九龍の雨の夜、偶然雨宿りのために立ち寄った先で、香港ジョッキークラブCEOのウインフリート・エンゲルブレヒト=ブレスゲス氏は、香港における違法サッカー賭博の実態を初めて目の当たりにした。
当時、競馬部門の責任者だった同氏は、急いで飛び込んだ先で賭博の胴元が運営する部屋に足を踏み入れたのだ。その場にいた者たちは一瞬、警察の摘発だと勘違いしたという。
「私はバー兼レストランに入ったのです。入った瞬間、皆はパニックになっていました。15台の賭けカウンターにコンピューター、人々は列をなし、プレミアリーグの賭けを入力していました」とブレスゲス氏は振り返る。
「最初は、彼らが私を警察の潜入捜査官だと思ったのではないかと思いました。少し心配になりましたよ。とても目立っていましたから」
この偶然の出来事が、違法賭博経済の規模を突きつけることになった。その後、香港ジョッキークラブ(HKJC)は、需要を犯罪組織から引き離すために、合法的なサッカー賭博の導入を政府に働きかけ、承認を受け提供を始めた。
しかし、違法市場はその後も成長を続けている。近年は暗号資産(仮想通貨)が “促進剤” となり、特に若年層に違法市場の拡大をもたらしているとブレスゲス氏は指摘する。
「オフショアや違法市場の多くは、この3、4年で50〜60%拡大しました。暗号資産を使う市場では90〜100%成長したところもあります。これはまだ始まりにすぎません。暗号資産は決済が容易なため、多くの若者が違法サイトに流れる要因となっています」
デジタルウォレットや暗号資産取引に慣れた若い世代は、匿名性と、税を課さないことで実現する有利なオッズを売りにする無許可サイトに引き込まれる。従来型の銀行システムが存在しないことは、むしろ魅力の一部とさえなっている可能性もある。
実態を把握するのは難しいが、その市場規模は桁外れだ。国連は違法賭博経済を年間1.7兆米ドル(約250兆円)超と推計している。アジアは依然としてその中心であり、フィリピンやカンボジア、中華圏などのシンジケートは、暗号資産を決済手段として常用している。
2023年にはシンガポールで、この構図を象徴する大事件が起きた。史上最大規模のマネーロンダリング事件で10人が投獄され、当局はフェラーリやロールスロイス、金塊や数百点の高級バッグなど20億米ドル(約2950億円)相当の資産を押収した。背後には中国、カンボジア、フィリピンにまたがる違法賭博ネットワークがあり、ペーパーカンパニーと暗号資産口座を用いて資金洗浄が行われていた。
香港にとっての課題は、この暗号資産を基盤とした巨大ネットワークから、需要を合法システムへ取り込むことだ。そのためHKJCは2003年、政府の承認を受け、サッカー賭博の合法的な提供を開始し、違法市場からの引き離しを図った。
これは、ブレスゲス氏が偶然入り込んだ九龍の裏部屋から、利用者を引き離すことを目的とした措置だった。それから20年以上経った今、売上は年間1,700億香港ドル(約3.2兆円)超を記録し、競馬を上回る規模となっている。税収も290億香港ドル(約5500億円)に達する。
だがブレスゲス氏は、次の波が迫っていると警鐘を鳴らす。バスケットボール、特にNBAや中国・欧州リーグでの違法賭博の急拡大だ。HKJCは香港だけで年間500億〜700億香港ドル(約0.9〜1.3兆円)の違法市場があると推定している。
犯罪シンジケートから需要をそらすというサッカーでの成功を再現することを期待し、合法的なバスケットボール賭博の導入を政府に求めている。
ただし、問題の根は深い。オフショアのプラットフォームは暗号資産による匿名性、無制限の信用供与、税負担のない高いオッズを武器にしており、香港の規制体制は常に追いつくための苦戦を強いられるだろう。
「もし賭けの場を提供しなければ、若い利用者を失ってしまいます。需要の長期的な取り込みには非常に重要なことなのです」とブレスゲス氏は若年層について語る。

九龍での偶然の雨宿りから始まった出来事は、今やブレスゲス氏の在任期間における主要テーマの一つとなった。
それはいかに違法な胴元の一歩先を行くかということだ。裏部屋はブロックチェーンへと姿を変え、影の経済は兆ドル規模にまで拡大した。香港にとっては存亡に関わる問題であり、世界にとっては規制のスピードを試す試金石だ。厳しく規制された政府支援の運営組織は、規制当局がルールを定めるよりも速く進化する暗号資産主導のエコシステムに追いつけるのだろうか。
こうした課題は、10月6日にパリで開催される第59回国際競馬統括機関連盟(IFHA)国際会議でも議題の中心となる。午後のセッションでは、香港ジョッキークラブ、英国競馬統括機構(BHA)、世界宝くじ協会(WLA)、欧州サッカー連盟(UEFA)、そしてIFHA違法賭博対策評議会の代表者などが登壇し、違法賭博市場と規制の課題を議論する予定だ。
2024年にアジア競馬連盟から改組されたIFHA評議会は、国連やインターポールらと連携し、各国政府への啓発や法執行機関との協力を進めている。迫る議論に向け、ブレスゲス氏は緊急性を強調した。
「予測を見れば、競馬に対する脅威はさらに拡大しています。暗号資産を使えば銀行システムを完全に回避できます。これは競馬にとっても重大な脅威です。だからこそ、私たちは明確に向き合い続ける必要があります。スポーツの持続可能性を守るためには不可欠であり、公正性への重大な脅威がすでに存在しています」