シドニーのような都市で観客を集めるには、よほどの出来事でなければならない。息が詰まるような交通渋滞、高すぎるビールや食事代、気まぐれな天気、押し寄せる人混み、あるいは、わざわざ出かけなくてもソファに座ってテレビで見たほうが快適、という人も多いだろう。
しかしメルボルンは違う。メルボルンの人々はどんなイベントにも足を運ぶ。「彼らは注目されるためなら、封筒の開封式にさえ行く」と冗談を言われるほどだ。伊達に『世界のスポーツの都』を名乗っているわけではない。
そんな中、火曜日にはちょっとした異変が起きた。シドニーの人々が、普段なら見向きもしない “試走(バリアトライアル)” に集まったのだ。競馬場に足を運んだ観衆は1000人以上。公開調教に彼らの足を運ばせたのは、世界最強と評されるカーインライジングと、バーベキューで無料配布されたベーコンエッグロール、そしてお馴染みのコーヒー(ロングブラック)だった。
ある観客は「平日の開催でこれほどの人は集まらないだろう」と冗談を飛ばした。それも当然だ。カーインライジングはカンタベリー競馬場やワーウィックファーム競馬場で行われる、いつもの水曜開催に出るような馬ではない。
観客たちは入場ゲートをくぐり、ロイヤルランドウィック競馬場の『シアター・オブ・ザ・ホース』に並び、パドック周回する彼の姿を見ようと階段席を埋めた。その後はフェンスに身を乗り出し、カーインライジングが10月18日に行われる賞金総額2000万豪ドルのレース、G1・ジ・エベレストの舞台を確かめる様子を見届けた。本番前にただ一度だけ与えられた、貴重なテストだった。
その朝、異例だったのは観衆の多さだけではない。香港発のスーパースターは、検疫制限が緩和されつつある中で、単独でパドックを歩いたのだった。
一方、同じ試走に参加した他馬、ジ・エベレスト候補のジョリースター、オーバーパス、エンジェルキャピタルなどは通常どおり、反対側の待機所で発走を待ち、ゲート裏でカーインライジングと合流した。
実際の走りがどうだったかは、もはや大きな問題ではなかった。重要なのは、彼にとって初めての外国の地で、外国のコースを経験すること。これは馬自身だけでなく、陣営にとっても貴重な教育の機会だった。
パドックでの振る舞いについては、まだ改善の余地があるかもしれない。
曇り空の下、カーインライジングは後肢の間に目立つ汗をかいていた。パドックで少しテンションが高くなるのは彼にとって珍しいことではない。しかし、本番では5万人の観客がロイヤルランドウィック競馬場に押し寄せる。蒸し暑い大舞台の中で、果たして落ち着いていられるだろうか。
試走では大外枠から鋭くスタートを切ると、ザック・パートン騎手は馬を外めに出し、ほとんど追わず、余力を残したまま3着でゴールした。先着したのはラインバッカーとオーバーパスで、着差は短頭、アタマ。オーバーパスのほうがはるかに強く追われていたが、カーインライジングは終始楽な手応えだった。とはいえ、結果自体に大きな意味はなかった。
むしろ注目すべきは、バリアトライアル後のやり取りだ。カーインライジングを管理するデヴィッド・ヘイズ調教師はいつも笑顔を絶やさない。一方、パートン騎手は率直な性格で、思ったことをそのまま口にするタイプだ。
パートン騎手が「まあ、合格点ですね」と試走を評したとき、ヘイズ調教師がすかさず口を挟んだ。
「ザックは悲観的になりがちだということを覚えておいてください」とヘイズ調教師。
「お隣にいるのはどこまで行っても楽天的な方ですからね」とパートンは上手い返しを見せる。
では、実際のところはどうなのか。カーインライジングの馬体重は通常より約9キロほど重いが、検疫と輸送の影響を考えれば、それはむしろ健全だと陣営は考えている。調教師も騎手も、レース当日までに体を絞りたい考えだ。
どれほど優れた馬であっても、オーストラリアの一流スプリンターたちをその本拠地で相手にするのは容易ではない。
ただし、真の懸念は “馬場” にある。シドニーの馬場は、カーインライジングが慣れ親しんだシャティン競馬場の芝コースよりも柔らかい。
月曜日、ヘイズ調教師は「試走ではしっかりと負荷をかけるつもりだ」と語っていたが、実際にはパートンが馬を抑え気味に乗った。
「ここへ遠征して、ライバルに挑まなければなりません。馬場はおそらく私たちの好みではないでしょう」とパートンは率直に語った。
「シャティンはもっと硬くて速い馬場です。今日は彼が慣れている馬場よりも柔らかかった。でも、それもまた挑戦の一つですし、楽しみにしています」

幸いにも、シドニーの今後11日間の天気予報は晴れ続きだ。カーインライジングにとっては、望み通りの馬場が見込める。これまで幾度もの危機を乗り越えてきた彼にとっても、追い風となりそうだ。
香港のシーズン開幕戦では、接近する台風の直前に何とか出走を果たした。そしてオーストラリアでは、シドニー西部での事件が話題となった。日曜夜、男が車や通行人に向かって無差別に発砲するという事件が、カーインライジングが滞在しているカンタベリーパークの近くで発生したのだ。
警察によると、小さな商店の上にあるアパートから道路に向けて最大50発の銃弾が撃ち込まれたという。死者が出なかったのは奇跡だった。現場は検疫センターから約2キロの距離。月曜朝、ヘイズ調教師がカーインライジングの様子を確認したところ、彼はいつもどおり元気だった。
関係者はカーインライジングを、エベレスト当日に使用する予定のロイヤルランドウィック競馬場のレース馬房に連れて行ったが、この日は観客が間近で馬を見ることは許されなかった。
「6週間ぶりの実戦ですから、本当にひと叩きが必要でした」とヘイズ師は説明する。
「シャティンでは、他の馬と一緒にトンネルを通るときにかなり神経質になりますが、ザック、あるいは誰が乗っていたとしても、首を軽く撫でるとすぐに落ち着くんです。今日のカーインはまさにそれでした」
「レース当日にはさらに良くなるでしょう。そうでなければなりません。なにしろ、5万人が集まるのですから。今日という日は馬にとって非常に重要でしたが、担当スタッフにとってはさらに大切な一日でした。彼らはシャティンを熟知し、非常に優秀ですが、ここでは環境がまったく違いますからね」
オーストラリアンターフクラブ(ATC)は、月曜夜にG1・ジ・エベレストの一般入場券を完売を明らかにした。明らかにカーインライジング人気の影響だ。
「開催2週間前で完売とは過去最速です。バリアトライアルだけでこの熱気ですから」と、ATC暫定CEOのスティーブ・マクマホン氏は語った。
カーインライジングは依然としてG1・ジ・エベレストの単勝1.5倍の本命に据えられており、2019年のウィンクス引退レース以来、最も注目を集めるこの一戦ではオッズはほとんど動かないだろう。
あの偉大な牝馬でさえ、これほどの観衆を試走で集めることはできなかった。関心が分散しやすい街のシドニーで、これほどの熱気を生んだこと自体が驚きである。これは、本物の馬が本物のレースに備える姿であり、人々はその “練習” を見届けることを楽しんでいた。