Aa Aa Aa

デヴィッド・ヘイズ調教師のスーツは、ついに限界を迎えた。世界最高のスプリンターを管理する重圧とはどういうものなのか、それを如実に物語る証拠が彼自身のスーツだった。

そもそも、なぜこのスーツを毎回着続けているのか、不思議に思う人も多いだろう。 茶色とベージュの中間のような、なんとも言えない色合い。仮装パーティーで一度だけ着て、そのままクローゼットの奥にしまい込まれそうな代物だ。

問題は、カーインライジングの連勝が始まった日に、たまたまこのスーツを着ていたことにある。それ以来、“験担ぎ” として脱ぐことができなくなってしまったのだ。

この日も気温30度超、湿度は90パーセント近くに達する蒸し暑さ。激しい雨に見舞われ、香港ジョッキークラブ(HKJC)が台風警戒を24時間体制でモニターしているような日であっても、この勝負服を脱ぐことは許されない。

カーインライジングがまたしても圧勝し、世界最強スプリンターとしてライバルを翻弄した数分後、ヘイズ師の背中には大きな汗染みが浮かんでいた。まるで、馬よりも調教師の方が苦労しているかのようだ。

「本当はネイビーブルーのスーツがいいのですが」と、ヘイズ師は笑いながら語る。

「帽子もくたびれてきましたし、靴もすり減ってきています。でも、このスーツを着てカーインライジングが勝ち始めましたから、縁起を重んじる性格としては変えるわけにいかなかったんですよ。オーナーも絶対に変えてほしくないと言いますからね」

「だから、これは自分のためというより、オーナーのために続けているんです」

DAVID HAYES / Class 1 Chief Executive’s Cup Handicap // Sha Tin /// 2025 //// Video by Idol Horse

香港の競馬場では、どこを向いても縁起を担ぐ人々の姿が見られる。

2025/26年シーズンの開幕日、ファンたちは「新年の幸運」を願って、幸運の鐘を鳴らすために列を作る。調教師や騎手、馬主たちのもとには「今季も頑張ってください」という言葉が絶え間なく届けられる。

レースの日、香港ではしばしば『実力より運のほうが大切』とさえ言われることがある。ヘイズ師のスーツも、その運を象徴する存在なのかもしれない。

香港ジョッキークラブの新顔、南アフリカ出身のブレット・クロフォード調教師は、今季初出走を迎えた。長い調教師のキャリアを経てようやくたどり着いたこの香港競馬の世界だが、香港では気まぐれな馬主たちが、最初の数週間、せいぜい数カ月の成績だけで評価することが多い。

クロフォード厩舎の初陣を飾ったスピーディースマーティーは1番人気でゲートインしたが、やや苦しい展開となり、ゴール寸前で差されて2着に敗戦。将来に希望を抱かせる内容ではあったが、馬主たちは早くも「この新調教師はツキがあるのかどうか」を気にし始めている。クロフォード師が真の評価を得るには、もうしばらく汗をかく必要がありそうだ。

香港では、週2回の競馬開催が続く中、調教師は管理頭数を70頭に制限され、騎手たちはザック・パートンの「おこぼれ」を奪い合う。そんな環境では、一戦一戦が落とせない勝負だ。新参者にとって、その重みはいっそう大きい。

そんな香港で、ただ一頭だけ『運』など関係ない馬がいる。それがカーインライジングだ。

数千人のファンに囲まれてパドックを闊歩する姿は、場内の視線を独り占めにする。13連勝という偉業がほぼ約束されているため、オッズはもはや “元返し” に近い水準だ。だが、目を引くのはその圧倒的な強さだけではない。メンコの横に刻まれた小さなロゴ。来月、ロイヤルランドウィック競馬場で行われる総賞金2,000万豪ドルの世界最高賞金スプリント戦、ジ・エベレストのロゴである。

