殿堂入りトレーナー、デヴィッド・ヘイズ調教師は、一頭の名馬がどれほど貴重かを誰よりもよく知っている。35年にも及ぶ調教師人生が終盤に差しかかった今、自身が手掛けた馬の中で「最高の一頭」が手元にいると感じている。
その確信が、視線を一層研ぎ澄ませる。今見据える、カーインライジングのミッションはシンプルだ。少しでも長く、この旅路を続けることだ。
ヘイズ師がこの馬について語るとき、その言葉には長年の経験と、失ってきた名馬たちへの思いから来る「守りたい」という感情が浮かび上がる。「こんな馬は代わりがいません」とヘイズ師は言う。「G1を107勝してきましたが、こういうタイプは初めてです。本当に特別な存在です」
今、ヘイズ師にとって目標は、目先の一勝だけではない。重視しているのは、キャリアの“長さ”とその馬が後世に残す足跡だ。「心も脚元も健全な状態で走らせ続けることができれば、歴代屈指の名馬になるはずです」と彼は言う。
そのために、ヘイズ師は21世紀初頭の最初の香港在籍時には持ち得なかった“ツール”を最大限に活用している。香港ジョッキークラブが広州近郊に建設した、中国本土のトレーニングセンター、従化トレセン(従化競馬場)だ。
2018年8月まで、香港所属馬の日常はシャティン競馬場の“鉄とコンクリート”に囲まれた世界にほぼ限定されていた。同じ馬道、同じトンネル、同じ慌ただしい日課が、毎日、延々と繰り返される。
そうしたシステムでも名馬は生まれてきたが、オーストラリアでリンジーパーク調教場を設立し、『競馬場外での調教』を切り拓いた父コリン・ヘイズ元調教師の背中を知るヘイズ師には、常に物足りないと感じていたものがあった。
メンタルのリセット、そして本当の意味での“景色の変化”だ。
従化トレセンの環境は、それを提供してくれる。広々とした日中放牧地、青々とした草地、広いコースでのキャンターやギャロップ、ウォーターウォーカー、そして何より広い空間。馬が頭を下げ、深く息をし、競走馬が“馬らしく過ごせる”環境がそこにはある。
「従化の環境は、シャティンに比べると少しリラックスできると感じます」とヘイズ師。「環境を変えることは、馬にとっては休暇と同じくらいの効果があるんです。カーインライジングも、ほかの多くの馬と同じように、従化に出すと本当に良くなります」
ヘイズ師がカーインライジングのために描いた、綿密に練られたキャンペーンの“礎”になっているのが従化の存在だ。シーズンに8戦という決めたルーティンは動かさない。昨季と同様に、ヘイズ師は来季も、その次のシーズンも、できれば同じ形で行きたいと考えている。
ヘイズ師によれば、カーインライジングは1シーズン8走が目標で、厩舎の平均的な馬が12~13戦するのとは対照的だ。慎重すぎると言う人もいるだろうし、世界一のスプリンターを持ちながら、出られるレースに片っ端から使おうとしない陣営は多くないはずだ。
「この負担が少ない使い方が、馬を守ってくれます」とヘイズ師はこのローテーションについて語る。「キャリアを少しでも長くできるはずですし、何よりカーインライジングはまだ5歳馬だということを忘れてはいけません」
カーインライジングのように爆発的なスピードと強靭な体質を兼ね備えたスプリンターにとって、この“忍耐”こそが、6歳、7歳になってもトップレベルで走り続けるための鍵になるのかもしれない。今のところ、精神面も、肉体も、競走意欲も完璧に保たれていることから、ヘイズ師にはこの方針を変える理由が見当たらない。
その感触を裏付けるのが、積み上げてきた数字だ。実に15連勝。破られないはずだったトラックレコードを更新し、続くレースでは自らその記録を塗り替えた。馬体は今もなお成長を続けており、ヘイズ師によれば、レースを走るごとに「体質がますます強くなっている」ように見えるという。
カーインライジングの前走と同日の開催に、ヘイズ師は他にも7頭を出走させていた。しかし、レース後に飼い葉をしっかり平らげていたのは、通算6度目の68秒切りを決めたこの馬だけだったという。
「あのレース(ジョッキークラブスプリント)のあとも、彼はきっちり完食していました。素晴らしい体質です。だからこそ、遠征もきっとこなせると考えていましたし、実際にそうなりました」
