フランケルが制した2011年の英2000ギニー、このレースは今世紀の競馬史に残る最も伝説の一戦のひとつだ。あらゆる期待を遥かに超える圧巻の内容で、この名馬はクラシック路線のライバルたちを完膚なきまでに打ち負かした。
ジャドモントファームの自家生産馬として、フランケルは3歳から5歳までの3シーズンを戦い、キャリア全14戦は無敗。そのうちG1での勝利は10を数え、距離は7ハロンから10ハロン、馬場状態は良でも重でも、直線でも左回りでも右回りでも、すべてに対応して歴代最強馬の一頭に数えられる存在となった。
だが、その伝説の幕開けともいえるのが、あの英2000ギニーでの走りだった。
オーナーであるハーリド・アブドゥラ殿下の稀代の快速馬を託されたのはトム・クウィリー騎手。あの日、クウィリー騎手はスタートから先頭を譲らず、残り2.5ハロン辺りの『ザ・ブッシュ』に差しかかる地点で2着以下に15馬身の差をつけて独走。そのまま6馬身差でゴール板を駆け抜けた。
サー・ヘンリー・セシル調教師が育てたフランケルは、まさに常識を覆す存在だった。イギリスの2000ギニーでこんなシーンを見ることなど、そうそうあるものではない。長く生きて星の巡りが合えば、もう一度見られるかもしれない、というほどの奇跡であろう。
では、その異次元の名馬を追った、同じレースを走った他馬のジョッキーたちは、あの瞬間に何を思い、何を感じたのか。
あのレースにはフランケルを含め13頭が出走していたが、他の12人のうちの一人、ルーク・モリス騎手はこのときがクラシック初騎乗で、200倍という大穴馬のスリムシェイディを4着に導いていた。一方、マイケル・ヒルズ騎手はフランケルと同じジャドモントの勝負服を着て、リルーテッドに騎乗。
当時は多くの人が、同じ勝負服のこの馬をフランケルのペースメーカー(ラビット)と見なしていた。
リルーテッドのマイケル・ヒルズ騎手はIdol Horseの取材に対し、「プランは2通りあったんです」と当時の指示を明かす。
「ヘンリー(セシル調教師)と会って、長い時間をかけて話し合いました。でも枠順が出たら、私は13番でフランケルは1番。2頭の間に全馬が入ってしまいました」
「第一の作戦は、スタートから出して行って逃げること。完全なペースメーカー役です。でも、もしフランケルに乗ったトム(クウィリー騎手)が出していく素振りを見せたら、そのすぐ後ろにつけて、他の馬たちを少しずつ引き下げていけ、という指示でした。フランケルを単騎で先頭にする作戦です」

当時のフランケルは、前進気勢を抑えきれず、前へ前へと行きたがるタイプだった。ローリーマイルの直線が長く広いコースで、最後まで持たないのではと陣営は危惧していた。
「フランケルは馬群に入れておくと、かかってしまうんです。だから(ペースメーカーとしての)私の役割は、後続馬群をゆっくりと押し下げながら、フランケルを独走状態にすることだったんです」
そしてフランケルがスタートから先頭を奪うと、ヒルズ騎手はすぐに第二の作戦『プランB』へと切り替えた。
「作戦通りにうまくいきました。とはいえ、後ろの騎手たちも状況を察していて、さすがにこれ以上はまずいと感じたのか、私を交わして前に出ていきました」とヒルズ騎手は振り返る。
「でも、最初の2ハロンはトムとフランケルを単騎にできました。少しでもハミを抜いて走れるように、というのが狙いでした……もっとも、あの馬にはそもそも作戦なんて必要なかったのかもしれませんが」
ルーク・モリス騎手が騎乗したスリムシェイディも、スタート直後から鋭く飛び出し、レース序盤の1ハロン半をフランケルの背後で追走する格好となった。モリスは当時の心境をこのように振り返る。
「レース前に考えていたのは、リルーテッドがペースメーカーになるだろうということでした。みんな、フランケルはその後ろに控えて追走するものだと思っていたんです」
「でも、うちの馬もいいスタートを切って、横を見たらジャドモントの勝負服が猛スピードで飛ばしていきました。信じられなかったですよ、それがフランケルだったなんて。完全にレースの主導権を握っていました」
