「自分は年寄りじゃありません。でも、もう若くもないんです」
ミルコ・デムーロ騎手が発した、その言葉には厳しい現実が込められている。46歳を迎えたイタリア人ジョッキーは、衰えたわけではないと必死に証明しようとしているが、周囲の認識は根強く、それを覆すのは簡単ではない。
中世イングランドのクヌート大王が潮に抗った逸話ほど無謀ではないが、決して楽な戦いではない。もちろん、そのことはデムーロも理解している。
彼はこの夏、南カリフォルニアのデルマー競馬場を拠点にリフレッシュと再起を図ってきた。先週末には同場の夏開催最大の目玉、G1・パシフィッククラシックが行われたばかりだった。
レースはデムーロより7歳年上の大ベテラン、ジョン・ヴェラスケス騎手が勝利。翌日にはサラトガでもG1を複数勝利し、まるで「46歳はまだ老いる歳ではない」という主張を証明してみせたかのような活躍を披露した。
もっとも、ヴェラスケスは北米競馬界の殿堂入りジョッキー。長年築き上げた実績と確固たる支持基盤があり、誰もが認める存在だ。一方のデムーロは、同様に築いてきたすべてを置き去りにして、新天地へとやってきた。アメリカ西海岸ではゼロからその基盤を作り上げなければならない。
デムーロがカリフォルニアに拠点を移したのは、JRAの通年免許を手にしてから11年目のシーズン途中だった。JRAではクラシック、ジャパンカップ、グランプリを含む通算1,329勝という輝かしい成績を残してきた。しかし、かつて競馬界の中心にいたその姿は、ここ数年で徐々に、そして確実に周縁へと追いやられていった。
「日本は世界で一番素晴らしい国です。清潔で、人々はとても親切で、敬意を払ってくれます。どこへ行っても愛されて、本当に文句なんて一つもありません。日本は最高です」
デムーロは心からそう語る。だが、その言葉の先には避けられない現実が続く。
「でも、僕はとにかく乗ることが大好きなんです。これが僕の人生です。馬に乗ることを愛しているし、何かを変えなければと思いました。家にこもって自分を責め続けるわけにはいきません。『後ろすぎた』『スタートがよくなかった』とか……そんな批判ばかりで、正直つらかったです」
「『最後まで追っていなかった』なんて次々と言われるようになって、疲れ果ててしまうんです」
現実と周囲の認識が混ざり合い、負の連鎖は進んでいく。そうデムーロは感じている。
「3年前にアメリカへ戻ろうとしたことがありました」
「ただその時は東京から関西に移籍したばかりで、当時のエージェントからこう言われたんです。『今アメリカへ行ったら、今残っている数少ない仕事さえ失ってしまうぞ』と。『もっと頑張れば状況は好転する』とも言われました。僕はずっと努力してきたのに、それでも負の連鎖は変わらず、もう6年が経ってしまいました」
2015年春、イタリアで幾度もリーディングタイトルを獲得してきたデムーロは、フランスのクリストフ・ルメール騎手とともにJRA史上初となる外国人としての騎手通年免許を取得した。現在に至るまで、この栄誉を手にしたのはこの二人にとどまっている。
デムーロは通年免許取得後、JRAでの最初の4シーズンは118勝、132勝、171勝、153勝という圧倒的な数字を記録した。重賞勝利は57勝にのぼり、そのうち18勝がG1という輝かしい実績を記録した。
さらに、通年免許を取得する前から日本競馬史に残る名場面を生み出してきた。2011年、東日本大震災直後にはヴィクトワールピサでドバイワールドカップを制覇。翌年の天皇賞・秋では、東京競馬場での勝利後に天皇陛下へ深々とひざまずき、一礼する姿が日本中の競馬ファンの心を打った。1999年から続く短期免許での騎乗期間を通じて、数々のドラマを作り上げてきた。


しかし2019年、年間勝利数は91にまで落ち込み、重賞勝利もわずか3つに減少。その後6年間、数字はさらに下がり続け、2025年は夏を前にわずか12勝という成績で日本を離れることになった。