カーインライジングは、前年同時期よりもさらに馬体を増やして戻ってきた。それもまた、このシステムが機能しているサインだとヘイズ師は見ている。「休まずに調教をこなしながら、それでいて馬体重が増えているときは、いつだって良い兆候なんです」とのことだ。
香港国際競走の3週間前、G2・ジョッキークラブスプリントで見せた「バリアトライアルのような」走りも、ヘイズ師の手応えを確かなものにした。
「あのレース前は、これまででいちばん緊張せずにいられました。信じられないくらい自信があったんです。何かとんでもないアクシデントでも起きない限り、負けるイメージが湧きませんでした」

ただ、次のレースは勝手が違う。香港スプリントは世界が注目する一戦だ。
国際G1の名誉が懸かるとき、調教師の仕事は少し変わってくることをヘイズ師はよく知っている。「国際レースは別物です」と同師は言う。
「世界から新しい馬がやって来て、新しいチャレンジが待っている。レースまで3週間の準備期間をかけて、そこに向けて作り上げていくんです」
カーインライジングは香港国際競走まではシャティンに滞在し、その後、リフレッシュのために再び従化へと放牧に出る予定だ。
これこそ、ヘイズ師が最初の香港時代には持っていなかった大きなアドバンテージがある。今は、才能を長く輝かせ、チャンピオンをできる限り大事に守るための手段を手にしているのだ。
「リセットはとても重要です」とヘイズ師。「香港で使いながら調子を落としている馬がいれば、必ず従化に送りますし、従化からレースに出ていて調子がいい馬は、必ずまた従化に戻します。いつも満杯ですよ」
カーインライジングは、その究極の成功例だ。圧巻の走りを見せたあと、次走まで3週間以上空けば、馬運車に乗って北へ向かい、開放的な空気のなかで英気を養う。その度に鋭さを増して戻ってきており、今は誰にも止められそうにない。12月14日には、16連勝目をかけた一戦が待っている。
その先はどうか。計画は意図的なまでに“退屈”だが、ヘイズ師は一切悪びれない。昨季と同じく、高額賞金が待っている国内路線に専念する予定だ。
当面の目標は香港スピードシリーズ(香港短距離三冠)で、完全制覇には500万香港ドル(約1億円)のボーナスが付いてくる。そしてG1勝利数も3勝が加算される。昨季と同じローテで5戦を無敗で駆け抜ければ、追加で5,000万香港ドル(約10億円)を稼ぐ計算になる。
イギリスのメディアは、6月のロイヤルアスコット遠征の可能性を盛んに話題にするかもしれない。しかし、シーズン半ばには通算獲得賞金が1億5,000万香港ドル(約30億円)を超えているであろう馬を、地球の裏側まで連れて行って賞金50万ポンド(約1億円)のレースに使うことに、ヘイズ師はあまり魅力を感じていない。
「彼がどこか別の場所へ行くことはありません」とヘイズ師は言う。ランドウィックでのG1・ジ・エベレスト連覇を目指す遠征は別として、長期プランからの唯一の“例外”になり得るのは、そのジ・エベレスト遠征の一環として現地でもう一戦使うことくらいだ。
それでも、基本線は1シーズン8走と、きちんとしたオフシーズンの休養で変わらない。
「去年と同じように、しっかり休ませてあげたいです。それが“やり過ぎ”を防いでくれます」
この連勝はどこまで伸びるのか。ヘイズ師は番組表をめくりながら、カーインライジングほどの戦績を持つ馬としては珍しいことに気付いた。
「今のビッグネームの多くは7歳馬です。カーインライジングはまだ5歳馬。それが本当に楽しみなんです」
香港はこれまでも、数々の名スプリンターを送り出してきた。ただし、この路線での“長期政権”は滅多に生まれない。層の厚さに加え、シャティンの1200mは世界でも指折りのタフなコースだからだ。
その象徴がサイレントウィットネスの17連勝だ。連勝が途切れた後に挙げたは、結局1勝しか挙げられなかった。6歳以降はその1勝のみで、最後の9連敗のままターフを去った。従化トレセンの存在は、そうした歴史の“天井”を破り、カーインライジングをより長く頂点にとどめるための切り札になり得るのだろうか。
少なくとも一つだけ確かなことがある。カーインライジングが厩舎で待っている限り、デヴィッド・ヘイズという男が香港を去ることはないということだ。
「カーインライジングの調教を付けるのは本当に楽しいですよ」とヘイズ師は言う。「朝起きて、“さあ仕事に行こう”という気持ちにさせてくれるんです」