メインの観客ゲートをくぐると、それはすぐそこにある。オーストラリアが誇る最高のジョッキー、ヒュー・ボウマン騎手を実物大で再現した像が、青みがかった青銅色に輝いている。
左腕は彼のトレードマークでもあるOKポーズの『シーズアップルズ(すべて順調、という意味合い)』を決めたままだ。
その馬自体も、実際のウィンクスに驚くほど似ている。頭はわずかに持ち上がり、目は鋭く、完璧な一瞬を捉えている。馬と騎手は一体となり、そしてまるで動かない。競馬の日にはその像の前を走り抜ける人もいれば、多くの人々がゆっくり歩き、時には足を止め、ただじっと見つめる者もいる。
突然の競馬場売却案
ウィンクスがオーストラリアで生まれた最も偉大な競走馬であるかどうかについては、今でも多少の議論があるかもしれないが、彼女の像がローズヒル競馬場、そこは彼女がその偉大なキャリアを築いた場所であり人々の目を引くことは疑いの余地はない。
「この記念碑は、オーストラリアの最も偉大な競走馬としてのウィンクスの偉業を永遠に刻むものとなるでしょう」と、像の除幕式でニューサウスウェールズ(NSW)州のケビン・アンダーソン議員は感激の声で語った。
その言葉を信じない人はいたのだろうか?
しかし、伝説的な競走馬への『永遠の贈り物』として公開されてからわずか4年後、600kgの像が設置された競馬場全体が、住宅地に変わることになるかもしれない。もし、クラブの意向通りに進むならば、ウィンクス像は新たな家を見つけなければならない。
オーストラリアターフクラブ(ATC)はシドニーに4つの競馬場を所有し、市内の西部に位置する25ヘクタールのローズヒルガーデンズ競馬場は代表的な資産だ。しかし、ATCは来月、11,500人の会員に次のようなシンプルな問いを投げかけることになる。
『競馬場を50億豪ドル(約4700億円)で売却することに賛成しますか?』
「これは競馬史上、最も重要な財政的決断だ」と、G1レース制覇の実績を持つリチャード・フリードマン調教師は語る。彼は息子のウィルとともにローズヒルに厩舎を置いている。
「重要なのは、正しい決断を下すことだ。ここで間違った決断をしてはいけない」
NSW州政府と州のクリス・ミンズ首相が、ローズヒルガーデンズを再開発し、2万5千戸の住宅を建設するための覚書をATCと交わしたことを発表してから、約1年が経過した。この発表は、2023年のクリスマス直前に突如として行われ、競馬業界を驚かせた。発表の詳細は秘密に包まれ、関係者たちを愕然とさせた。
ローズヒルガーデンズは、財政難に陥ったATCの最も価値のある資産であり、ゴールデンスリッパーの開催地でありオーストラリアで唯一の1日に5つのG1レースが行われる競馬場でもある。また、シドニーの中心地に近いパラマタのビジネス地区から数分という立地も魅力的だ。
この決定は、ATCにとっては巨額の利益をもたらすだけでなく、シドニーの住宅問題を緩和しなければならないNSW州政府にも大きな成功となるはずだった。シドニーでは物件の購入費用が高騰し、賃貸物件が不足しているため、政府はますますプレッシャーを受けている。
しかし、その後の展開は苦々しく、業界を分裂させる結果となった。
著名な競馬関係者たちが対立し、友人関係が緊張・破綻したり、ATCの理事会は分裂し、売却賛成派はクラブの会長を攻撃し、業界はローズヒル売却計画の正当性について議会でその恥ずかしく汚い裏事情を暴露せざるを得なくなった。
公聴会では複数の証人が、土地の評価額そのものが16億豪ドルから230億豪ドルにまで達する可能性があると証言した。
ローズヒルの売却計画は、ATCの会員の過半数が賛成票を投じることで実行されることになる(投票は義務ではない)。この計画を最初から推進してきたATC会長のピーター・マクゴーラン氏は、最終決定を受け入れる意向を示しており、NSW州政府も同様だ。
しかし、売却に反対する激しいキャンペーンが展開されており、特にチャンピオントレーナーであるゲイ・ウォーターハウス調教師のリーダーシップの下、最近ではその提案を覆すために必死に活動している。
「彼らは恥を知るべきです。この競馬場は会員のものです」とウォーターハウスはIdol Horseに語る。
「ローズヒルは主要な競馬場であり、人口密度の高い地域に位置しています。それはコミュニティのために残すべきです。なぜお金をかけてその周辺に建物を建て、競馬場の中心をスポーツ施設のように活用しないのでしょうか?たとえば香港のように」
「ローズヒルが売却されれば、その土地を再度取り戻すことはできません」

では、なぜATCはその最も価値ある資産であるローズヒルの売却を検討しているのだろうか?
