リッキー・イウこと、プーンファイ・イウ(姚本輝)調教師は、香港競馬での栄枯盛衰を誰よりも深く知っている。彼は香港のチャンピオントレーナーを獲得したこともあり、これまでに通算1000勝以上を挙げている。そして、グローバルな活躍を収めた短距離王者のセイクリッドキングダム、海外G1馬のウルトラファンタジーやアンバースカイ、香港ダービー馬のヴォイッジバブルを育て上げた名伯楽だ。
その一方で、活躍する前に明け渡してしまった名馬も存在する。
今世紀初頭、イウは香港でよく見られる現象に悩まされていた。地元の香港人調教師が預かる馬が有望株だと分かると、より知名度が高い厩舎に転厩させられてしまうのだ。多くの場合、転厩先は有名な外国人調教師の厩舎だった。後のチャンピオン調教師であるフランシス・ルイも、アンビシャスドラゴンを失った。イウに至っては、フェアリーキングプローン、エレクトロニックユニコーン、ブリッシュラックを手放さざるを得なかった。
彼はこれらの3頭を競馬場に送り出すために基礎を叩き込み、辛抱強くトレーニングを積み重ね、トップホースになるべく育てた。しかし、フェアリーキングプローンはアイヴァン・アラン調教師に、エレクトロニックユニコーンはジョン・サイズ調教師に、ブリッシュラックはトニー・クルーズ調教師が、それぞれ担当することになった。
フェアリーキングプローンと、厩舎に訪れた苦難
「もちろん、とても残念でした」とイウは語る。2000年の春、フェアリーキングプローンが厩舎を去ることになった日を振り返りながら、しみじみと口を開いた。
「フェアリーキングプローンの担当厩務員が泣き崩れるのを見た時は、より辛かった」と彼は当時の状況を語る。「当時の香港競馬は今と違い、一流馬が外国人調教師の下へ転厩するケースは珍しくありませんでした。厩舎を束ねる者として自分がやるべきことは、早く気持ちを切り替えて、悲しみから抜け出すことだけでした」
これは、イウ厩舎のチームが丹精込めて育て上げ、14戦6勝(2着6回)の成績を収めていた最中での転厩だった。さらに、その僅か数ヶ月前には、香港スプリントでも優勝していた。
アラン厩舎に転厩して3ヶ月も経たないうちに、日本のG1・安田記念で香港馬としては初の海外ビッグタイトルを獲得したことも、傷口に塩を塗り込むが如くの出来事だった。
それから四半世紀近くが経った今、明るいイウはそのことをすっかり乗り越えている。
「フェアリーキングプローンと共に大活躍する機会を失ったことはそれほど残念では無いのですが、心残りは一つあります」と、当時の思い出を語りだした。
「調教を終えたある朝、うちの厩舎で主戦を務めていたスティーヴン・キング騎手が私のところに来ました。”あいつはスーパーカーだよ!”と言い、乗ってみることを勧めてきたんです」
「当時は乗る機会はいつでもあるかと思い、後回しにしました。しかし、香港スプリントを勝った馬が直後に厩舎を去るとは思いもしませんでした。結果的にフェアリーキングプローンの背中を知る機会は逃したのですが、数年後にセイクリッドキングダムが入厩してきました。私は真っ先に、”試乗”することになりましたね。やっぱり、チャンピオンクラスの馬は乗り味も特別です」
イウは優れた相馬眼でも有名だ。1997年のイングリス・イースターセールに参戦した香港のフィリップ・ロー(劉錫康)氏は、名種牡馬デインヒルの産駒を落札すべく、イウに40万オーストラリアドルの予算を与えた。結果、18万オーストラリアドルで御眼鏡に適う一頭を手に入れることができた。
「候補リストに入っているデインヒル産駒はいくつかいましたが、予算オーバーでした」とイウは振り返る。
「フェアリーキングプローンは、その日の上場馬の中で最後から20〜30頭くらいの辺りで登場しました。馬格の良い美しい馬で、歩様も良く、動きも良かった。まさに一目惚れでした」
「安くはないだろうなと覚悟していましたが、この馬が典型的なデインヒル産駒っぽい鹿毛ではなく、鹿毛の中でも茶色っぽい毛色だったのがピンとこなかったのか。はたまた、多くのバイヤーはお目当ての馬を買った後だったのか。いずれにせよ、お買い得な価格で落札することができましたね」
フェアリーキングプローンのデビューに向けた準備は、決して簡単なものではなかった。脚に軽いトラブルを抱えており時間が必要だったことに加え、競走馬としても一癖あるタイプだった。
