フランシスコ・ゴンサルベスこと、フランシスコ・レアンドロ・フェルナンデス・ゴンサルヴェス騎手が、8月下旬に札幌競馬場で行われるワールドオールスタージョッキーズ(WASJ)に参戦する。
友人であり、そして憧れの師匠でもあるジョアン・モレイラ騎手を追いかけるように、日本へと向かう。
モレイラは2024年の大会で自身2度目のWASJ制覇を達成するなど、日本の競馬ファンにとってはすでにお馴染みの存在となっている。この春も短期免許で来日し、1ヶ月間に大阪杯、桜花賞、皐月賞を制すなど、鮮烈な印象を残した。
ゴンサルベスはブラジル出身、拠点とするアルゼンチンではこれまでリーディングジョッキーに8回輝いている。日本での騎乗は今回のWASJが初めてとなるが、モレイラの活躍を通して長年、遠く離れたアジアの競馬を見続けてきた。
ゴンサルベスと同じくブラジル出身のモレイラは、海外初進出のシンガポールで圧倒的な成績を残すと、次いで香港でも競馬界に革命を起こし、日本でも短期騎乗ながら大活躍。JRAでは5つのG1勝利を含め、215勝をマーク。勝率は驚異の30%を誇る。
彼にとって、モレイラは『アイドル』だという。2人の関係は、モレイラがまだサンパウロの名門アントニオ・ルイス・シントラ・ペレイラ厩舎で頭角を現し始めた頃までさかのぼる。ゴンサルベスは当時、ブラジル北東部出身の物静かな見習い騎手で、のちに『レアンドリーニョ』の愛称で国内のファンに親しまれる存在となった。
「見習いとしてキャリアを始めた頃、シントラ・ペレイラ厩舎に入り、そこでジョアンと出会いました。彼は主戦騎手で、私は朝の調教に一緒に通う若手でした」
「ジョアンはいつも声をかけてくれて、助けてくれました。『頑張れ』と励ましてくれました。彼は心を開いている人で、何かを秘密にするようなことはしません。質問はしなくとも、私は常に彼の仕事を見ていました。当時車を持っていなかった私を、カンピナスのトレーニングセンターまで乗せて行ってくれることもありました」
「当時、モレイラはアルゼンチンに渡ったアルタイル・ドミンゴス騎手や、のちに調教師となるネリート・クーニャ騎手といったベテランたちと熾烈なタイトル争いを繰り広げていました」
現地の言葉で『オー・ファンタズマ』、つまりは『幽霊』の異名で知られ、ブラジルで確固たる地位を築いたモレイラは、その後シンガポールに渡り、記録を塗り替え続けた。やがて香港に舞台を移すと、さらに世界的な評価を獲得していく。

現在35歳のゴンサルベスも、そうしたモレイラのアジアでの快進撃を遠くから見守っていた。当時は映像でモレイラの走りを見ることも難しく、その活躍ぶりは遠い世界の憧れの存在にすぎなかった。
実はゴンサルベスにも、同じ道を進むチャンスはあった。
「面白い話ですが、私も最初からシンガポールを意識していました」と振り返る。「2015年にはシンガポールで騎乗する話があったんです。でもそのとき、私はアルゼンチンのリーディング争いでトップに立っていたんです。それでアルゼンチンに残る決断をしました」
「ところがその後、ケガをしてしまい、結局どちらの夢も叶わなかった。リーディングも取れず、シンガポールにも行けなかったのです」
「その後また招待が来たのですが、ちょうど記録に挑んでいる最中だったんです。だから、それを打ち立てた瞬間にようやく道が開けたように感じました。ずっと海外へ行くことを考えてはいましたが、記録との戦いがアルゼンチンに留まる理由でした」
ゴンサルベスは2023年、年間541勝を挙げ、南米史上最多勝記録を更新した。この記録は、世界歴代最多勝ジョッキーであるホルヘ・リカルド騎手が1993年に樹立したアルゼンチンの年間最多勝記録の477勝を抜いたうえで達成されたものだった。
「最初からの目標は、アルゼンチンで年間最多勝記録を破ることでした。477という数字を一つの目標に掲げていたんです。その記録を破った同じ年に、南米記録も更新できました。さらに高みを目指して、最終的にはシーズン541勝で世界歴代3位にまで到達しました」
ゴンサルベスはブラジル北東部のセアラー州、ソブラルという街で生まれ育った。父は農園で働いており、幼い頃から動物に囲まれた環境で育ったという。馬との出会いは6歳ごろ、野原でその辺の馬に乗って遊んでいたと話す。
