頭を垂れ、手に線香を握りしめ、デヴィッド・ユースタス調教師は静かに佇んでいた。
立ち上る煙はゆるやかな渦を描き、前に並べられた丸ごとの焼豚3頭の上で揺れている。シャティンの二階建て厩舎の陰で三度深く礼をするその仕草が、新しいシーズンの幕開けを告げる。土の香りを帯びた線香の香りには、幸運を願う祈りと長く受け継がれた伝統の重みが込められている。
金曜の午後、厩舎で行われていたのは『バイサン』と呼ばれる儀式だった。新シーズンの繁栄を祈る香港独特の習わしで、アシスタントトレーナーのキャッシュ・リー助手が細部に至るまで段取りを整え、ユースタスはその一つひとつの手順を丁寧に踏んでいく。
周囲では馬主、新たな馬主候補、騎手、厩務員、厩舎の友人ら、約100人もの人々が静かに見守っていた。
それは厩舎を祝福する場であると同時に、仲間と喜びを分かち合う場でもあった。香港での初年度シーズンを成功裡に終えたユースタスは、迷信深い香港競馬の世界において、この儀式が持つ意味をよく理解している。
「文化を受け入れるかどうか、それが大事だと思います」とユースタスは語る。この日、バイサンに参加した騎手はルーク・フェラリス、ライル・ヒューイットソン、アンドレア・アッゼニ、カリス・ティータンの4人だった。
「自分のためだけではなく、厩舎やスタッフ、そして馬主さんたちのためにやるものです。皆で気持ちをひとつにできるのは素晴らしいことですし、少しでも運を呼び込めたらと思います」
「キャッシュ(リー助手)は風水にとても詳しいんです。その影響で自分も自然と信じるようになりました。シーズン前にはお寺にも行きますし、そこでまた幸運を授かれたら嬉しいですね」
その儀式のわずか2日前、この厩舎はまったく違う姿を見せていた。焼豚もドラゴンフルーツも、賑やかな人波もない。日の出前の静けさの中、聞こえるのは蹄の鈍い響きだけ。ユースタスはTREK製の自転車にまたがり、A4用紙を片手に厩舎と馬場を往復していた。紙にはその日の調教予定が細かく書き込まれている。
シャティン競馬場のメイン周回馬場からユースタス厩舎へ向かうには、プールやウォーキングマシン、そしてジョン・サイズ厩舎の前を通り過ぎる。そこは冷房が強烈に効いており、「ジョンのところはいつも特別に寒いんです」とユースタスは笑う。さらにデヴィッド・ホール厩舎を抜けると、整然としたユースタス厩舎の静かな一角にたどり着く。
オフィスの壁には、週ごとのバリアトライアルの予定がホワイトボードに記され、その横にはモーリス産駒のヒトツで制した2021年のヴィクトリアダービーの写真が額に収められている。その下の棚には、キアロン・マー調教師との6年間で手にしたトロフィーが並んでいた。
冷房にさらされ、やや色褪せてはいるが、確かな歩みを物語る輝きは今も失われていない。
ユースタスは、午前中最後の調教馬が馬場へ向かうのを見送りながら、そのヒトツの勝利写真に視線をやった。豪州時代、共同調教師としてコンビを組んだキアロン・マー師と築いた栄光の日々が思い起こされる。
「キアロンには大きな恩義を感じています。素晴らしい機会を与えてくれましたし、今も大切な友人です。もちろん、いつかは自分の厩舎を持ちたいと思っていましたが、あの期間とパートナーシップは本当に素晴らしいものでした」
「共同調教師の道を離れて香港に来たことを後悔したことはありません。今は香港での調教師としての毎日を心から楽しんでいます」

香港という熾烈な舞台で、ユースタスがすっかり居心地の良さを感じているのも不思議ではない。34歳の彼はデビューシーズンに36勝を挙げ、勝率9.9%は21人の調教師の中で5位にあたる成績だった。厩舎の戦力を着実に厚くし、その地位を固めつつある。
ユースタスの競馬一家としての血統を踏まえ、調教師としてのスタイルをどう表現するかと問われ、ユースタスは椅子にもたれかかり、少し考えてから答えた。
ユースタスの血統はまさに競馬一家らしく、有名人物の名が連なっている。父ジェームズはニューマーケットのパークロッジ調教場で30年以上にわたり調教師を務め、叔父のデヴィッド・オートン師はケープオブグッドホープでG1・ゴールデンジュビリーステークスを制し、ヨーク競馬場で開催されたロイヤルアスコットを大いに盛り上げた。
「自分では忍耐強い方だと思っています。ありきたりな言い方かもしれませんが、馬をできる限りの状態に仕上げることがすべてです。その点はキアロンのもとで徹底的に学びましたし、彼から学んだことは誰よりも多いと確信しています」
「香港の調教スタイルはオーストラリアと非常によく似ていますから、あちらで得た経験はこの地で大いに役立っています。ただ、若馬を育て、環境に適応させるという部分はイギリスで学んだものです。イギリスではバリアトライアルもなく、使える手段も限られていますので、若い馬を丁寧に育て上げる術を身につけざるを得ませんでした」
豊富な国際経験と人脈は、今も彼の大きな武器だ。データの活用、レース選択、そして何より新戦力の発掘に至るまで、朝の調教の合間にもそれが生かされている。
「そのネットワークを活用しない手はありません」とユースタスは言う。
「うちにはなかなか良い仕組みができていますし、北半球と南半球それぞれにエージェントがいて、常に情報を探っています。自分はイギリスで育ち、多くの人とつながってきましたから、大抵の馬については何らかの情報を得られます」
