アガ・カーン4世こと、本名カリム・アル・フセイニ王子。約2,000万人のイスマーイール派シーア派ムスリムにとっては宗教的指導者であり、『マウラーナー・ハザル・イマーム』として知られていたが、競馬ファンにとっては『アガ・カーン殿下』の名で親しまれた。名馬を生産・所有する富豪であり、特徴的な赤い肩章が入った緑の勝負服は、伝説的名馬シャーガーをはじめとする数々の名馬とともに記憶されている。
誘拐事件で行方不明となったシャーガーのほか、この勝負服をまとって活躍した名馬には、シンダー、ザルカヴァ、トップヴィル、ブラッシンググルーム、ダラカニ、ダルシャーン、シャーラスタニ、カヤージ、ドユーン、アザムール、カラニシ、アキーダ、ティマリダ、デイラミ、センダワール、アシュカラニなどがいる。また、父とともに所有した名牝プチトエトワールは、アガ・カーン家の伝統的な緑とチョコレート色の輪帯の勝負服をまとって走った。
アガ・カーンの名は、1969年にシンガーソングライターのピーター・サーステットが世に送り出したヒット曲「Where Do You Go To (My Lovely)?」の歌詞にも登場する。「君の名は高貴な世界で響き渡る/アガ・カーンも君を知っている/彼はクリスマスに競走馬を贈った/君はそれをただ楽しみのために飼っている」。


宗教指導者、億万長者の実業家、かつての冬季オリンピック選手であり、さらにアガ・カーン開発ネットワーク(AKDN)を通じて発展途上国の人々の生活向上に尽力した慈善家でもあった。
アガ・カーン殿下は2月4日、リスボンで家族に見守られながら88歳で逝去した。1936年にスイス・ジュネーブで生まれ、1957年に祖父ソルターン・モハンマド・シャー・ホセイニー(アガ・カーン3世)の死去に伴い、20歳でニザール派イスマーイール派の第49代イマームに即位。父アリ・カーン王子ではなく、彼に継承されたことで、1300年の歴史の中でわずか2度目の世代跳び越しとなった。
彼の祖父は名高いオーナーブリーダーであり、ブレニム、バーラム、マームード、マイラヴ、タルヤーといった馬でエプソムダービーを制したほか、名スプリンターであり重要な繁殖牝馬となったムムタズマハルを所有していた。彼が築いた影響力のある生産拠点は、孫であるアガ・カーン4世によってさらに発展を遂げることとなる。
父、アリ・カーン王子は社交界の名士であり、アマチュア騎手としても活躍した馬主で、血統や馬の能力に関する深い造詣を持っていた。一時は女優リタ・ヘイワースと結婚していたが、1960年に48歳の若さでパリにて交通事故で亡くなった。
母、ラジュダウダ王女(ジョーン・ヤード=バラー)は、イギリスのチャーストン男爵家に生まれ、後に再婚を経てカムローズ子爵夫人の称号を持つこととなる。カリム王子(アガ・カーン4世)は、ヨーロッパの旧家貴族と南アジアの王族、さらには宗教的背景を併せ持つ世界に生まれ、その特異な立場ゆえに、ニザール派イスマーイール派の人々を取り巻く複雑な政治環境に対応する能力を備えていた。
サラブレッドのオーナーブリーダーとして、彼が統合し発展させた血統の影響力は、過去60年において他のいかなるオーナーブリーダーよりも大きいものだったと言える。
「アガ・カーン殿下は史上最高の馬主の一人であり、彼の死は競馬界全体にとって大きな損失です」と、クリストフ・ルメール騎手はIdol Horseの取材に語った。日本のリーディングジョッキーであるルメールは、2009年から2013年までアガ・カーン殿下と契約を結んで主戦騎手を務めていた。
「彼の生産牧場、そして馬主としての活動は競馬界において極めて重要なものでした。そして彼自身について言えば、競馬界においてまさに“生ける神”のような存在であり、彼のオーラとカリスマ性は業界全体にとって非常に大きな意味を持っていました」