ピーター・マクゴーラン会長は、ジョン・ハワード政権下での元連邦政府の大臣であり、公共の場で批判されることには慣れている。しかし、ローズヒルの件ほど個人的な問題になったことはこれまでなかったと言えるだろう。
ATCの理事会の多くの役職とは異なり、彼は会員によって選ばれたのではなく、政府から任命された人物だ。これが多くの人々にとって不満の種となっている。彼がミンズ州首相と共にローズヒルの再開発計画を発表した瞬間から、競馬業界の怒れる関係者たちからターゲットにされてきた。
だが、政府が大規模な住宅用地や緑地を求める姿勢は、スポーツ業界全体に広がっている。オーストラリアで最も多く利用されているゴルフコース、ムーアパークゴルフクラブは、シドニーの中央ビジネス地区から数分の距離にある。
そのゴルフコースは、NSW州政府がジュニアスポーツ用のフィールドを作るためにコースを半分に切り分ける計画を発表したことで、激しい争奪戦の真っ只中に巻き込まれている。
「将来への備え」
一方で、ATCはローズヒルの売却を、将来的に競馬業界の立場がますます厳しくなる中で、次世代のための備えとして見ている。政府が競馬に対して懐疑的な姿勢を緩和しようとする狙いもある。
しかし、政府との関係が改善される可能性はあるものの、売却の主な理由はシンプルだ。それは『金銭的な理由』である。
「この投票で、私たちが20年後に収益と観客数が減少しているニッチなスポーツとなるのか、それとも新しい世代を引き寄せて自ら生まれ変わることができるのかが決まる」とマクゴーラン会長は言う。
「賭博の売上と観客数の減少は、誰もが予想していたよりも遥かに急速で急激です。賭博の売上は年々10パーセントずつ減少しており、連邦政府が賭博規制を導入すれば、それはさらに加速するでしょう。私たちの観客数は急激に減少しています」
「私たちは完全に自分たちの運命と未来をコントロールすることになります。その多くは、地域社会との関係を再構築することにかかっています」
「現状、若者たちは私たちのことを、理解するには複雑すぎる賭け事を伴うスポーツとして見ており、その上で馬がムチで追い立てられてゴール前で競り合う姿しか見ていません」
「チャンスは無限にあります。かつて競馬は圧倒的な観客数を誇り、オーストラリア文化に深く根ざしていました。しかし今やそれは過去の話です。これは、香港、日本、韓国を除く世界中で見られる傾向です。これらの国々は全てトート(Tote, パリミチュエル方式の馬券発売)があります」
「他の競馬開催国でも、集客は今やカーニバルデーに限られています。アメリカはオーストラリアとの比較で非常に興味深い例です。私たちは年間5回のレースイベントで成功を収めていますが、その他の開催日は空のスタンドに向かって競馬開催しているようなものです」
2024年のゴールデンスリッパー開催日にはわずか12,111人が観戦し、ローズヒルへの訪問者数は過去10年で半減し、2024年には年間10万人未満の入場者しか記録されなかった。
ATCがどのようにして財政的な黒字から転落したのか、その背景を調べる価値は十分にある。
ATCの主な収入源は賭け金だが、これは同社最大手のブックメーカーであるタブコープ社(Tabcorp)と過去に交わされた契約に結びついており、その収益は厳しい状況にある。
またタブコープ社は、若年層をターゲットにした積極的なマーケティングキャンペーンを展開するオーストラリアのオンラインブックメーカーであるスポーツベット社(Sportsbet)やラドブロークス社(Ladbrokes)に市場シェアを奪われている。
州の監督当局であるレーシングNSWは、ATCの賭け金収益の減少を補填するために920万オーストラリアドルの補助金を提供した。レーシングNSWはローズヒルの売却案を非公開で支持しているが、この話の取材に対して、ピーター・ブランディスCEOはコメントを避けた。