パートンが馬をゆったりとゲートまで送り出すころには、観客たちはもはや記念馬券を手にする感覚で投票していた。かつてウィンクスが全盛期を迎えていた頃と同じ光景だ。最終的な配当はわずか1.0倍。

HKJCが最低保証配当を維持するために資金を投入し、ようやく1.05倍が確保された。

「だからシャンパンは出せないんですよ」と、HKJCのウインフリード・エンゲルブレヒト=ブレスゲスCEOは冗談を飛ばす。彼は毎開催後、その日の売上げや韓国競馬の馬場状態、果ては気候変動までを話題に、記者たちに向けて恒例のスピーチを行うのだ。

「これは広告費だと考えるべきです。シーズン開幕日に世界最高のスプリンターを披露できる機会がある。それは香港にとってこの上ない魅力です。多少の最低保証の資金が必要でも構いません」

「グロリア・ゲイナーの歌に『I Will Survive(私は生き残る)』というのがありますが……」

果たして、来月押し寄せる香港発の台風を前にして、現地オーストラリアのスプリンターたちは生き残れるだろうか。

カーインライジングの敗戦など誰もが想像していない。シーズン開幕戦の香港特区行政長官盃では、ライバルたちは圧倒的な斤量差を持ってしてもその実力差を埋めることは叶わず、王者に太刀打ちできなかった。だが人々を震撼させたのは、勝利そのものではなく、その勝ち方だった。

これまで常に華麗なパフォーマンスを見せてきたカーインライジングは、この日完全なる支配者へと進化した。今や単なる王者ではない。もはや、脅威そのものである。

KA YING RISING / Class 1 Chief Executive’s Cup Handicap // Sha Tin /// 2025 //// Video by Idol Horse

レース後、汗を拭う間もなく顔を輝かせるヘイズ師。近くでは関係者たちが外付けの冷却ファンの前に避難している中、彼はカーインライジングの馬体に満足げだった。昨季より35ポンド(約16キロ)増量しているという。脂肪ではなく筋肉だ。この筋肉があれば、パートンが本気を出せば5馬身、いや6馬身差で勝つことも可能だったかもしれない。

HKJCが今季から導入した新たな鞭の使用制限に、パートンはあまり好意的ではない。この日はカーインライジングにほとんど鞭を見せることさえなかった。200m標識からは早々に手綱を緩めて抑え込む余裕があった。それでもなお、4度のG1勝利を誇るラッキースワイネスに2馬身3/4差をつけての完勝だった。

ヘイズ師は淡々と、「パートンですら時々ネガティブになるんです」と語る。しかし、この日の走りに関しては、あのパートンでさえも否定的な言葉を見つけることができなかった。

パートンは香港で絶対的な地位を築き、その発言は競馬界全体に大きな影響を与える。世代最強とされるカーインライジングに対しても、これまで率直に批評してきた。その懸念のひとつが「レース中に手前を替えない」点だった。

手前替えは馬が新たなエネルギーを引き出すための重要な動作であり、ジョアン・モレイラ騎手は、馬にこの動作を巧みに促す天才として知られている。そして日曜、カーインライジングはついに完璧なタイミングで手前を替えた。

開幕日に5勝を挙げ、騎手ルームから場内住宅までの短い道を歩くパートン。その足取りには迷いがなかった。今度ばかりは、一切の否定的な言葉を口にしなかったのである。これは、来月オーストラリアで彼を倒そうとする陣営にとっては恐怖以外の何ものでもない。

果たして、ジ・エベレストでカーインライジングを倒せる馬は現れるのだろうか。

「海外遠征では絶対に過信してはいけません」とパートンは語る。

「オーストラリアのスプリンターたち、そして彼が戦うライバルたちには敬意を持っています。土曜に行われた地元の前哨戦でも、本当に印象的なパフォーマンスを見せる馬がいました。カーインライジングもベストな状態で臨む必要があります」

Ka Ying Rising wins Chief Executive's Cup Handicap
KA YING RISING, ZAC PURTON / Class 1 Chief Executive’s Cup Handicap // Sha Tin /// 2025 //// Photo by HKJC

