『天賦の才』、それはアンソニー・クルーズの腕を表現するときによく使われる言葉だ。生ける伝説である彼は騎手、そして調教師としての歩みを始める前、祈りを捧げることを欠かさなかった。これが神から与えられた才能だとしても、不思議ではない。
「カトリックの家族に生まれたので、母はよく『求めよ、さらば与えられん』と口にしていました。だからこそ、見習い騎手チャンピオンになる前もそう祈りました。リーディングジョッキーになれるようにも祈りました。それも叶いました。ヨーロッパやビッグレースで乗れるように祈ったら、それも叶った。リーディング調教師になりたいと祈れば叶い、勝ちたいと祈ればそれも叶えられたんです」
清々しい青空が広がり、まるで4K解像度のような風景の山々が広がる、ある日の香港。トニーこと、アンソニー・クルーズはシャティン競馬場を見下ろすデッキに腰を掛けていた。今日のような日は、遙か彼方の光景まで眼下に広がる。数々の名勝負を繰り広げてきた競馬場、九龍や香港島、その先にある香港を象徴する名所の獅子山まで一望できる。
2024年12月11日、まだ見習い騎手だったクルーズがハッピーバレー競馬場にて17歳で初勝利を挙げた日から、ちょうど50周年となる日だ。1400mのクラス6・ハンデ戦、シベリア出身のジョージ・ソフロノフ調教師が管理するシーラスに騎乗して、決死の逃げに打って出た。その日、今はもう使われていない内回りのダートコースにて、6馬身差の勝利を挙げたのだ。
香港史上、類を見ないキャリアを歩んできた彼は、その夜の記憶、レースのことを鮮明に思い出してくれた。
「雨が降っていて、凍えるように寒く、気温はほぼゼロ度だったと思います」
「みんなグローブを探していましたね。自分はただただ飛ばして行きました。誰も競り掛けてこなかった。逃げるのが一番だと分かっていたので、逃げ一択で臨みました。好スタートを切って、先手を奪いに行く。当時、ゴールから100m手前くらいで鞭を落としたんです。裁決委員のレポートには、それが載っていると思います」
ハッピーバレーの砂で構成されたダートコースは一周がわずか1280mと小回りのため、先行馬が有利になってくる。さらに砂質もその一因であり、後ろの馬や騎手は先行馬のキックバックで粒状の砂を猛烈に浴びせられることになる。
「ダートは砂浜の砂で作られていたので、サンゴだったり石も混じっていました」
「ちゃんと選別されていなかったので、顔に当たると切り傷ができるくらい痛い。ただ、逃げ馬にとっては理想的な馬場ですよ。逃げられなかったら、2完歩もしないうちにゴーグルが真っ黒になる。3枚、4枚くらい予備を着けて乗る必要がありました。最初のやつが駄目になったらすぐ外して、次のやつに替えるって感じです。バケツの水をぶっかけられたみたいなもんですね」
6レース目、その日の最終レースで挙げたクルーズの勝利は、裁決委員の報告書だけでなく地元紙の見出しにも載ることになった。当時、人気を博していたベテラン、ジョニー・クルーズ騎手の息子であるこの若き逸材は、香港ジョッキークラブが新設した競馬学校の一期生でもある。そのため、デビュー前から注目を集めていた存在でもあった。
サウスチャイナ・モーニング・ポスト(SCMP)で競馬担当の編集者を務め、その厳しい目利きで知られていたロビン・パーク氏だが、その夜を報じた記事の見出しは「若手が脚光を浴びた」だった。その日、同じ見習い騎手のエディ・ロー騎手も初勝利を挙げており、二人の活躍が大々的に報じられた。
「初勝利がとても嬉しくて、この仕事をずっとやっていきたいと思えました」と、クルーズは当時を振り返る。その語り口は、まるでクラス6のダート戦を勝った日が先週の出来事であるかのような熱意に満ちあふれている。
「レース後に思ったことは、『よし!これからどんどん勝っていくぞ』でした。これこそやりたかったことなんだ、これが自分の場なんだと。本当に楽しかったですし、好きになれたんです。またレースに乗って、チャンピオンを目指したいと思えました」
そのシーズンの終わる頃には、香港競馬に新たなスターが誕生したことは明白だった。
――クルーズは大胆かつ知的な騎乗でライバル騎手を出し抜き、その日3勝を挙げた。これは、5月26日に開催されたシーズン最終日での3勝について、SCMPのジム・マクグラス記者が報じた記事の文章だ。
