もし、香港競馬に水泳競技があったら。リッキー・イウ調教師曰く、ヴォイッジバブルは競馬場よりもプールの方で多くの勝利を挙げていたのではないかと話す。
Idol Horseの取材に対し、「競泳選手としては凄い才能持っていますよ」とイウ調教師は話す。
「馬がプールで泳ぐとき、最低限の呼吸をするために水面すれすれに頭を出します。ですが、ヴォイッジバブルは頭を高く上げて泳ぐんです。みんな1周が精一杯ですが、この馬は2周泳ぎますし、3, 4周だって全然行けます。朝の調教前、ルーティーンとして2周泳がせています。」
ヴォイッジバブルの馬体に秘められた、隠れた運動神経がプールでの泳力に繋がっている。「彼は全身が筋肉でムッキムキですよ」とイウはヴォイッジバブルを褒める。しかし、それと同時に、馬体と競走成績は必ずしも一致しているわけではないと話す。
セイクリッドキングダム、アンバースカイ、フェアリーキングプローンといった名馬を手がけていた名伯楽によれば、それらと『普通の馬』との決定的な違いは、フィジカル面ではなく精神面だという。
「やっぱり名馬というのは自分がやるべきことを理解しています。ヴォイッジバブルも賢い馬ですから」
「タスクを与えれば、速い追い切りでも、緩い乗り込みでも、プール調教でも、飼い食いでも、きちんとこなしてくれます。彼の目付き、動き、立ち振る舞いを見れば、ちゃんと自分の仕事を理解してやっていることが分かります」
シャティン競馬場の厩舎地区にある時計は、午前5時31分を指している。ヴォイッジバブルがG1・チャンピオンズ&チャターカップで新たな歴史を刻むまで、残り5日となった。まだ暗いが空気は重く、気温はすでに30度近くに達している。ほかの馬が暑さと湿気に悩まされて頭を振り、すでに汗で泡立っているものもいるなか、ヴォイッジバブルは鶴首で落ち着き、筋肉を波立たせながら目的意識をもって滑るようなステップで通り過ぎていく。
「速く走ることは多くの競走馬ができます。全力ダッシュなら800mくらいですかね。しかし、本当に偉大な馬の違いは精神面にあります。スイッチオン、スイッチオフ。これが普通の競走馬とチャンピオンの差です。偉大な名馬というのはジョッキーの指示に忠実です」
チャンピオンズ&チャターカップではまさにそれが求められる。ヴォイッジバブルにとっては、史上2頭目の香港三冠が懸かっているレースだ。
イウ厩舎が輩出した名馬はどれもスプリンター、ヴォイッジバブルもそうだと思われていた。ところが、2023年香港ダービーで46倍の大穴を開けて勝利し、調教師と競馬界に衝撃を与えた。その『スイッチオン、スイッチオフ』の力は存分に発揮され、アレクシス・バデル騎手が12番枠からスタート後に下げて、中盤で外を捲る器用さを見せる。そして、ゴール前ではもう一つの代名詞、接戦での勝負根性を発揮し、香港で最も名誉あるレースを制した。
ヴォイッジバブルは大型馬に分類されることは少ないが、平均馬体重は1,220ポンド(約553キロ)を超えており、2010/11シーズン以降に香港で走った馬の平均体重より100ポンド(約45キロ)以上重い。この期間に出走した8,000頭超の中で上位5パーセントに入る。
ヴォイッジバブルを体重面でも競走成績でも上回るのは、1,300ポンド(約589キロ)を超える怪物、エイブルフレンドのみだ。
「ヴォイッジバブルのお尻を見てください。良いケツしてるでしょう。上部は筋肉モリモリですし、桃みたいな形です。普通の馬はあんなケツじゃないですよ」
ヴォイッジバブルが9000万香港ドル以上を稼いできたのは、純粋な身体能力だけではないとイウは再び強調する。気は優しい巨漢馬、エイブルフレンドがクォーターホースのように軽やかな脚捌きでステップを踏んだように、ヴォイッジバブルの真価も、体の使い方や巧みなフットワーク、そしてレース中の冷静沈着さにあるという。