初のクラシック騎乗が人気薄の馬であっても、モリス騎手はその舞台に立てることにやりがいを感じていた。フランケルの完璧な2歳シーズンと、前哨戦のグリーナムステークスでの圧勝劇が記憶に新しい中で、現実的な目標を掲げていた。
「うちの馬は大穴でしたし、掲示板狙いで乗っていました。でも、フランケルがあれだけ飛ばしたおかげで、ついていこうとした馬がバテて、うちの馬の持ち味が生きたんです」
「その結果、うまく4着に滑り込めました。でも、あの時フランケルに真っ向から競りかけたら、全員潰されていたでしょう。実際、カサメントなんかは食らいつこうとして潰されましたしね」
カサメントに騎乗していたのはフランキー・デットーリ騎手。ゴドルフィンの期待馬は、レース中盤で2番手まで進出したが、フランケルにはまったく届かない。残り半マイル、フランケルは余裕で引き離し、カサメントは早くも手応えを失っていた。
残り2ハロンで、その差は15馬身。後方からドバウィゴールドがヒューズ騎手の手綱で2番手に浮上するも、フランケルはまるで別次元を走っていた。
「とんでもない馬でした。あんなレース運びは見たことがありません。しかもあのペースで行っておいて、『ザ・ブッシュ』でさらにもうひと伸びしたんです。あの馬の持つ実力と格の違いを見せつけるような走りでした」とモリス騎手は舌を巻いた様子だった。
「どんな競馬でも勝てる馬でした。あの2000ギニーのように動いて勝つ馬なんて、普通はいません。アスコットのセントジェームズパレスSでもまた同じことをやってのけました。普通なら途中で脚が上がってしまうものですが、フランケルはまったく揺るがず、本当に無敵でした」

その日、ニューマーケット競馬場の観衆は言葉を失った。レース半ば、ファンたちは息を呑み、クウィリー騎手の騎乗に驚き、『あんなに飛ばして最後までもつのか』と不安げに見守っていた。だが、フランケルは持ったまま、まさにキャンターでゴールに辿り着いた。
「トムはあそこで息を入れて、再び促したら…もうあとは一瞬でしたね。完全に勝負を終わらせていました」と語るのは、ペースメーカー役のヒルズ騎手。
「トムは、正直あの時点ではフランケルを抑えられるかどうか、確信がなかったんじゃないかと思います。キャリアを重ねるにつれて、上手く折り合いをつけられるようになったのですが」
「よく私に言っていたんですよ。『マイク、とにかくペースはしっかり作ってくれ』と。前が遅いと抑えが利かなくなると。あの馬は行きたがるから、ゆっくりは走れなかったんですよ」
ヒルズ騎手はフランケルのデビュー2戦目、ドンカスターのレースで17馬身差をつけられ最下位。そしてグリーナムSでは10馬身差の3着となり、「完敗でした」と振り返る。そして迎えたギニー本番ではリルーテッドで8着に敗れた。
その次に再びペースメーカー役を担ったのがロイヤルアスコットのセントジェームズパレスS。ここでのフランケルは予想外のタイミングでまさかの早仕掛けを見せ、キャリア唯一の敗戦の危機を迎えた。
「あの時は本当に驚きましたよ。バックストレッチでこっちはもう全力だったのに、肩越しに見たら『うわ、もう来たのか』って。カーブで大外を回らせたくなかったから譲ったんです。でも、そこからさらに加速して、直線では脚が尽きかけてました。あれを見ると、本当に持てる力をすべて出していたのが分かります」
「確かに、あのギニーは出走馬のレベルだけ見れば突出していたとは言えません。でも、当時はそんなことは分かりませんでしたし、何より勝ち方が桁違いでした」
とはいえ、2着と4着の馬は後にG2を勝ち、ドバウィゴールドもG1・香港マイルで4着と健闘しており、決して力がなかったわけではない。ヒルズ騎手が言うように、フランケルが3シーズンにわたって積み上げた実績は、今でも堂々たるものだ。
「キャリア全体を通じて一度も負けなかったということは、同時代に匹敵する馬はいなかったということですよ。時計を見ても分かるし、私が騎乗して対戦した中でも間違いなく最高の馬でした。あれは、私が見た中で最も衝撃的な2000ギニーでした」