若手の有力日本人騎手が台頭し、さらに海外遠征馬には別の外国人騎手が優先的に起用される。デムーロはまさに流れに逆らう立場となっていた。さらに追い打ちとなったのが、長年の夢だった『外国人初のJRA調教師免許取得』に対しての、JRAからの厳しく冷たい対応だった。
「2年後、3年後、4年後でもいいから、ここで調教師になれる可能性はあるのかと聞いたんです。すると、『試験はすべて日本語で行われる』と言われました。日本語は話せても、漢字を書くことはできない。つまり、自分にはチャンスが与えられないということです。それを知って、自分が何をしたいのかを考え直さなければいけませんでした」
「この6年間、ずっと落ちていく一方でした。その状況を甘んじて受け入れることはできなかったんです。そんな中で頑張り続ける意味を感じられず、『挑戦するなら、いっそのこと別の国で挑戦しよう』と決めました」
デムーロにとってアメリカは初めての地ではない。若き日、西海岸で騎乗していた経験がある。
「17歳のときにここで乗っていたんです。ボビー・フランケル調教師だったり、リチャード・マンデラ調教師といった名伯楽のために騎乗しました。あの頃からずっと、心には良い思い出として残っています」
「アメリカという国が大好きなんです。本当に素晴らしい国だと思います。だから3カ月間だけ試してみて、ここで自分がやっていけるのか、それとも駄目なのかを見極めてみようと決めました。今のところは順調にいっていると思います」
今後については、この先数週間のカリフォルニアでの結果にかかっているようだ。
7月18日、レナード・パウエル厩舎のリボンズで未勝利戦を制し、幸先の良いスタートを切ったデムーロ。しかし、信頼を勝ち取るのは簡単ではないと覚悟していた。
8月下旬、G2・パットオブライエンステークスに騎乗した際には、レース中の落馬事故に見舞われた。“痛み” はあったというが、不幸中の幸いとして骨折はゼロ。復帰への熱意が冷めることもなかった。
デルマー夏開催が終わる頃には勝利数は6勝に到達。そのうち3勝は直近9日間で挙げたものだった。
勝利を飾ったのはグレードレースではなく、未勝利戦やクレーミングレース。賞金もおよそ1万6,000ドルから4万8,000ドルと、JRAの高額賞金とは比べものにならない。それでも、この夏だけで騎乗馬の獲得賞金は50万ドルを突破した。
「日本と賞金を比べることはできません」とデムーロは語る。
「デルマーオークスでさえ30万ドル程度で、日本ならG3レベルです。でも人生はお金だけじゃない。お金は大切ですし、家族を養うために必要です。ただ、どれだけお金を稼いでも幸せとは限らない。僕は馬が大好きだからここにいるんです。もちろんお金は稼ぎたいし、生きていくためにも必要ですが、それがすべてじゃないんです」
「なぜ日本を離れたのか、とよく聞かれますが、理由はシンプルです。日本ではもう以前のようにたくさん乗ることができなくなり、努力しても結果につながらない状況に疲れてしまったからです」
精神的にも肉体的にも限界に達していたデムーロにとって、カリフォルニアでの生活は自分を取り戻すきっかけとなった。競馬場とビーチがすぐ近くにあり、調教師や厩舎関係者の家でバーベキューを楽しむ日常は、心を和ませ、人とのつながりを感じさせてくれる。そして何よりも、朝から多くの馬に乗れることが彼にとって最大の喜びとなっている。
「日本ではダービーやオークスなど大レースにはまだ乗れていましたし、ノーザンファームの有力馬にも騎乗させてもらえて本当に感謝しています」
「ですが、通常開催の日は1日わずか2~3鞍しか騎乗できず、水曜日の朝の調教でも1頭か2頭に騎乗するだけでした。それあって体重管理にはとても苦しんでいたんです。ジムで鍛えることはできても、馬に乗ることとは違います」
「カリフォルニアでは毎朝たくさんの馬に乗れるおかげで自然に体が絞れます。今は115ポンド(約52kg)ですが、日本では120ポンド(約54.4kg)を維持するのが精一杯だったんです」