「同じように、オーストラリアでも10年間を過ごし、多くの関係者と知り合いましたので、どこかで馬が勝てば、その馬がどんなタイプかをつかめる自信があります。一番大切なのは気性を見極めることです。馬体の健全性については香港の厳格な検査がありますし、能力についてはレースを見れば一目瞭然です」
話がひと段落したところで、信頼するスタッフのアルバートがオフィスに顔を出し、最後の馬が周回馬場に向かう準備が整ったと告げた。ユースタスはポケットからA4用紙を取り出し、厩舎を出た。
調教騎乗者たちにそれぞれの指示を伝えると、ユースタスは再び自転車に跨り、その背中を追うように周回馬場へと向かった。
ユースタス厩舎には今季、新たに複数のプライベート購入馬(PP、外国での出走歴がある輸入馬)が加わった。その中には今年のロイヤルアスコット開催で好走し、4歳シリーズを視野に入れる3歳馬が2頭いる。
1頭目はG3・ハンプトンコートステークスで3着に入ったグリッターリングレジェンド、2頭目はゴールデンゲーツハンデキャップで2着に入ったサクソンウォリアー産駒のセラフガブリエルだ。
「どちらも順調に馴染んでいますが、レースまでは8〜10週間は必要です」とユースタスは馬たちが周回馬場を回る様子を眺めながら語った。「決して急ぐつもりはありません。彼らはすでに高いレーティングを持っていますから、香港で一度勝てば大きな目標への出走権を得られ、そこから逆算して計画を立てることができます」
ロイヤルアスコットの好走馬が厩舎に加わることは、ユースタスにとって特別な意味を持つ。今年6月、デヴィッドはイギリスへ戻り、兄弟のハリーが調教師としてG1・2連勝を飾ったウィナーズサークルに立ち会っていた。
タイムフォーサンダルズがコモンウェルスカップを制した直後、父ジェームズはITVのカメラの前で息子のデヴィッドに課題を託した。
「まるで魔法のようで、夢のようです」と父は語った。「二人の息子はとても負けず嫌いですし、デヴィッドはオーストラリアで大きな成功を収めました。次は香港からロイヤルアスコット勝ち馬を送り出す番です。叔父が管理したケープオブグッドホープのようにね」
この言葉を思い出すと、ユースタスは笑みを浮かべる。競争心と国際舞台への情熱は、しっかりと彼に受け継がれている。
「それが夢ですね。でも辛抱強くいかないと。キアロンと一緒に何頭か海外遠征しましたが、結果は出ませんでした。いかに難しいことか思い知らされました。大事なのは “その馬が適しているか” です。今の厩舎にその馬がいるかと問われれば……たぶんまだいないでしょうね。でも、可能性は残されています」
今は香港での戦いに集中する時だ。71頭を抱える厩舎には、未出走のPPG(海外未出走の輸入馬)が14頭、PPが13頭、さらにG1馬のビクターザウィナー、そして2024年香港ダービー馬のマッシヴソヴリンが名を連ねる。
とはいえ、数字の大きさに浮かれることはない。ユースタスは静かに計画を語り始める。
「9月は静かなスタートになると思いますが、10月半ばから後半にかけて本格的に動き出すつもりです」
「いいチームだと思いますが、まだ若いチームです。未出走か、経験の浅い馬が大半ですから、まずは環境に適応させる必要があります。今年の一番の課題は、馬の使い分けですね。同じレースでぶつかり過ぎないよう、しっかりプランを練らなければなりません」
1年前との違いは明確だ。当時、ユースタスは28頭から厩舎の頭数を増やすことを目標にしていた。いまやシャティンと中国・従化トレセンの入厩馬を合わせると、70頭以上を管理する身となった。新設された改修済みの厩舎へ移る選択肢もあったが、熟慮の末に彼は現状を維持することを決めた。
「私たちは本当に良い場所にいます」とユースタスはオフィスの窓から厩舎を見渡しながら語った。
「隠れたように静かで、プールや新しいトレッドミル、周回馬場にも近い。新しい厩舎は素晴らしい出来栄えで、そこでも上手くやれたと思いますが、でもふと考えたんです。『満足しているのに、なぜ引っ越す必要があるのか?』と」

その感覚は、単なる建物や厩舎の位置にとどまらない。仕事場を離れても、ユースタスは香港の生活リズムを文化と同じように自然に受け入れてきた。街の喧騒、食文化、そして厳しい夏の湿度さえも、今では愛着のある日常の一部となっている。
「香港の生活は大好きです」とユースタスは笑顔を見せる。
「オーストラリアの大規模なチームで、頻繁に遠征していた生活から、どこへ行くにも30分圏内で済む香港に来たことは本当に新鮮で、心から楽しんでいます。ジェイミー・リチャーズやデヴィッド・ヘイズ、それにデヴィッド・ホールの各調教師には本当に多く助けてもらいました。アドバイスを仰ぐには最高の存在ですし、大きな支えになっています」
「その経験を生かし、昨季の基盤の上にさらに積み重ねていきたいと思います。今のチームは素晴らしいですし、来シーズンの開幕ももう間近です」
調教シーンから二日後、バイサンの儀式で、線香の煙が消えゆき、集まった人々が散り始めるころ、ユースタスは香港という環境に完全に溶け込んだ調教師の姿を見せていた。初年度で築いた土台が、次のシーズンで試される。その先に待つもの、父から託された課題も、やがて訪れるその時を待っている。