ローズヒルガーデンズ競馬場の正門『マイトアンドパワー・エントランス』からは、メインスタンド裏手へと緩やかな上りの歩道が続いている。その途中には、オーストラリア史上最も偉大な競走馬とされるウィンクスを称える荘厳な像が立ち、33連勝で締めくくった伝説を静かに語っている。
この日は素晴らしい春の日で、太陽は輝き、気温は心地よい。冬の深い湿気と、これから訪れる季節の狭間にある一日だ。いくらお金を積まれても売りたくないような完璧な日だ。
いや、そうとも限らないだろうか。
「この場所の売却に反対した人たちは、こういう日こそ足を運ぶべきだ」と、ある業界の重鎮は言った。重機の搬入を止めようとしてきた面々に角が立たぬよう、声を潜めた。
これこそが問題だった。オーストラリアターフクラブ(ATC)がローズヒルを50億豪ドル(約4700億円)で売却し、2万5000戸の住宅を備えた『ミニシティ』に再開発するか否かを巡る激しい論争から、数ヶ月の月日が経った。ATCの会員は投票の末にこの計画を否決したが、今後の道筋はいまだ不透明なままだ。
もちろん、下階の会員エリアにはそれなりの熱気がある。だが、一般観客エリアやコンコースを歩けば、冷たく広大なコンクリートの空間がむき出しになっているのが目に入る。
約10億円の総賞金を誇るゴールデンイーグルがロイヤルランドウィック競馬場での開催に移った今、この日のゴールデンローズデーはゴールデンスリッパーデーに次ぐ、ローズヒル第二の大型開催だというのに。
果たして観客を取り戻す方法はあるのだろうか。
エントランス付近では3人組バンドが懸命に演奏していたが、足を止める観客はほとんどいない。多くはすでに場内で持ち場を決め、これから駆けつける人影も少ない。この出来なら、ギャラはもっと弾んでほしい。
業界が最も価値ある資産を手放すべきかどうかという感情的な問題を巡る激論の中で、売却推進派はローズヒルの観客動員がいかに低迷してきたかを指摘してきた。特にゴールデンスリッパーデーですら観客が集まらない現実を挙げ、「その日に来ないなら、いつ来るのか」と声を荒らげたのだ。一理ある主張だった。
そんな中、大物実業家のジョン・シングルトン氏がこの日はローズヒルに姿を見せた。彼は所有馬が出走する開催では、競馬場の中央にヘリコプターで乗り付けることで知られる。
5月、ローズヒル売却案を巡るATC臨時総会で、シングルトン氏は最終投票が行われる前に会場を後にした。土地を手放すことを強く嫌う反対派が、クラブが土壇場で提示した代替案にも反発し、勝利を収めることを悟ったからだ。シングルトン氏はリスクを恐れず、時に負け戦にも加わる人物として知られるが、この時は予言通りの結末を見届けることなく立ち去った。
この日、ニューサウスウェールズ州の美しい海沿いの町の名を冠した牝馬のジェリンゴンを出走させたシングルトン氏は、ラグビーリーグの元選手らとともにパドックを歩きながら、「この決断は後に機会損失と評されるのだろうか」と考えを巡らせていた。皮肉にも、ジェリンゴンはG2レースで2着に敗れた。
しかし、変わらないように見えても、実は物事は変わっていく。
メインレースは3歳馬による1400mのスプリント戦、G1・ゴールデンローズステークスだ。生産者にとっては商機を生む『種牡馬選定レース』とされる一戦のため、大物関係者はここぞとばかりに軒並み集結する。
このレースは、ドバイのモハメド殿下が率いるゴドルフィンにとっては特に重要な一戦だ。昨年、2019年、2016年、2015年、2012年と、ロイヤルブルーの勝負服が勝利を重ねてきた。
今年はキアロン・マー厩舎のゴドルフィン牝馬、テンプテッドが1番人気に推された。もし、この牝馬が牡馬を打ち破れば、『種牡馬選び』には冷や水を浴びせることになる。だが、今の3歳牡馬世代は過大評価だとの見方もあった。
スタートすると、外枠のテンプテッドは中団に控える展開。先頭を快調に飛ばすのは、もう一頭のゴドルフィン所有馬、バイヴァクトだった。ジェームズ・カミングス調教師との契約が終了し、ゴドルフィンの所有馬は専属厩舎から各地へ散っていった。それらの一頭だったバイヴァクトも、今では新天地のウォーラー厩舎に馴染んでいるようだ。
後方から追い上げる差し馬には、ジェームズ・マクドナルド騎手が騎乗するウォートンもいた。彼は文字通り袖をまくり、必死に追撃するが、その姿は希望が薄れていく様子を映し出していた。テンプテッドが一瞬、生産者たちの “祝宴” に割って入るかのように見えたが、すぐに伸びあぐね、他の青い勝負服との差を詰められなかった。