騎手としてのクルーズの特徴、その中で最もよく知られているのは、恐れを知らない果敢な逃げだ。確かに、彼は巧みな技術を持ち合わせ、ペース判断力も抜群の騎手だった。しかし、それだけが取り柄のジョッキーというわけではない。
クルーズによれば、ペースをコントロールする逃げの技術は単純に実用的だから磨かれたそうで、ダートでのキックバックを避けるためだけではなかったという。1978年、彼が初のリーディングジョッキーに輝いた時代は、逃げは安全策として知られていた。1番人気を負かすべく、共謀して作戦を組むライバル陣営もいたからだ。
さらに、クルーズの逃げには他の騎手にはないスキルが隠されていた。折り合いをつけ、余力を後半に残しておけるようなリズムで走らせる技術である。
「シンガポールで騎乗したとき、とある調教師にこう尋ねられました。『なんで手のひらが荒れていないの?』って。手のひらが荒れる?最初は何を言っているのかさっぱりでした。ですが、普通は騎手の手のひらはマメがたくさんできていて、皮膚が厚くなっています。自分は折り合いをつけるのが得意だったので、手綱を引っ張ってマメができることが無かったんです。だから、『使い方が上手いのかもしれないですね』と返したんです」
クルーズの騎手キャリアは、未だに香港発の地元騎手の中でそれに並ぶものはいない。ジョッキークラブの競馬学校を卒業した第一期生であり、最も成功した『地元のスター』に違いない。
今では開催日が88日という長丁場になっている香港競馬だが、それ以前のシーズンが遙かに短かった時代に、946勝という記録を残している。強敵のゲイリー・ムーア騎手がリーディングを7回獲得した時代に、彼は6回の優勝を誇る。また、香港史上最強馬の一頭に数えられるコタックに騎乗し、重い斤量を背負いながらも、香港ダービーや数々のビッグレースを制してきた。
クルーズの功績はそれだけではない。ヨーロッパでは、香港競馬が世界に知られるきっかけとなった。フランス、イギリス、アイルランドの主要なG1レースを制し、世界有数の大手馬主から騎乗依頼を受けた。英チャンピオンステークス連覇の実績を誇る、トリプティクのような名馬ともコンビを組んでいる。
クルーズの50年に及ぶ歩みの中で、もう一つ特筆すべきことは、チャンピオントレーナーとしての第二章だ。騎手としての輝かしいキャリアと同じくらい、その影響は大きかった。
1997年に調教師としてのキャリアをスタートさせたクルーズだが、調教師リーディングで首位を獲得するまでには2年も必要なかった。2004/05シーズンには当時の新記録である91勝を挙げ、再びリーディングトレーナーの座を手にしている。
「調教師として頂点を極めるのは、騎手として頂点を極めることより難しいと思います」この『2つのキャリア』を比較する質問をクルーズに問いかけると、彼は即答した。
「厩舎は預かる馬の数に制限がありますし、香港独特のシステムもあります。レーティングが上がれば上がるほど、勝つのが難しくなってきます」
こうした制約があるのにも関わらず、クルーズはトップクラスの馬を数多く育ててきた。サイレントウィットネス、ブリッシュラック、カリフォルニアメモリー、ブレイジングスピード、ペニアフォビア、パキスタンスター、エグザルタント、タイムワープ、カリフォルニアスパングル、これらは全てクルーズ厩舎が輩出した名馬だ。
2024年4月に節目の1500勝を挙げたときと同様、その8ヶ月後に50周年を迎えたときも、クルーズは平常心を保っている。
「当然、騎手であろうと調教師であろうと、念頭にあるのは可能な限り多くのレースに勝つことです。1500勝目を手にしたときも、その勝利を思い出深く振り返るのではなく、もっと勝ちたいという気持ちがあります」
香港ジョッキークラブが定めた現在の規定によると、調教師としての定年は75歳だ。騎手、調教師としてあらゆるレースを勝ち取ってきた彼が次に祈ることは、一体どのようなことなのだろうか?
「いつだってビッグレースに勝ちたい、それが私の役目です。騎手だった時代と変わらず、レースに勝つことです。それは調教師人生でも変わりません。馬を健康で幸せな状態に整え、怪我を避け、可能な限り多くのレースに勝つ。それが全てです」