「当時、グリフィンレース(地元デビュー馬限定の香港版新馬戦)は11月ごろからスタートしていましたが、デビュー戦は3月まで延びました。脚元の問題で遅れたと思っている人も多いかもしれませんが、実際にはバリアトライアル(実戦形式の調教)での動きが問題でした。ゲートを出るとUターンしてしまう癖があり、ゲート試験を複数回受けさせられました。ゴーサインが出るまで、7回はゲート試験を受けました」
ゲート試験をクリアしたあとは、その悪癖が出ることはなかった。
フェアリーキングプローンはデビュー後の1年間で7回出走し、4勝・2着2回の好成績を収めていた。そして、1999年5月のチェアマンズスプリントプライズ、試練の日がやってきた。イウは馬主にこう告げた、「これまでも強豪を倒してきましたが、このレースは違います。チャンピオン級が勢揃いです。もし勝てるなら、この馬は化け物ですよ!」と。
そのレースで、フェアリーキングプローンは勝った。オリエンタルエクスプレスとホーリーグレイル、2頭の香港ダービー馬を破って頂点に上り詰めたのだ。その後は3連敗を挟んだものの、年末には香港スプリントの初代王者となった。
フェアリーキングプローンがアランの下に転厩したことは、イウにとって最初の試練だった。次に、エレクトロニックユニコーンが厩舎を去った。補足を付け加えると、エレクトロニックユニコーンは1997年9月にキーンランドでジョン・ムーア調教師によって20万ドルで購入されると、香港に送られてイウ厩舎で競走馬としてデビューした。19戦4勝の成績を収めると、ジョン・サイズ厩舎へと転厩。その後、チャンピオンマイラーとして名を馳せた。
3度目の苦難は、ブリッシュラックだった。彼もまたアメリカ生まれなのだが、デビューシーズンはイウ厩舎で過ごして7戦1勝だった。その後、馬主のウィンキョン・ウォン(王永強)氏がトニー・クルーズ厩舎へと転厩させ、スターへの道を駆け上がって行った。日本の安田記念を勝ったこと、そして2005年のチャンピオンズマイルで無敗の連勝記録を続けていたサイレントウィットネスに初めての土をつけたことで知られている。
時代は変わる
イウは、その鋭い相馬眼と巧みな調教技術で香港競馬を代表する調教師へと出世し、2000年代半ばには多くの香港人トレーナーが台頭する時代を迎えた。
デニス・イップ調教師は2013年にリーディング調教師の座を獲得、2020年にはイウが大方の予想を覆してチャンピオンに上り詰めた。2022年にはフランキー・ロー調教師がチャンピオンに輝いたことで、外国人調教師の天下が終わったことは決定的になった。
イウの家族に競馬関係者はいない。父親は警察官だった。しかし、彼は成長が遅く、15歳のときの体重は85ポンド(約38.5キロ)、身長は5フィート(約152cm)だった。犬や猫といった動物全般、スポーツが大好きな少年でもあった。香港ジョッキークラブが新しく騎手養成学校を開設すると500人以上の応募があり、16人の子供が選ばれた。イウはその中の一人だった。
面接には両親とともに向かったのだが、クラブの職員は彼の将来の身長と体重を予測した。「私の手や足の大きさまでチェックしたんですよ」と、イウは笑いながら語る。
晴れて騎手になると、ジャック・ゴズリング厩舎所属の見習い騎手として活動し、1980年代まで現役を続けた。その後、ゴードン・スミス厩舎の調教助手兼アシスタントトレーナー、ジェフ・レーン厩舎やエディー・ロー厩舎のアシスタントを経て、1995年に調教師免許を取得した。
調教師としては順調なスタートを切ったが、10年後には状況が変わり、一転して勝ち星が遠のいた。2005/2006シーズンの終了後には、ライセンス更新に必要な勝利数の最低基準を満たせず警告を受けた。香港はこの警告を3回受けると免許が更新できなくなるスリーアウト制なのだが、これがワンアウト目だった。
「そのシーズンではたった10勝でした」と振り返るが、その姿に動揺はない。「正直、夏頃に若い馬を急仕上げで競馬に使っていれば警告は回避できたかもしれませんが、そうはしませんでした。このとき反省し、自分と厩舎の改善できる点を洗い出しました。やるべきことをすれば、厩舎は立て直せると信じていたんです」
時代は変わる