「動きが軽快で、体重は1200ポンドをはるかに超えていても、見た目は引き締まっており、滑らかに動ける。足取りが軽いんですよね」とイウは説明する。
調教師が思い出すのは、三冠レース2冠目となったG1・香港ゴールドカップ(2000m)での劇的な勝利だ。あのレースでヴォイッジバブルは残り800mの勝負どころで大きくつまずきながら、素早く立て直してリズムを取り戻し、突き抜けてみせた。
「難しい場面であんなふうに盛り返して勝ち切ったのは、賢さの証です」
ヴォイッジバブルはこれまで、スーパースターの脇役に甘んじてきた。名マイラーのゴールデンシックスティ、世界的な強豪となったロマンチックウォリアー、そして短距離界の超新星、カーインライジングらの存在は大きかった。
日曜日、ヴォイッジバブルには、その三強が挑戦すらしたことのない偉業に挑むチャンスが訪れる。それでも皮肉なのは、同じ日にパドックでロマンチックウォリアーの凱旋帰国イベントが催されることだ。少しばかり注目を奪われるのは仕方ないことだろう。
2024年ドバイターフと安田記念、ヴォイッジバブルは海外遠征で2度の着外という屈辱を味わった。リベンジの再遠征は可能性が低く、戦いの場はシャティンに絞られている。日曜日の2400m戦で世界的な強豪・ドバイオナーを破れば、ホームで歴史にその名を刻むことは間違いない。
リバーヴァードンに次ぐ香港史上2頭目の三冠制覇となれば、2024/25シーズンの年度代表馬候補としてヴォイッジバブルは最有力に躍り出るだろう。大半の年ならその成績で文句なく受賞だが、8戦全勝で1200mのコースレコードを2度更新したカーインライジングも今季はいるため、投票の行方は不透明だ。
1994年、デビッド・ヒル厩舎のリバーヴァードンが当時2200mだったチャンピオンズ&チャターカップを制したとき、イウはジェフ・レーン調教師の助手を務めていた(レーン師が管理したフォーチュンデュークは7着)。香港競馬ではシーズン中に2400mのレースが3つしか組まれていないため、イウはこれまで2200メートル超の勝ち星を挙げたことがない。それも日曜日には変わるかもしれない。
「スタミナをつけることには重点を置いてきました」とイウは中間の調整を説明する。
「初期のヴォイッジバブルは1200mを得意としていたので、ゲートを出してガンガン走らせ、どれだけ速く行けるか試していました。今はリラックスを覚えさせています。以前のようにハミを噛んで引っかかることもなく、鞍上の指示をすんなり聞きます。2400mを走るため、どうエネルギーを温存するかを理解させるのがメインです」
この日のヴォイッジバブルはシャティン競馬場のダートコースをゆっくり2周したあと、厩舎に戻ってきた。イウはいつものように馬体の状態を確認するが、それでも近づく際は慎重だ。
「馬房では彼がボスです。私でさえ、一人きりで馬房に入ると緊張します。脚を触るときは誰かに抑えてもらうんです。彼は動きも素早く、蹴られるかもしれません。本当に個性派ですよ。ほとんどの馬は馬房へ行っても問題なく触れますが、彼は人の動きをじっと見ています」
「彼は人を見分けているんです。よく知らない相手や彼が覚えていない相手には要注意です。誰も横から近づいたりしません。正面から行き、誰が来たのか見せてあげないといけません」
67歳を迎えたイウは、その冒険はまだ終わっていない。日本、ドバイ、シンガポールでG1を制し、2019/20シーズンには香港競馬のリーディングトレーナーに輝いた男だが、日曜日の決戦は自身にとっても大きな意味を持っている。
「厩舎のチーム全体にとって大きな偉業、調教師としての私にも大きな意味があります」
「もう何十年もこの仕事を続けています。見習い騎手になってから50年以上が経ちました。毎朝4時起きです。ヴォイッジバブルのような馬がいるからこそ、毎日の早起きが報われるんです。本当に特別な馬です」