しかし、ブランディスは昨年の議会の調査で対立的な姿勢を見せている。そこで彼は、ATCの会員であり、ローズヒルの売却に反対し、その存続を強く訴えてきたマーク・レイサム議員と激しく対立した。
調査は1時間を超える長時間にわたり、ブランディスはレイサムと激しい言葉の応酬を繰り広げ、ローズヒルに関する問題ではなく、むしろレーシングNSWへの焦点が当てられた。ある場面では、ブランディスは「裕福な生産者たち」がローズヒル問題を利用して自分を攻撃していると批判を展開。
「私を貶めようするのが目的だ。競走馬に対して残酷な行為をしている者や不適切な人物からの意見を受け入れている」とブランディスはレイサムを批判する。
そして、ローズヒルの売却提案に関する財政的現実を巡る議論は堂々巡りとなった。

数ヶ月が経過し、マクゴーラン会長は、ATCが年間870万ドルもの金額を使って競馬場での調教に対して補助していると主張している。それにより老朽化した施設を改修する余裕はないということだ。
投票を前にして、ATCの会員団体は、売却が成功した場合の使い道を提示した。50億ドルのうち19億ドルをロイヤルランドウィック競馬場のアップグレードと改修に使用し、老朽化したワーウィックファーム競馬場を解体して、新たにG1規格の施設を一から建設すると記されている。
この工事はNSW州政府によって資金提供され、ローズヒルでの競馬開催は2031年まで行われる。
さらに、残りの30億ドルは投資に使われ、政府からの追加の支払いを受けた後、15年以内に、ローズヒルに代わるシドニーの新しい競馬場の建設資金として一部が使用される可能性がある。ATCは、ローズヒルの東側とペンリスにある2つの土地所有者と交渉中であり、その場所は商業上の機密性のため公開しない。
割れる賛否
しかし、この提案に反対する声は収まっていない。売却の是非は、オーストラリア競馬史上最も重要な決断の一つであり、もっと詳細な情報を求める声が高まっている。レーシングNSWはその懸念を受け、ATCに対し4月3日の投票を5月12日まで延期するよう指示した。
これにより、売却反対派はさらに怒りを募らせており、すでにオンラインまたは代理投票をした多くの会員が不満を抱えている。ウォーターハウス氏は自らのX(Twitter)アカウントを通じて「このようなことはとんでもない、非民主的だ」と表現。再スケジュールされた投票は、ATCに新しい土地の覚書(MOU)を締結するための時間を与えることになり、それを会員に通知した上で最終決定を下すことになる可能性もある。
「この提案がどのように実現するのか、戦略も計画もありません」と、元ATC副会長で大手の競走馬オーナーであり、売却反対派の活動家であるジュリア・リッチー氏は言う。
「今、この提案がどう実行されるかもわからないのに、投票することができるのでしょうか?今の段階で投票しても意味がないと思います」
「これが私たち全員にとっての疑問です。今、明確にできない提案について、なぜ投票をするのでしょうか?業界には資金問題があることは間違いありませんが、優れた資産を売却することがその答えにはならないと考えています」
売却の決定を急ぐ必要性は、NSW州政府がシドニー西部を通る新しい高速地下鉄網を建設しており、ローズヒル競馬場が住宅地に転換される場合、地下鉄の駅がローズヒルに設置されるという約束をしていることから生じている。
公共交通機関へのアクセスがなければ、住宅の価値と魅力は大きく低下するだろう。掘削作業はすでにパラマタから1キロ圏内にまで達しており、議員たちはATCに「今すぐに決めなければならない」と言っている。
しかし、前述のフリードマン調教師のような人物にはそれが気に入らない。このプロセスは『完全に混乱している』と彼は批判している。マクゴーラン会長は、もっと良い方法があったかもしれないと認めるが、機密性の問題がATCの進行を妨げていることを認めている。
「ローズヒルは、工業地帯にある実用可能な競馬場で、周囲には有害廃棄物があります」とフリードマンは説明する。
