらに最後のレースでも勝てました。最初のレースで勝ったことで、全てのプレッシャーが一気に解放されて、結果的に2勝することができました」
彼の勝利は、クラシック勝ち調教師の手塚貴久が管理するオーキッドロマンスと、水野貴広調教師が管理するフィンガークリックに騎乗してのもので、2005年以降のJRAでの戦績は157戦2勝となった。
「多くのNARジョッキーがJRAに行きたがっています」と彼は言う。
しかし彼が見習いの頃から注力してきたのは、JRAのジョッキー試験を受けて中央競馬の華やかな舞台に移ることではなく、NARで勝利を積み重ねることだった。内田博幸や戸崎圭太のようなNAR出身のスターたちがその道を歩んだが、吉村は目の前の仕事に専念していた。
吉村は、JRAのワールドオールスタージョッキーズの前夜に札幌で行われたイベントで、Idol Horseに語っている。戸崎や他のJRAジョッキーたちは、2日間のレースに備えて『調整ルーム』に入るため席を外したところだった。吉村はこの12名のジョッキー対抗戦、地方競馬代表だ。
「地方でジョッキーを始めた頃は毎日がとても厳しくて、他のことを考える余裕はありませんでした。NARでどんどん上手くなることだけに集中していて、JRAの試験のために再度勉強することなんて考えられませんでした」と彼は言う。
「勝つとただ幸せな気持ちになります。重賞レースでも下のクラスのレースでも、勝利は勝利ですし、いつも素晴らしい気分になれます。JRAにも良い点はあるけれど、日本には北は門別競馬場から南は佐賀競馬場まで地元の競馬場がたくさんあって、それぞれが独自の特徴を持っています。多くのジョッキーが自分の競馬場が一番だと思っていて、その場所で乗ることに誇りを持っていると思います。」
彼が園田に抱く誇りは明らかだ。園田は彼の故郷であり、その場所やそこで働く人々への敬意が彼の言葉から伝わってくる。
「園田はとても歴史のある競馬場です。関西地方で最も歴史のある競馬場で、これまでに優れた騎手がたくさん出てきた場所でもあります。園田のレースは常に競争が激しく、スタートからゴールまで熱い戦いが繰り広げられます。そしてファンはそれを愛しています。これが園田の特徴です。」
その園田の特徴は、吉村自身の特徴でもある。そしてその戦い抜く精神は、若き誠之助にも確実に受け継がれているに違いない。