「みんな僕がイタリア人だからパーティーが好きで、ワインをたくさん飲むと思っていますが、実はあまり飲まないんです。僕の生活はとてもシンプルです。朝起きて仕事に行き、馬に乗って、シャワーを浴びてビーチに行き、そしてまた戻って競馬場へ行く。そして早めに夕食を済ませて、夜9時にはベッドに入ります。翌朝も早いので、毎日この繰り返しです」
「火曜日は少しだけゆっくりしていて、エージェントからは『毎日ずっと働いているんだから休め』と言われます。でも僕は『日本では休みすぎたから、休む必要はない』と答えるんです。僕は働くことが大好きで、馬に乗ることが唯一の趣味なんです」

デムーロの新たなパートナーは、アメリカ競馬界の敏腕エージェント、トニー・マトス氏だ。かつてアンヘル・コルデロ、ラフィット・ピンカイ、ゲイリー・スティーヴンスといったスター騎手を担当してきた実績を持つ。
「アメリカで最高のエージェントと組めて、本当に幸せです。電話がつながらないときに流れる留守電メッセージで『こちらはミルコ・デムーロの代理人、トニー・マトスです』と聞こえてくるんです。それだけで胸が熱くなります」
「ここに来たばかりなのに、みんな僕を覚えていてくれたんです。『ミルコ、うちの厩舎に来てくれないか。明日この馬に乗ってくれ、その次はあの馬だ』と声をかけてくれて、本当にうれしかった」
厩舎地区でのこうした温かい交流だけでも、日本で居場所を失いかけていたデムーロの心を癒し、新たな希望を与えるには十分なものだった。
「日本では、厩舎に入って挨拶をしても、周りがまるで『君はもうベテランで、成績も振るわないから使えないよ』という目で見られるようになってしまいました」とデムーロは振り返る。
「日本では勝率が悪いと乗せてもらえないんです。でも、良い馬に乗らなければ勝率なんて上げられません。良い馬が回ってこない限り、数字を上げるなんて不可能です。全力で努力しても、6年も結果が出ない。こんな負のスパイラルでは、さすがに疲れ切ってしまいます」
人が離れていく現実に大きなフラストレーションを抱えながらも、デムーロは日本での生活を完全に諦めたわけではない。日本には自宅もあり、成功をつかんだ騎手がどれほどの賞金を得られるかを、彼は身をもって知っている。
「日本でうまくいくなら、わざわざほかの国に行く理由なんてありません。日本は世界最高の競馬国ですし、日本とその人々に対して大きな愛情を持っています。日本に戻るべきかどうか、今は自分でも判断がつきません。これから考えなければなりません」
「来年の免許更新のためには日本に戻らなければなりません。せっかく2年間必死に頑張って試験に合格して取得した日本の免許を手放すのは惜しいですからね。僕はこれまでにG1を43勝していますし、自分の腕もまだまだ通用すると思っています」

デムーロは “誰もが成功を望めるわけではない” ということは理解している。その上で、「日本では12勝しかできないようでは、家族を養えない」と語る。その厳しい現実こそが、彼が将来について深く考える理由の中心にある。
「僕の夢はいつかブリーダーズカップを制すること。そのために今も努力しています。でも、今のところ何も決まっていません。今はあらゆる可能性を受け入れるつもりです。6年間ずっと自分を追い込み、責め続けてきましたから、もうこれ以上自分を追い詰めたくありません。この夏はただ人生を楽しみたいんです。そして、毎日馬に乗ることが僕にとって一番の喜びなんです」
将来、再び日本へ戻るのか、それともアメリカで新たな拠点を築いていくのか。その答えは見えていない。それでも南カリフォルニアで過ごした時間は、確かに彼に活力を与えた。
「妻が『あなた、どうしたの?こんな顔は初めて見たわ!』と言うんです」とデムーロは笑う。「アメリカにいると、自分が10歳若返ったように感じます」