「それが私たちが売ろうとしているものであり、そのために50億ドルを手にすることになっています。シャンティイ(フランス)、サラトガ(アメリカ)、ロイヤルアスコット(イギリス)でもなく、ランドウィック競馬場でもありません」
「私はATCのこの進め方に非常には批判的です。十分な時間を与えなかったし、その規模と重要性のあるプロジェクトに対して12ヶ月で適切な実現可能性調査を行うことはできません。それは不可能です」
「この決定は、競馬業界に関わる人々の未来に何世代にもわたって影響を与える可能性があります。会員たちは、その人々に対して正しい決定を下す義務があり、今の段階ではそれを行うことはできません」
「私は彼らがどんな決定を下すか気にしませんが、全ての情報を持って、十分な時間をかけて決定すべきだと思います」
「情報が不十分な状態での反対票になるでしょう。もしこれがオーストラリア競馬業界にとって、この国で競馬業界にとって最も重要な決定を下す方法であるなら、それがどうして可能なのでしょうか?それこそが、私が求めていることです。もっと時間をかけるべきです」

しかし、時間は限られており、ATCの会員たちは、延期された投票によるわずかな猶予を除き、あまり時間はない。
ATCの会員の中には、ATCが投票案内を通知するためのコールセンターを設置し『一世代に一度のチャンス』というフレーズを使って投票を促したことに怒りを感じている者もいる。売却反対派は、ローズヒルで資料を配布することを妨げられたと主張している。
ATCは、ローズヒルが売却された場合、ロイヤルランドウィック、ウァーウィックファーム、カンタベリーに並ぶ新しい競馬場のための土地を購入することを強く約束してはいない。しかし、マクゴーラン会長は、そうしたいと語っている。
元レーシングNSW会長で、オーストラリアで最も影響力のある生産者の一人であるジョン・メッサーラ氏は、かつて株式仲買人として活躍していた人物であり、お金のことを他の誰よりもよく知っている。メッサーラ氏はこの議論を遠くから見守っており、まだ大きなグレーゾーンがあると指摘している。
「ローズヒルをこの金額で売却するのは検討に値するかもしれませんが、それは確実な代替競馬場がある場合に限ります」とメッサーラ氏は語る。
「もしそれがない、あるいは実現可能か不確かであれば、クラブの目的に反してしまいます。その目的とは、NSWの会員やスポーツに対して質の高い競馬を提供することです」
「確実性がない限り、ほとんどの会員は賛成票を投じることに抵抗を感じるでしょう。さらに、会員には意図されている取引についてのより詳細な説明が必要だと思います」
一部のシドニーの若手調教師たちが、売却の影響を自分たちの将来に関わる問題として静かに支援を表明しているという声もある。
ビョルン・ベイカー調教師のキャリアは過去10年で急成長を遂げたが、売却の是非についてはまだ決めかねている。
「間違いなく感情的な問題です」と彼は言う。「私がオーストラリアに来てから、NSWの賞金は素晴らしいもので、世界をリードしています。それは絶対に重要で、競馬業界を回す原動力となっています」
「もし提示されている金額が現実のものとなるのであれば、それは次世代のための賞金水準を保証することになります。しかし一方で(ローズヒルは)素晴らしい場所であり、良い調教施設でもあります。私たちは将来の収入について真剣に考えなければならない時期に来ていると思います」
しかし、ATC会員が最終的に投票に臨むとき、彼らはどのような考えに至るのだろうか?それとも、19世紀後半に開設された競馬場にこだわり、その競馬場が21世紀の残りの期間においても必要不可欠だと考えるのだろうか?
「お金が欲しいのか、それとも馬房が欲しいのか?」
「私はATCというより競馬の将来をもっと心配しています」とマクゴーラン会長は語る。
「もし会員の大多数がこの提案を拒否するなら、私は彼らがクラブや業界の未来を見据えていないと考えます。競馬は10年以内に主流のスポーツになることはないでしょう」