「田舎育ちって感じでした。両親は競馬とは関係ない仕事でしたが、牛や馬がいる環境で育ったこともあって、独学で乗馬を学ぶことができました。」
しかし、兄のエスコバルが地元の競馬場で騎手兼調教師として働いており、ゴンサルベス自身も12歳を迎えた頃には、ソブラルとフォルタレザの競馬場で働き始めたという。
4年の間にできる限りのあらゆることを学び、サンパウロの競馬学校に入学したのが2006年の8月。当時、まだ16歳だった。
そこで出会ったのが、モレイラのかつての師匠でもあり、騎手や調教師として伝説的な功績を残したイヴァン・キンタナ師との縁。間接的ではあるが、彼に多大な影響を与えた人物だ。
「この縁は本当に偶然でしたね。イヴァンが亡くなってちょうど2ヶ月が経つころ、私はサンパウロで乗り始めました。競馬学校にはイヴァンの息子、マテウスもいて、学校では同学年でした。ですが、マテウスは身長が伸びすぎて騎手にはなれず、私のエージェントとして働くことになりました。妻のタリータはマテウスの妹です。」
ゴンサルベスの妻、タリータ・キンタナとの間には2人の娘がいる。しかし、今回の日本滞在には家族は同行しない予定だ。
彼のキャリアが本格的に軌道に乗ったのは、モレイラがすでにシンガポールや香港へ移籍したあとのサンパウロでのことだ。
「2012年と2013年にブラジルでリーディングを獲得し、翌2014年も首位に立っていましたが、その途中でアルゼンチンへ渡る決断をしました」
それ以前にも2度、アルゼンチンで騎乗していた経験があり、2011年末にはブラジル調教馬ヴェラネイオでG1・カルロスペレグリーニ大賞に挑み、2着に好走していた。
「あるブラジル人記者が、『アルゼンチンの優秀な調教師がブラジル人騎手を探している』と教えてくれたんです。すでにアルゼンチンの馬と競馬場に魅了されていたので、結果はまったく読めませんでしたが、それでも思い切ってそのチャンスを掴みました。自分がここまで成功するとは夢にも思ってもいませんでした」
彼をスカウトしたのは馬主のナチョ・パブロフスキー氏で、現地ではホルヘ・ニール調教師とともにコンビを組んだ。ただし、アルゼンチンでの最初の6ヶ月間は、オーナーのためにしか騎乗できないという制限付きだった。それでも、サンイシドロ、パレルモ、ラプラタという3大競馬場での初年度は見事に成功を収め、現地の注目を集めた。
「自分でも驚きました。最初のG1騎乗はその6ヶ月間で実現しました。1人のオーナーの馬にしか騎乗できない制限がありながらも、G1で3着に入る好成績を収めました。2年目には大きな期待が寄せられましたが、ひどい落馬をして脚を骨折してしまいました」
シーズン序盤、パレルモ競馬場の1000m直線戦でスタート直後に馬が頭を上げて進路を乱し、ラチに突っ込んでしまったゴンサルベスは、激しく弾き飛ばされ骨折。5ヶ月の離脱を余儀なくされ、リーディングの夢は潰えた。
しかし彼は復帰し、2016年には初めてアルゼンチン年間最優秀騎手に選出される。そして2018年以降はそのタイトルを独占してきた。
「単発の重賞を勝つのとは違います」と、このタイトルについて語る。「これは長年の積み重ねの結果です。だからこそ、自分にとって本当に意味のある達成なんです。そしてそれは、私の名前が南米競馬の歴史に刻まれるということでもある。それがブラジル出身の自分にとって、特別な意味を持つんです。というのも、ブラジルではジョッキーは評価されにくい環境ですから」
「アルゼンチン、特にパレルモ競馬場のような都市部の競馬場では熱心なファンが多く、まるでハッピーバレー競馬場のようなんです。写真を撮ってくれたり、声をかけてくれたりと、本当にありがたく思っています。なぜならブラジルでは、誰も私に写真をお願いするようなことはありませんでしたし、私のことも、ジョアン・モレイラのことも知らない人が大半でした。でもアルゼンチンでは、競馬場の外でも私を認識してくれる人がいるんです」
モレイラは日本の競馬界で愛され、ファンからの人気も高い。ゴンサルベスも札幌で良いファーストインプレッションを残すことができれば、モレイラも味わったファンの熱狂を体感することができるはずだ。