アガ・カーン4世は父の死後、ファミリーの競馬および生産事業を引き継ぎ、それをさらなる競馬帝国へと発展させた。その65年の間に、彼の勝負服はG1競走160勝を記録し、馬を走らせた各国でリーディングオーナーに20回、リーディングブリーダーに15回輝いた。凱旋門賞を4勝、ダービーを5勝、愛ダービーを6勝、仏ダービーを8勝。1984年にはラシュカリが記念すべき第一回のブリーダーズカップ・ターフを制した。さらに、殿下の勝負服は香港やドバイの大レースでも凱歌を揚げている。
彼の生産拠点は、アイルランド(ギルタウンスタッド、シェシューンスタッド、サリーマウント、バリーフェア)とフランス(ボンヌヴァル牧場、セントクレスピン牧場、ウイリー牧場、トゥポ牧場)にまたがる二大拠点制を採用。さらに、フランソワ・デュプレ、マルセル・ブサック、ライオネル & ブルック・ホリデイ、ジャン=リュック・ラガルデールといった名だたる生産者の繁殖牝馬を買収することで、自らの血統の質をさらに高めていった。
オーナーブリーダーとしての方針に対する批判があるとすれば、それは3歳シーズンを終えた後も現役を続けた牡馬が極めて少なかった点だろう。そのため、名馬たちがより長く走ることで真の偉大なチャンピオンとしての地位を確立する機会を逃してしまったとも言える。クラシックシーズン後にゴドルフィンへ移籍し世界的な成功を収めたデイラミの活躍は、競馬界が失ったかもしれない可能性を垣間見せるものだった。しかし、この戦略は生産部門を持続可能なビジネスとして運営する彼の手法に適していた。
また、彼は信念の人でもあり、3つの著名な事例で調教師を断固として擁護した。1981年のチャンピオンステークスを制したヴァイランがドーピング検査で陽性反応を示した際、後に潔白が証明されたフランソワ・マテ調教師を支持。1985年のブリーダーズカップでラシュカリが偽陽性反応を示した際にはアラン・ド・ロワイエ=デュプレ調教師を擁護。そして、エプソムオークスでアリサが失格となった際にはマイケル・スタウト調教師を支持し、イギリス競馬界との対立を招いた結果、4年間にわたりイギリスから馬を撤退させた。
一方で、ルカ・クマーニ調教師の管理馬から2頭が禁止薬物の陽性反応を示した際には、同調教師から全馬を引き上げる決断を下している。騎手に関しても厳格な姿勢を貫き、クリストフ・スミヨン騎手との契約を2度解除。1度目はアンドレ・ファーブル調教師に対する発言が不敬と見なされたことが一因とされ、2度目はレース中にロッサ・ライアン騎手を肘打ちで転倒させるという危険行為が直接の理由となった。
アガ・カーン殿下は時代を彩る名騎手たちの手腕を活かした。イヴ・サン=マルタン、ジョージ・ムーア、レスター・ピゴット、ウォルター・スウィンバーン、ジェラルド・モッセ、マイケル・キネーン、ジョニー・ムルタ、パット・スマレン、クリストフ・スミヨン、クリストフ・ルメールらが歴代の主戦騎手にその名を連ねる。


「彼の専属騎手として、あの緑と赤の勝負服を着ることは極めて稀な名誉でした」とルメールは語る。彼がアガ・カーン殿下の勝負服で挙げた最も大きな勝利は、2010年のG1・ディアヌ賞(仏オークス)におけるサラフィナの勝利だった。
「彼の馬に乗ることを誇りに思っていました。特にG1の舞台で勝利し、殿下がウィナーズサークルにいらっしゃる時の喜びは格別でした」
「彼の威厳、カリスマ性、そしてオーラ……彼の前に立ち、言葉を交わすのはとても印象的な経験でした。それでいて、彼は会話の中でこちらが自然体でいられるような言葉をかけてくれる方でした。もちろん、敬意を持って接するべきお方でしたが、とても親しみやすくもありました」
「それに、常に人の話に耳を傾け、何かを学ぼうとしているように見えました。長年の経験を持ちながらも、騎手の話にしっかり耳を傾けてくださいました。もちろん、最終的な判断はご自身でされていましたが、とても働きやすい方でしたし、お会いするたびに特別な時間を過ごしました。殿下と会う時間はいつも素晴らしいものでした。だからこそ今はとても悲しい気持ちです。競馬界の伝説を失ってしまったのですから」
ルメールの想いは、競馬界を超えて広く共有されている。