カーインライジングのジ・エベレスト前売りオッズは現在1.70倍。レースまで6週間も残す中、ブックメーカーはすでに巨額の払い戻しリスクを背負っている。

真の王者は、あらゆる状況を克服してこそ、その称号が揺るぎないものとなる。だが、カーインライジングのこれまでのキャリアを振り返ると、彼が走ってきたのはすべてシャティン競馬場だ。距離もたった1戦を除いてすべて1200m戦、HKJCが整備した高度な排水システムの下、常に良馬場で走ってきた。

これからは未知の環境への挑戦が待ち受ける。厳しい長距離輸送、そして異国のレース当日の雰囲気もその一部だ。ロイヤルランドウィック競馬場では、ファンが馬房エリア近くまで自由に立ち入りでき、何百人もの観客が世界最強と噂されるサラブレッドを一目見ようと集まる。

カーインライジングは、そんな熱気の中でどう振る舞うのか。時折見せる群れのリーダー気質の気性が、試される瞬間が訪れるかもしれない。

シャティン競馬場でのカーインライジングの普段のレースは、静寂に包まれている。ヘイズ厩舎からレース馬房まで、わずかレースの40分前に歩いて移動するだけだ。そこには観客もテレビカメラもおらず、余計なストレスとは無縁の環境が広がっている。何年も変わらない日常、それが彼の圧倒的な強さを支えてきた。

しかし、ジ・エベレストはまったく異なる舞台だ。2017年に創設されたこのレースは、これまで常に『混戦模様』としてファンや出走枠の保有者を魅了してきた。そんな中、ここまで支配的な存在感を示す馬が登場するのは今年が初めてだ。

現在の前売りオッズが本番当日まで維持されるかと問われたヘイズ師は、こう答えた。

「それはトライアルの内容次第ですが、今のオッズは妥当なものでしょう」

「オーストラリア勢もこれから本格的に出てきます。プライベートハリーだったり、ブリアサも、そしてレディシェナンドーはコンコルドステークスで素晴らしい2着でした……もし彼らが再び好走すれば、カーインライジングのオッズは少し上がるかもしれません」

では、その時どうすべきか。ヘイズ師は不敵に笑みを浮かべる。

「そうなった時は、カーインライジングに賭けるんですよ」

ヘイズ師は香港に復帰する前は、オーストラリアでジ・エベレストを制したことがない。だが、そこには忘れられない悔恨の記憶がある。

2017年、記念すべき第1回開催のジ・エベレストで、彼は1番人気馬のベガマジックを送り出していた。しかし、騎乗したクレイグ・ウィリアムズ騎手はスタート直後から迷いを見せながら、外枠から下げて馬群に入れようと試みるも位置を取れず、結局最後方から懸命に追い込んだ。

だが、勝ち馬のレッドゼルの逃げ切りをあと一歩で捕らえられず、無念の敗戦となった。

「ベガマジックは1番人気にふさわしい馬でした。それなのに……クレイグにとって最高の騎乗とは言えなかったですね」

そう語るヘイズ師の目には、今も悔しさが宿る。彼にとって、この敗戦は「やり残した仕事」だ。

その記憶は、今も夜中に冷や汗で目覚めるほど鮮烈なままである。もしかすると今回は、幸運のスーツがその仕事をついに完結させる時なのかもしれない。

アダム・ペンギリー、ジャーナリスト。競馬を始めとする様々なスポーツで10年以上、速報ニュース、特集記事、コラム、分析、論説を執筆した実績を持つ。シドニー・モーニング・ヘラルドやイラワラ・マーキュリーなどの報道機関で勤務したほか、Sky RacingやSky Sports Radioのオンエアプレゼンターとしても活躍している。

アダム・ペンギリーの記事をすべて見る

すべてのニュースをお手元に。

Idol Horseのニュースレターに登録