ラスキンスターの主戦、ジョン・ウェイド元騎手には、この馬に騎乗にする際の暗黙のルールがあった。それは『ムチを使わない』こと。禁止されていたわけではない。ただ、この『炭鉱の街から来た牡馬』はあまりにも優秀で、ムチを入れる必要がなかったのだ。
もっとも、どんなルールにも例外はある。
シドニーから北へ2時間の労働者の街、ニューサウスウェールズ州ニューカッスルで育ったラスキンスターは、1970年代のオーストラリア競馬界で一大旋風を巻き起こした。1977年、地元で行われたノーザンスリッパーに復帰すると、その走りを見ようと2万人もの観客が詰めかけたほどだった。
だが、問題が一つあった。天候がひどく荒れ、馬場は瞬く間に泥沼と化していった。ラスキンスターを世代最強の2歳馬へと鍛え上げた名伯楽、マックス・リーズ調教師は、大事なレースが控えている愛馬をそんな馬場で走らせるつもりはなかった。彼は競馬会の委員と裁決委員に出走取消を申し入れた。現代なら、悪化した馬場を理由に除外は認められるだろう。
しかし、返ってきたのは「こんなに多くの観客が集まっているのに、取り消せるわけがない」という返答だった。クリス・リーズ調教師は当時を振り返り、笑いながらこう語る。
「結局、出走させることになって。でもジョン・ウェイドは、ムチを持たなくてもいいことになったんです。今の時代じゃ考えられない話ですよね。オッズは1.5倍でした」
そして、ラスキンスターは敗れた。
勝ったのはミストレスアン。ラスキンスターは3/4馬身差の2着に敗れた。ウェイドはムチを使うことすら考えず、最初から携帯もしていなかった。
クリス・リーズにとって、その頃の記憶は少し曖昧だ。当時6歳だった彼は、ラスキンスターがオーストラリア競馬界を熱狂させた瞬間を断片的にしか覚えていない。しかし、彼の馬が成し遂げたことは歴史に刻まれている。2歳馬にとっての『三冠』とも言えるゴールデンスリッパー、サイアーズプロデュースステークス、シャンパンステークスをすべて制覇したのだ。
YouTubeで彼のレース映像を探せば、その凄さはすぐにわかる。
ゴールデンスリッパーでは、ラスキンスターは先行馬に並びかけたかと思うと、瞬く間に突き抜けた。まさに「バン!」という表現がぴったりの加速力だった。
このレースは、後の世代にまで影響を与える一戦として知られる。なぜなら、ゴールデンスリッパーを制した牡馬は、種牡馬として莫大な価値を持つからだ。ラスキンスターの血統的な遺産は、まさにここで確立された。
だが、最も印象に残るのは、三冠最後のレース、シャンパンステークスだろう。2歳馬がマイル(約1600m)を走るこのレースは、多くの若駒にとって未知の距離だった。当時のオーストラリア競馬は、2歳馬は主に1200m前後の短距離戦を走らせる傾向があったからだ。
ラスキンスターはジョン・ウェイドの手綱のもと、直線で先頭に立った。しかし、すぐにマルソーが並びかける。レース実況のイアン・クレイグ氏は、その瞬間にこう叫んだ。
「マルソーが猛烈に食い下がる…!」
もし彼がその言葉を取り消せるなら、すぐにでもそうしただろう。
ウェイドは、いつものようにハンズアンドヒール(訳者注: 手綱と脚だけで追う騎乗法)でラスキンスターを促す。すると、ラスキンスターは一気に加速し、最後は6馬身差の圧勝。今でもこのレースは、オーストラリア競馬史に残る衝撃的なパフォーマンスのひとつとして語り継がれている。
その圧倒的な走りを目の当たりにした人々の間では、やがてラスキンスターの伝説が広まった。そして彼は、ニューカッスルの『スポーツパーソン・オブ・ザ・イヤー』の候補にまで選ばれた。しかし、「馬が人間の賞を受賞するのはおかしい」とする意見もあり、議論を巻き起こした。
だが、それほどまでに彼の影響力は大きかったのだ。ニューカッスルの街は、競馬とラグビーリーグを糧にする町。オーストラリアのナショナルラグビーリーグのチームであるニューカッスル・ナイツが結成される前だったこの時代に、ラスキンスターはまさに「競馬の申し子」だった。
「当時のニューカッスルには、ナイツのようなプロスポーツチームはなかったからね」とクリス・リーズは語る。リーズにとって、ニューカッスル・ナイツはもう一つの愛すべき存在だ。
「彼のレースを見ていると、『勝てるのか?』と不安にさせておいて、突然6馬身差で突き放すんです。しかも、ただの2歳馬の記録じゃなくて、コースレコードまで塗り替えてしまう。見た目は特別な馬ではなかったし、むしろ少しひょろっとした体つきの2歳馬だった。でも、彼には説明のつかない天賦の才があった」
しかし、ラスキンスターの何がそこまで特別だったのか?