結果、バイヴァクトがウォートンに4馬身以上の大差をつけて圧勝。父・ウートンバセットの訃報が流れた週だっただけに、もしウォートンが勝っていれば、ドラマチックな物語となっただろう。レースが決着を迎える頃には、来年の種牡馬宣伝用のキャッチコピーがすでに頭に浮かぶようだった。
『バイヴァハト、この世代最強の牡馬。実績あるG1馬を父に持ち、ゴールデンローズSをレコードタイムの好時計で制覇。同世代の牡馬を圧倒したスピード能力は……』
きっと、こんな感じだろうか。注目の勝ち時計は1分20秒79。アダム・ヒエロニマス騎手は展開をこのように振り返った。
「200mを通過した時点で、かなり速いラップで走っていましたし、それでも止まる気配もなかったです。7ハロンにしては電撃的な一戦だったと思います」
このレコードのおかげで、初年度の種付け料はゼロがもう一桁加わるかもしれない。
勝利後、クリス・ウォーラー調教師は(またもや)テレビカメラの前に立った。インタビュアーが話し始める前に、新しく自身の右腕となったダレン・ビードマン氏に確認の問いかけをする一幕があった。
「ビヴァークってゴールデンローズを勝っているんだよね?」
ビードマン氏は頷いた。父のビヴァークは産駒との親子制覇を達成するとともに、ウォーラー師はこの勝利で、ゴドルフィン所有馬でのG1初勝利を手にした。それも単なるG1レースではなく、馬産の観点からも極めて重要なレースだ。
「ゴドルフィンの歩みは、オーストラリアにとって実に素晴らしいものです。種牡馬選定レースと言われるような大レースでは、常に私の最大のライバルでした」とウォーラー師は語る。「私たちは彼らの持つ細かな仕組みも含めて多くを学んできましたし、彼らも我々を『悪くない』と思ってくれているのかもしれません」
元騎手のビードマン氏は8月1日までゴドルフィンで働いていたが、同社がシドニー郊外のアグネスバンクスとワーウィックファームのクラウンロッジから撤退したため、新天地を求めていた。そして、ウォーラー師がその受け皿となった。

バイヴァクトを最初期から見続けてきた唯一の人物が、何を隠そうビードマン氏だ。この勝利は彼自身のものでもあった。
「今は新鮮な気持ちです。オーストラリア最大の厩舎の一員となる機会を与えてくれたクリスに感謝しています。本当に報われる思いです」とビードマン氏は話す。
「この馬が短期間で心身ともに大きく成長したことには驚きました。転厩したことでトレーニングや調整過程は以前と異なるものになりましたが、きっとクリスの調教メニューが馬に合っていたのでしょう」
「一体何が変わったのですか?」と問われると、彼は笑って答えた。
「気づいていますが言いたくありません。それは厩舎の企業秘密です」
鞍上のヒエロニマス騎手は、ゴールデンローズSのゲートに立つまでに、自分が何をくぐり抜けたかを隠していたわけではない。だが、殊更に言いふらすこともなかった。ヒエロニマスにとっても、このレースは特別な意味を持っていた。レース前日は厳しい減量調整に耐えながら、89歳で亡くなった祖母の葬儀に参列していたのだ。
「久しぶりに家族と会えたのは良かったですが、本当なら午後まで一緒にいてビールを飲みたかったです。でも、家族は私の仕事を理解してくれていますし、この結果を一番喜んでくれたと思います。多くの人にとって、大きな意味を持つ勝利になりました」
ゴドルフィンの会計担当者にとっても、喜ばしい気持ちはもちろん同じだろう。
それでも、この日一番強かった3歳馬はバイヴァハトではなかったかもしれない。昨シーズンのゴールデンスリッパーSを制した牝馬のマルフーナが、復帰戦のヘリテージステークスを制したからだ。
ゴールデンスリッパーの勝ち馬は、その後の成績が芳しくないのが通例だ。 2歳時にただ一つの大きな目標へ向けて『仕上げきって』しまうため、後年はお釣りが残っていないことが多い。3歳になる頃には失速し、4歳、5歳ともなればせいぜい歴史の脚注に名を残す程度。だが、マルフーナは違った。
「この『スリッパーの呪い』は常に付き纏うものですし、私の頭にもよぎりました」とマルフーナのマイケル・フリードマン調教師は明かす。「でも、この数か月間は良い状態で戻ってきた兆候がいくつもありました」
「キャリアわずか3戦でゴールデンスリッパーを制したという、稀な経歴も追い風になったのかもしれません。この日でまだ4戦目、使い減りがありません。並外れた才能の持つ牝馬です」
マルフーナは天才牝馬だ。もしバイヴァハトと相対するとしても、彼がねじ伏せるのは難しいだろう、という声もある。そして、その舞台がローズヒルなら、再び会員たちをスタンドに呼び戻すきっかけになるかもしれない。