「フライングビショップはお買い得でした。購入額はたったの6万オーストラリアドルでしたから」と振り返る。「残りの予算を馬主に返したとき、ちゃんとした馬を買えたのかと疑われましたよ」
多くの人はセイクリッドキングダムこそが厩舎の救世主だと信じているかもしれないが、イウ本人はフライングビショップ(Flying Bishop)が功労者だと考える。
「2006年9月、フライングビショップは4週間で3連勝しました。厩舎の士気を高め、自信へと繋がりましたね」
数カ月後、セイクリッドキングダムが初出走を迎え、後に香港スプリントやシンガポールのクリスフライヤー国際スプリントを勝つことになる。イウは、彼をロイヤルアスコットにも連れて行った。その遠征では5着という案外な結果に終わったが、調教師としては大きな一歩だった。
「馬主のシン・カンユク(冼鏡煜)氏は私の友人なので、友達のためにチャンピオンを育てたというのは格別なことでした」と彼は言う。
「セイクリッドキングダムは海外でももっと活躍できたはずです。2009年のロイヤルアスコットで見せた走りは、本来の力ではありません。その時はロンドン西部にある検疫所兼トレセンに滞在していたのですが、景色は美しく敷地も広大だった。ただ、その広さがかえって問題になりました。広すぎたんです」
「そこにいたのはセイクリッドキングダムただ一頭で、仲間がおらず寂しかったようです。それが、本番でのパフォーマンスに影響したかもしれません」
その一年後、中山競馬場のスプリンターズSが次なる海外での大舞台として予定されていた。
「翌年、同じ厩舎のウルトラファンタジーとともに日本に遠征する予定だったが、セイクリッドキングダムが直前になって疝痛を起こしたため、止むなく中止となりました」とイウは語り、その後の偉業へと繋がる決定的な出来事を明かす。
「不幸中の幸いだったのは、そのタイミングで起きたことです。早すぎもせず、遅すぎもしない。病気になるのが数週間遅かったら、ウルトラファンタジーも遠征中止になっていたかもしれない。香港人チームで歴史を作る機会は、幻に終わっていたでしょう」
2010年のスプリンターズSは、香港人トレーナーが管理し、香港人ジョッキーのアレックス・ライが鞍上を務め、香港調教馬が勝利した。この完全な香港人チームが海外のレースで勝ったのは、これが史上初の出来事だった。
時代は変わる
イウは、その鋭い相馬眼と巧みな調教技術で香港競馬を代表する調教師へと出世し、2000年代半ばには多くの香港人トレーナーが台頭する時代を迎えた。
デニス・イップ調教師は2013年にリーディング調教師の座を獲得、2020年にはイウが大方の予想を覆してチャンピオンに上り詰めた。2022年にはフランキー・ロー調教師がチャンピオンに輝いたことで、外国人調教師の天下が終わったことは決定的になった。
「チャンピオンを争う資格があるかどうかは、調教師次第ではありません。シーズン中には少しの運が必要です」と、イウは謙虚な姿勢で淡々と語る。「厩舎の層が厚さは、3~4月頃の若い馬の活躍を見ていれば分かります」
「馬を管理する能力において、外国人調教師と地元の香港人調教師の間に大きな差はないと言えます。毎日同じコースで調教し、毎週同じ競馬場で同じ馬を走らせているので、お互いに観察して学び合うのは難しいことではありません」
「それより重要なのは、若い馬と若い調教師の質をどう保っていくか、血の入れ替えです。近年、香港人の調教師がオーナーたちから信頼を得ていることは嬉しく思いますし、将来的にも戦っていけると信じています」
これに異論を唱える者は、ほとんどいないだろう。地元出身の優秀な調教師が、大物外国人調教師の前に屈する時代は、過去のものとなりつつある。
そして、2023年にはヴォイッジバブルが香港ダービーを勝利した。2024年にはG1・スチュワーズカップを制覇、続く香港ゴールドカップではロマンチックウォリアーを追い詰めて2着。イウはまたもや優秀な馬を世に送り出し、自身の相馬眼と管理技術、ビッグレースを勝ち抜くノウハウを持っていることを再び知らしめた。
「馬を選び、それを自分の手で一から育てるのはやりがいがあります」と彼は語る。「そして、ビッグレースでの勝利を二人三脚で楽しめるのは、本当に素晴らしいことです。まだまだ、人生最高の機会は待っていると信じていますよ」