答えは簡単だ。彼のために歌が作られたほどだった。
クリス・リーズによれば、オーストラリア競馬界の重鎮であるケン・カランダーとマックス・プレスネルの両氏は、ラスキンスターを「過去50年間で見たどの2歳馬と比べてもトップクラス」と評したという。
今週末、リーズ厩舎からもう一頭の馬が500万オーストラリアドル(約5億円)のゴールデンスリッパーに挑む。このレースは、『70秒で決まる一攫千金の勝負』とも称される。
父のマックスがオーストラリア史上最高の2歳馬を育て上げたのに対し、息子のクリスはローズヒルガーデンズの舞台に立てること自体にただ喜びを感じている。彼がこれまでゴールデンスリッパーに送り込んだ馬は、わずか一頭しかいなかった。
今年、香港の名手ヒュー・ボウマン騎手を鞍上に迎え、無敗の2歳馬リヴェリーノが出走する。この馬はラスキンスターの伝説を辿るような結果を残せるのか。
実を言うと、クリス・リーズは2歳馬をレースに向けて急仕上げするタイプの調教師ではない。オーストラリアの有力馬主たちは、毎年のように高額な2歳馬を購入し、「走るかどうかも分からないまま」ゴールデンスリッパーを目指して仕上げていく。しかし、リーズは静かに、着実に馬を鍛え上げるスタイルを貫いてきた。
「(父は)僕よりも2歳馬の育成が上手かったよ」とリーズは語る。「僕は馬を急いで仕上げることはしないタイプなんです。でも、父のやり方はしっかり見てきたわけです」
「ここ数年、馬の市場での動きも変わってきました。僕たちも少しずつ積極的にセリでの購入に動くようになったし、それが結果に結びついていると思う。優秀な2歳馬は、セリに出される馬の中に多いですからね。僕が長年扱ってきた馬は、成長に時間がかかるタイプが多かったので」

そんなクリス・リーズも、すでにオーストラリアでG1を17勝しており、調教師としての地位を確立している。だが、その道のりは決して平坦なものではなかった。
2003年、父マックス・リーズはがんとの短い闘病生活の末に他界。その直後、クリスは地元ニューカッスルのパブで友人たちと悲しみに暮れていた。その日、競馬場ではワーウィックファーム開催の地味なレースが行われていたが、そこに父の遺した最後の管理馬が出走していた。
結果は、優勝。
「キャリーオンメイト」という名のその馬は、まるで父から息子へのバトンタッチを象徴するかのように、最後の直線で突き抜けた。クリスは静かに、ジョッキービールのグラスに涙を落とした。
「父が遺した最後の馬が勝つなんてね…」
それから20年以上が経った今も、クリス・リーズは競馬界の最前線で戦い続けている。そして、彼の人生で一度だけ、ラスキンスターの背に跨る機会があった。
それは、彼がまだ小さな少年だった頃。家族の誇りであるラスキンスターの背中に乗るという夢が叶ったのだ。
その瞬間、ジョン・ウェイドが感じたものを、彼もまた感じ取った。写真を撮り、永遠の思い出とした。そして彼は、もうひとつの『ルール』を知ることになる。
彼にムチなんて、最初から必要なかったのだ。